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〔『虹の通り(Rainbow Row)』:『歴史地区』『サウスカロライナ州・チャールストン (Charleston,South Carolina-SC)』にて 〕 『虹の通り(Rainbow Row)』:渋いレンガやペイントされた家並は、まるでレインボー・・・^〜^♪:『サウスカロライナ州・チャールストン (Charleston,South Carolina-SC)』 にて 〔2011.07.14〕 今年の夏休みは、7月8日から19日までの期間、 米国南東部のジョージア州・テネシー州・ケンタッキー州・ノースカロライナ州・サウスカロライナ州 計五州を一巡り、約3500kmのドライブの旅。 八日目の行程は、 米国・建国以前から奴隷貿易の貿易港として栄えた港町 『サウスカロライナ州・チャールストン (Charleston,South Carolina-SC) 』の 歴史ある教会や邸宅がならぶ歴史地区は、 その昔、貿易で大きな富を得た豪商たちが住んだ町、 レンガ造の家は 渋い色を、 ペイントされた家は 楽し色に... 日本と同じ夏の花が咲く カラフルな『虹の通り(Rainbow Row)』散策・・・^〜^♪ 【訪問時期:2011.07.08-19】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 . |
建 物・公園
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〔『銅像:スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster)』:『ケンタッキーの我が家 州立公園(My Old Kentucky Home State Park)』・『ケンタッキー州・バーズタウン(Bardstown,Kentucky-KY)』にて 〕 4-02.『ケンタッキーの我が家(My Old Kentucky Home)』:所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけで37歳で亡くなった、フォスター思い出の館・・・^〜^v:『ケンタッキーの我が家 州立公園(My Old Kentucky Home State Park)』・『ケンタッキー州・バーズタウン(Bardstown,Kentucky-KY)』にて 〔2011.07.11〕 今年の夏休みは、7月8日から19日までの期間、 米国南東部のジョージア州・テネシー州・ケンタッキー州・ノースカロライナ州・サウスカロライナ州 計五州を一巡り、約3500kmのドライブの旅。 この日は、初めての『ケンタッキー州』へ日帰り、 訪れたのは州内で二番目に古い町『バーズタウン(Bardstown)』 『テネシー州・ナッシュビル』から、北東へ270km(170Mi)程走った所。 この町は、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家の 『スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster)』所縁の地。 この町には、「我が家」のモデルといわれる フォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの館が、 州立公園として、保存されています・・・^〜^v 【お詫び:レンガ造りの豪華な屋敷の内部は、撮影禁止のため御紹介できないのが残念です(涙)】 【訪問時期:2011.07.08-19】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【ケンタッキーの我が家(英:My Old Kentucky Home)】は、 1852年に スティーブン・フォスター(Stephen Foster)によって作詞・作曲され、 1853年に出版された。 1928年3月19日には公式州歌としてケンタッキー州議会により採用される。 州北部の町バーズタウンにあるフォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの家が、 この「我が家」のモデルといわれる。 . 【スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)】は、 ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。 20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレル歌曲である。 多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。 「アメリカ音楽の父」とも称される。 |
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〔『ピカソの生家』:『マラガ(Málaga)/スペイン』にて〕 【画面右下の◎上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『ピカソの生家』:家の前の広場は、幼少の頃のお友達『鳩(パロマ)』との遊び場・・・^〜^v:『マラガ(Málaga)/スペイン』にて〔2010.09.26〕 ピカソ美術館の近くには、貝殻の飾りの大きな門の教会が、 ここは、彼が洗礼を受け、 そして、ピカソの両親が結婚式を挙げた場所『サンティアゴ教会』。 そして、『人形の博物館』を通り越したあたりに、 大きな五階建ての建物が、 ここの一角が『ピカソの生家』、 そして、家の前の『メルセー広場』は、彼が幼少の頃の遊び場、 娘の名前にもした大のお友達は『鳩(パロマ)』・・・^〜^v 【訪問時期:2010.09.16-28】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 . 【パブロ・ピカソ(Pablo Picasso、1881年10月25日 - 1973年4月8日)】は、 スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。 ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムを創始した。 生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、 最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。 