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ひと、みらいすね。

未来ってのは、いつも背中しか見えなくて、こっちを振り返ることもしなければ、事情を考慮して速くなってくれたり、遅くなってくれたりすることもない。唯唯同じ。いつも同じ。

後ろ姿がすごく魅力的で、どんな顔しているんだろう?きっと美しいんだろう。見てみたい、触れてみたい。

そう思って、懸命に追いすがり、顔を見るまでの道中どんな困難があろうと、それを見るためなら頑張れた。

ところがどうだろう。年々、その未来の後ろ姿が、魅力的なものではなくなっていく。

顔を見たいどころか、後ろ姿さえ見るに堪えない醜怪なものに変わっていく。

今と過去には、懸命に追いかけた元未来。

死屍累々たるそれらは、どれも想像して追いかけたものとは大きくかけ離れた、美しさなどどこにもない残念なもの。

たくさんのそれらが、がっかりさせられた元未来たちが、これからの未来の魅力を奪う。多少綺麗な後ろ姿が見えても、きっと前から見てしまえば、醜悪で滑稽なものなんだろう。なんて。

未来が美しく魅力的に見える。

それは若さなんだろう。

年齢なんかは二の次で、

懸命に未来を追いかけられる。それが若さなんだろう。

だって、僕などは追いかけなくても、来ちゃうもんね。未来。

何だったら逃げてるのに、追いついてきちゃうもんね。未来。


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「扉をたたく人」  2007年 アメリカ  監督 トム・マッカーシー

タイトルが気になって、ジャケ見てタイトルが扉をたたく人なのに、思いっきり太鼓叩いてるのがきになって観てみたのだけど、当たるよね。当たりだよね。

大学教授が所有しているのか借りているのか、何せ仕事であまり使わず空けがちになっていたアパートに、シリアだかどこかからの移民で絶賛不法滞在中のカップルが、誰かに騙され勝手に住んでいた。

そこへ、大学教授が来る。当然、誰やお前、お前こそ誰やねん。と揉める。不穏な出会い。

冷静にお互いの事情、経緯を話し合ってみると、移民カップルに悪気はなく、大学教授もほったらかしにしていた責はあるのやもしれんみたいになって和解。

しばらく、住んでいていい。と大学教授。ありがとうと移民カップル。

奇妙な同居生活のなかで育まれる友情。

しかし厳しい現実に引き裂かれる友情。

でも、きっと彼らにはほんの少しの間だけでも、美しい未来が見えたと思う。

善哉。

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「マイボディガード」   1980年  アメリカ  監督 トニー・ビル

ある学校に転校してきた少年。定番通り早速イジメの標的にされる。

そこで、学校にあまり来ない人殺しの噂があり、不良少年グループも怯えて手を出せない、謎の多い、身体のとても大きな少年にボディガードを依頼する。

この大きな少年の名前がリンダーマンww高橋ヒロシの漫画クローズに出てきたリンダマン、これがモデルやろ?w見た目も服装もよく似てる。

ボディガードを依頼されたリンダーマン、そんなことには、全く関心を示さず、勝手にしろ、みたいに初めはあしらうのだけど、イジメられっ子の熱意誠意に徐々にほだされ、ボディガードというよりは友達になる。

ベタなストーリーだけど、良いですよね。こういう友情。

善哉。

上記二作ともに、世をすねた人間が、前向きに生きている人間に出会い、麻○彰晃かな?みたいに見えていた後ろ姿の未来が、とても魅力的で美しく均整のとれたものに形を変えて見えてくる、その過程が微笑ましい。

未来を美しく思える条件に、「人」ってのは不可欠なんだな。

みたいなことを。

そう思いました。






刀鍛冶の人が、力一杯目一杯ガツーンガツーンなんて赤く熱した鉄をトンカチで打ち付けている光景を、テレビやなんかで目にしたことのない日本人はいないだろう。と思うけどどうだろう。

あれ、単純に刀の形を作るために打ち付けているということだけではなくて、ああして強く何回も打ち付けることによって、鉄の中の不純物を取り除くという意味もあるらしい。ということをこの間「にらぎ鬼王丸」という漫画で知った。

人間が赤くなるときって、怒ったときが代表格。

怒ると人は赤くなる。

怒るということは、僕が思うに、その人間の底だと思うんですよね。だからよく怒る人は底が浅い、とも言えそう。

しかし、底を見せるというのは悪いことばかりでもなくて、そこが底ならそこからがその人の素。

その怒りから逃げないことで、その人はそこから伸びる。

人を教えるとき、その人の感情を敢えて逆なでするようなことを言い、怒りとまではいかなくても、不安、不満、引っかかりを演出して、余裕を排除する。嫌われ役を演じることで、常にこちらに対して熱をもってもらい、さらには逃げ場を奪い、そこを、叩いて不純物を出してしまう。と同時に形も整える。

いつしか、教え子は超斬れて折れない刀に。

なんて、教育方法を職人といわれる人達、あるいは芸術家、一流のスポーツ選手なんかで受けてきた人は少なくないんじゃないか。なんて、勝手な想像。

怒りに限らず、何かに熱中する、恋する、喉から手が出るほど欲しいモノがある、なんて場合もそれは熱で、そのことに邁進する途上で起こる様々や、色々もそれは熱をもったその人を叩いて不純物を取り除いてくれる。と同時に形も整えてくれるのかも。

なんてね。僕には今、怒ることも熱中することも何もないや。

底なしだ。

底のないものには、何も貯まらない。

浅くてもあった方がよいよ。

底。


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「セッション」  2014年  アメリカ  監督 デイミアン・チャゼル

この映画スゲー。

の一言に尽きる。

剥き身でぶつかり合いお互い傷だらけになっても、まだ已まぬ音楽への情熱、何もかもを溶かしてしまいそうな熱のなかで叩き合う師弟関係。

ラストは鳥肌。

一道に通ずる者は萬道に通ず。

どの川も最終的に流れ着くのは海。

どんなことでも、極めれば。

努力の仕方、そこに注ぐ熱量のかけ方、

真剣になれば、どれも同じだと。

雄弁だな。

この作品。

善哉。

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「ピクセル」 

地球の情報を宇宙に飛ばして、異星人と交流を図ろうみたいなプロジェクト。

そのプロジェクトで送った情報の中にゲーム大会の映像があって、上手く異星人に届いたのはいいけど、それを見た異星人、それを地球人からの宣戦布告だと勘違い、その映像資料にあったゲームのキャラに扮して、地球を侵略しにくる。

この危機に呼び出されたのが、映像中のゲーム大会の参加者、その上位入賞者たち。

キャラの特性を把握している彼らは、その知識とゲームの腕で地球を救うべく戦う。

みたいなストーリー。

たかがゲーム。されどゲーム。

極めれば、それ、地球を救うかも。

どんなことだって、真剣で、ふんだんな熱量をもって臨めば、

花開く。とは限らないけど、

人間的な成長は必ず伴うんだね。

何かに懸命になったことのある人間は、そうじゃない人に比べて、

きっと最期、「生きた。」と言えると思う。

何かと余裕で生きている人を、何故か格好いいと思ってしまうのだけど、

それは何も懸命になるものがないだけで、

何かある人には、きっと余裕なんてない。

そっちの方がずっと格好いい。んじゃないかな。

俺?俺、今メッチャ余裕。何かと余裕。・・・ダサッ。

そう思いました。





君子危うきに近寄らず。とかって言葉がある。

この言葉に照らし合わせると、僕などは到底君子とは言えない。どころかその距離億光年の彼方。

つい去年くらいまで、家にいた者を味方だと思い込んでいたら、実はシロアリでそれに調子よく何も考えず疑わず、餌をやり続けて、家が傾いてようやく気づいたし、吹けば飛んでしまいそうな小さな会社に何となく勤務しているし、危ういことしか周りにないんじゃないかと思うような環境で生きている。

ただいつ死んでもいいという強気な弱気の考えがどこかにあるから、多少辛かろうが危なかろうが気にならない。が、これがいけない。何ビビってんだよ、日和ってんだよ、やらなきゃわからんじゃないかってよくないものに近寄ってしまう。

死んで責任取るなんて、そんなものが通用するのは昔のお侍さんとかの時代のことで、今の時代死んで取れる責任なんてたかがしれている。

危ういものに近寄って、何かやらかしてしまうと、生きて償わなくてはいけない。贖罪に充てる日々というのは辛かろう、それこそ死んだほうがマシと思えるくらいに。

いつ死んでもいいと思えるなら、そのタイミングで死ねばいいんじゃない?と思われるかもしれないけど、いつ死んでもいいと、いつでも死ねる、は違う。いつ死んでもいいのだけど、自ら死ぬことはできない、だっておっかないもん。

受動的な死はどれだけ理不尽だろうと受け容れるが、自ら手を下すことはできない。だっておっかないもん。

生にも死にも積極的に働きかけることができない今の立ち位置は、酷く愚かでみっともない。

自覚はあるけど、動けない。目的地が決まらないのに走り出す。それ逆方向かもしれない。そう思うと動けない。

行っちゃいけない方に行っちゃうかもしれない、そう思うと動けない。

危ないものになんて誰も好き好んで近寄らない。

要するに君子ってのは、危ういものを分かっている人のことをいうんだな。

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「悪魔の存在を証明した男」  2014年 アメリカ 監督 デヴィッド・イァング