ピカソの洗礼名は聖人や縁者の名前を並べた長いもので、長い名前の例としてよく引き合いに出される。 諸説あるが、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、 パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、 マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、 デ・ラ・サンティシマ・トリニダード (Pablo, Diego, José, Francisco de Paula, Juan Nepomuceno, María de los Remedios, Crispin, Cripriano, de la Santísima Trinidad)である。 フルネームはこの後に、父方と母方の姓ルイス・イ・ピカソ(Ruiz y Picasso)が続く (スペインでは一般的に父方と母方の姓を順に併記する)。 スペインのマラガでは、このような長い名前が普通だという。 画家として活動を始めたピカソは、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、 ある時期から父方の姓のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。 ちなみにルイスはスペインではありふれた姓だが、ピカソは珍しいものである。 |
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〔『太田垣蓮月仮寓跡』:『醍醐寺』門前(京都府京都市伏見区)にて 〕 【画面右下の◎上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『太田垣蓮月・仮寓跡』:『醍醐寺』門前で、江戸時代の歌人・陶芸家の素敵な「かりずまい」を発見・・・^〜^v:『醍醐寺』門前(京都府京都市伏見区)にて〔2011.02.24〕 こんばんは〜! 『醍醐寺』門前に、とっても素敵なお家があるんです。 江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家『太田垣蓮月』のかりずまい〔仮寓(かぐう)〕 彼女は、住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好き、 そんな彼女が選んだ素敵なお家が、 『醍醐寺』の門前にちゃんと建っているんです・・・^〜^V 〔訪問時期: 2011.02.24〕 【大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)】は、 江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。 俗名は誠(のぶ)。 菩薩尼、陰徳尼とも称した。 京都の生まれ。 実父は伊賀国上野の城代家老藤堂良聖。 誠は、生後10日にして京都知恩院門跡に勤仕する山崎常右衛門(後に本姓に戻し、大田垣光古)の養女となった。 養父の光古は因幡国出身で、誠を引き取った当時は知恩院勤仕といえども不安定な立場にあったが、 同年8月には知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となった。 生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となった。 この生母の結婚が縁で、寛政10年(1798年)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らした。 蓮月が出家した年に、大田垣家は再び彦根藩より古敦という養子を迎え、知恩院の譜代を継承させた。 その頃、西心は知恩院内の真葛庵の守役を命じられ、蓮月親子と共に庵に移った。 しかしながら、この生活は長くは続かず、二年後には古肥との間の女児が亡くなり、 その二年後には養父西心までが亡くなった。 養父の死を期に、連月は生まれ育った知恩院を去って、岡崎村に移った。 その後の蓮月は住居を転々とし、「屋越し蓮月」と呼ばれるほどの引越し好きとして知られた。 出家後の蓮月は、若き日の富岡鉄斎を侍童として暮らし、鉄斎の人格形成に大きな影響を与えた。 また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。 住居としていた西賀茂村神光院の茶所で、明治8年12月10日、85歳で没したが、 別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたという。 |
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〔『マリーナ像』:『東遊園地』(兵庫県神戸市中央区加納町6丁目)にて〕 『東遊園地』:ふだんの追悼の地は、何もなかったように・・・! :『東遊園地』(兵庫県神戸市中央区加納町6丁目)にて〔2011.01.21〕 今日の午後、所用の後『東遊園地』(兵庫県神戸市中央区加納町6丁目)に、 ルミナリエでは、あんなに多くの人で賑わっていた場所、 追悼の地は、冬空の下で、何もなかったように、 しずかに時がとまったままでした・・・! 【訪問時期:2011-01.21】 【東遊園地(ひがしゆうえんち)】は、 兵庫県神戸市中央区加納町6丁目にある都市公園。 神戸市役所の南、フラワーロードの西に広がる。 神戸市が管理する。 1868年に外国人居留遊園の名称で開園した日本で最初の西洋式運動公園とされる。 開園当時は外国人専用であった。 公園内には、ボウリング発祥の地の碑・近代洋服発祥地の碑などの各種の記念碑がある。 また、慰霊と復興のモニュメント・1.17希望の灯りといった阪神・淡路大震災関連のモニュメントも、 公園内にある。 毎年1月17日におこなわれる阪神・淡路大震災の追悼行事では、主要会場のひとつとなっている。 また、毎年12月におこなわれる光の祭典「神戸ルミナリエ」では、 東遊園地のグラウンドが終端の会場となっている。 なお東遊園地の「遊園地」の名称だが、 今日の日本語での一般的な遊園地の意味とは異なり、「公園」と同義で使われている。 この公園の名称については当初より「内外人公園」など様々な呼び方がされていたが、 1922年に「東遊園地」と呼ばれるようになった。 旧居留地の東に位置することが名称の由来となっている。 歴史的には旧居留地の開設に伴い、外国人専用の運動公園として開設された。 園内のグラウンドで外国人らが野球、ラグビー、サッカー、ボウリングなどのスポーツを行ったことで、 日本にそれらのスポーツが広まるきっかけとなった。 |