幸せ絶頂家族であったのに、奥さんがある占い師の助言に従った行動を取ったら事故死。

あの時、あんなもん信じなかったら・・くそう、神ファッキン、悪魔シット、超常現象んなもんあるかいボケ。

みたいになった旦那。

自ら悪魔の存在を否定しようと、体を張って、様々な実験を行う。

その結果、皮肉にも悪魔の存在を証明してしまうことになる。ていうか、なったの?これどうなんだろう?変な薬とかたくさん飲んでたし、精神状態は元々普通じゃなかったし、そういう状況下で見た幻覚とか精神倒錯の類じゃないかとも思う。

悪魔とか幽霊とか、あとみんなが好きな神様とかいうのもそうだろう、危ういよ。こういうの。近寄らないにこしたことない。

向こうから働きかけてこない限り、関わらない方がいい。

運不運に一喜一憂。人間なんてそれでいいんじゃない?神様とか悪魔とかそんなものの介在をいちいち信じていたら、言い訳だらけの人生になってまう。

この旦那も、あ〜運が悪かったな〜も〜なんだよ〜。くらいでいれば、こんな大事にはならなかったろうに。

君子危うきに近寄らず。

そう思いました。




先日会社の飲み会で見た光景。

会社というところは残酷で、学校やなんかだと、落ちこぼれてもそれは個人の責任の範疇で、誰に迷惑をかけることもなく過ごせる。

ところが、会社となると話は別で、仕事ができないと周りの人間にリアルに迷惑がかかる。そしてこれは学校も同じだろうけど、できないことで存在自体が侮られてぞんざいな扱いを受けたり、時には暴言を吐かれたりする。しかし、学校と違い、周りに迷惑をかけているので、仕事のできない当の本人は言い返す言葉もなく、すでに懸命にやってのできないだから、どう対処することもできず、だんだんに心苦しくなってくる。学生であるならば、ここで勉強は諦めて、スポーツに精を出すか、髪をリーゼントに、「暴走天使」などと刺繍を施した服に身を包んで、夜をハンドルが逆向いたバイクで駆け抜けるなどして、これまでバカにしてきた真面目っ子たちを見返すことができるチャンスはある。

しかし会社というところには、残念なことに仕事しかない。最低限の仕事ができないと、できない苦しみはずっと続く。

そういった人を励ますことは簡単だけど、結局のところ状況を打開するには本人が頑張るしかない。一時の慰めで多少心が軽くなっても、できるようにならなければ状況は変わらないのだ。

そうであるにも関わらず、そういった人間ほど努力をしない。自分を理解しない周りが悪いみたいな顔して、自分がどれだけこの職場に「いい感じの雰囲気」をもたらしていると思っているんだ、みたいな的外れな自負を持っていたりする。

呆れたことだ。

といった落ちこぼれ二人が、件の飲み会で話しているのをつりをは聞いた。慄然した。

「俺とお前は、ほんま不器用な生き方しかできん人間や。俺らがおらんようになって、始めて周りの阿呆どもはその存在の大きさに気づくんやっ!」

「そうなんかな・・」

んなわけない。とつりをは思った。

あなた方の不器用な部分は、仕事ができない普段通りの意味での不器用であって、生き方じゃない。

むしろ、その不器用さ加減で会社に残れて周りと同じ給料貰えているのだから、かなり器用な生き方じゃないか。

寄らば大樹の陰。吹けば飛ぶような会社の中でも面倒見よく、心優しい上司を探して見つけ出しお追従。随分器用じゃないか。機嫌取りするより仕事する方が遥かに楽だと思うが・・顔色なんて不可解なものを見るより、数字で残す方が分かりやすい。というより、お前らの方がこっちに気を遣えと普段、上に対して思っているつりをからすれば、全く理解できない考えだ。

酔えば酔うほど、普段抑えているものが出てしまうのか、見苦しいほど尊大になって威張り散らす。一体どの立ち位置から物を言っているのか理解に苦しむ言動に、苦笑しつつ思う。

自意識ばかりが肥大して、実が伴っていかないそのギャップに一番苦しんでいるのは本人たちかも知れない。と。


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「魂の言葉」  辰吉丈一郎著。

生き方が不器用。というのは、この人のような人のことを言うのじゃないか。

現役にこだわることなく、いくつかあった節目で引退していたら、芸能活動、ジムの会長、コメンテーター、いくらだってやれることはあって、お金だってもっとずっと稼げただろう。

しかし、自分の生き方にこだわった。

器用に立ち回ればたくさんのものが手に入ったのに。

しかし辰吉の欲しいものは、世間一般の思い描く当たり前の金銭的なものではなく、

チャンピオンベルト。

自分の人生に節目の線を引く、約束のチャンピオンベルト。

「お金」が最上の価値観の世間からすれば、

随分損な生き方をしているように見える。現に俗物の僕の目にもそう見えてしまう。

普通ならいろいろなことを諦めてしまう年になって、未だお金以外のものを真剣に追いかけられるなんて、若い時にした未来の約束を未だに純粋に果たそうとするなんて、

やはり、辰吉は素敵だな。

僕の知り合いの元ボクサーにも、お金に全然執着なく、どこまでも純粋に女の尻を追い掛け回している中年がいる。

何かとお金が必要になってくる中年に差し掛かってなお、未だお金以上の価値観を見出して、それを真剣に追いかけられるなんて、

やはり、狂拳は素敵・・・なのか?w

善哉。

そう思いました。






人間は賢いのか阿呆なのか分からないけど、予め先のことを考えられたりする。

まだ来ぬ未来に怯えたり、不安になったり、今いる環境や状況から類推して、おおよそこんな感じのことが起こるんじゃないだろうかと転ばぬ先の杖。その杖で目の前にかかっている石橋を叩く。杖折れる、さらに不安。

先に楽しみのみあるとき、人は意外と未来を思わない。というより、その楽しみから健全な力を得て、快眠、食欲旺盛、箸が落ちても面白い。みたいになる。何を心配するでもなく、そこまで行けば楽しいだろうから。

未来を強く思うとき、それはやはり行く先に恐れや不安があるときなんじゃないかと思う本人比。明日を憂慮して眠れなくなったり、三度の飯より飯が好きみたいな人が食欲減退したり。

どれだけ心配したって、そのときは必ず来るし、そのときになればこれまでの心配が杞憂に終わることも少なくない。特に世間知らずの若いうちの心配は結構杞憂に終わる。

ところが、年を経るに従い、段々に不安が的中しだすから困ったもんだ。いい予感はひとつも当たらないのに。

先のことなど考えられなければ、その日まで楽しくやれるのに。

未来に怯えて現在が楽しくないなんてのは、愚の骨頂。だと思うけど、

怯えていた未来がそれなりの精度で来たりするから、備えておかないと、三角帽をかぶってピエロの鼻をつけて、バースデーケーキを模したサングラスをかけ、クラッカー鳴らしながら、ヒャッホーって飛び込んだ先が葬式。みたいなウカレポンチなことになってしまう。

変わらないようでいて、毎日同じようでいて、その実、刻々と変わりゆく状況の中で、周囲の戯言やマスコミに煽られ、どこにも整合性のないソースで未来を予見し、深刻な顔したり、あるいは開き直って唐突によさこいを踊り出すような突き抜けた阿呆になってみたり、先行きの不安に対する反応は人それぞれ。

今、つらくてどうしようもない人はそこから楽しい未来は想像できないかもしれない。
今、楽しくてウキウキが止まらない人はそこからつらい未来は想像できないかもしれない。

でも、つらくてしょうがないことも、楽しくて思わずトリプルアクセル跳んじゃうようなことも、どちらも長くは続かない。

どんな未来が来たとしても、それは一過性のもので、必ず状況は変わる。良くも悪くも。

特に若いときには、身体における新陳代謝と同じく、人間関係、思考、世界、目まぐるしく変わる。

まぁわてらオッサンみたいなもんになると、身体も心境も環境も若い時と比べて著しく代謝が落ちるけど。

それとて、遅くなるだけで、変わっていくんだ確実に。

絶望するにはまだ早い、若い、甘い。

若者と話していて、そんなことをこの間。


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「リリイシュシュのすべて」   2001年 日本 監督 岩井俊二

ほ〜・・これもう15年前の作品なんだ。映画の専門チャンネルでやっていたものを懐かしさから鑑賞。

キレイさっぱり内容を忘れていて、自分の阿呆力に驚愕。ここまで忘れていたら、もう新作だね。

この作品ではかわいらしい市川隼人が、あんなオラついた感じに仕上がるとはな・・。

未来は誰にもわからない。ある程度予見はできても。

少年少女の繊細な心と狂おしいまでに求めながら得られぬ光。

光、緑、誰にも聞こえぬ叫び。

暗がりに落ちて、いつまでもここに居ることになると感じる毎日。身体、心を縛る絶望、無力感。

闇の中にいて光の見えない日々、見えていてもそれとの距離が変わらなく思える日々。

君ら、あと少し。あと少しだけ頑張れないだろうか?

というモヤモヤが。鑑賞中ずっと。

善哉。

そう思いました。










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