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2016年06月

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君子危うきに近寄らず。とかって言葉がある。

この言葉に照らし合わせると、僕などは到底君子とは言えない。どころかその距離億光年の彼方。

つい去年くらいまで、家にいた者を味方だと思い込んでいたら、実はシロアリでそれに調子よく何も考えず疑わず、餌をやり続けて、家が傾いてようやく気づいたし、吹けば飛んでしまいそうな小さな会社に何となく勤務しているし、危ういことしか周りにないんじゃないかと思うような環境で生きている。

ただいつ死んでもいいという強気な弱気の考えがどこかにあるから、多少辛かろうが危なかろうが気にならない。が、これがいけない。何ビビってんだよ、日和ってんだよ、やらなきゃわからんじゃないかってよくないものに近寄ってしまう。

死んで責任取るなんて、そんなものが通用するのは昔のお侍さんとかの時代のことで、今の時代死んで取れる責任なんてたかがしれている。

危ういものに近寄って、何かやらかしてしまうと、生きて償わなくてはいけない。贖罪に充てる日々というのは辛かろう、それこそ死んだほうがマシと思えるくらいに。

いつ死んでもいいと思えるなら、そのタイミングで死ねばいいんじゃない?と思われるかもしれないけど、いつ死んでもいいと、いつでも死ねる、は違う。いつ死んでもいいのだけど、自ら死ぬことはできない、だっておっかないもん。

受動的な死はどれだけ理不尽だろうと受け容れるが、自ら手を下すことはできない。だっておっかないもん。

生にも死にも積極的に働きかけることができない今の立ち位置は、酷く愚かでみっともない。

自覚はあるけど、動けない。目的地が決まらないのに走り出す。それ逆方向かもしれない。そう思うと動けない。

行っちゃいけない方に行っちゃうかもしれない、そう思うと動けない。

危ないものになんて誰も好き好んで近寄らない。

要するに君子ってのは、危ういものを分かっている人のことをいうんだな。

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「悪魔の存在を証明した男」  2014年 アメリカ 監督 デヴィッド・イァング

幸せ絶頂家族であったのに、奥さんがある占い師の助言に従った行動を取ったら事故死。

あの時、あんなもん信じなかったら・・くそう、神ファッキン、悪魔シット、超常現象んなもんあるかいボケ。

みたいになった旦那。

自ら悪魔の存在を否定しようと、体を張って、様々な実験を行う。

その結果、皮肉にも悪魔の存在を証明してしまうことになる。ていうか、なったの?これどうなんだろう?変な薬とかたくさん飲んでたし、精神状態は元々普通じゃなかったし、そういう状況下で見た幻覚とか精神倒錯の類じゃないかとも思う。

悪魔とか幽霊とか、あとみんなが好きな神様とかいうのもそうだろう、危ういよ。こういうの。近寄らないにこしたことない。

向こうから働きかけてこない限り、関わらない方がいい。

運不運に一喜一憂。人間なんてそれでいいんじゃない?神様とか悪魔とかそんなものの介在をいちいち信じていたら、言い訳だらけの人生になってまう。

この旦那も、あ〜運が悪かったな〜も〜なんだよ〜。くらいでいれば、こんな大事にはならなかったろうに。

君子危うきに近寄らず。

そう思いました。




先日会社の飲み会で見た光景。

会社というところは残酷で、学校やなんかだと、落ちこぼれてもそれは個人の責任の範疇で、誰に迷惑をかけることもなく過ごせる。

ところが、会社となると話は別で、仕事ができないと周りの人間にリアルに迷惑がかかる。そしてこれは学校も同じだろうけど、できないことで存在自体が侮られてぞんざいな扱いを受けたり、時には暴言を吐かれたりする。しかし、学校と違い、周りに迷惑をかけているので、仕事のできない当の本人は言い返す言葉もなく、すでに懸命にやってのできないだから、どう対処することもできず、だんだんに心苦しくなってくる。学生であるならば、ここで勉強は諦めて、スポーツに精を出すか、髪をリーゼントに、「暴走天使」などと刺繍を施した服に身を包んで、夜をハンドルが逆向いたバイクで駆け抜けるなどして、これまでバカにしてきた真面目っ子たちを見返すことができるチャンスはある。

しかし会社というところには、残念なことに仕事しかない。最低限の仕事ができないと、できない苦しみはずっと続く。

そういった人を励ますことは簡単だけど、結局のところ状況を打開するには本人が頑張るしかない。一時の慰めで多少心が軽くなっても、できるようにならなければ状況は変わらないのだ。

そうであるにも関わらず、そういった人間ほど努力をしない。自分を理解しない周りが悪いみたいな顔して、自分がどれだけこの職場に「いい感じの雰囲気」をもたらしていると思っているんだ、みたいな的外れな自負を持っていたりする。

呆れたことだ。

といった落ちこぼれ二人が、件の飲み会で話しているのをつりをは聞いた。慄然した。

「俺とお前は、ほんま不器用な生き方しかできん人間や。俺らがおらんようになって、始めて周りの阿呆どもはその存在の大きさに気づくんやっ!」

「そうなんかな・・」

んなわけない。とつりをは思った。

あなた方の不器用な部分は、仕事ができない普段通りの意味での不器用であって、生き方じゃない。

むしろ、その不器用さ加減で会社に残れて周りと同じ給料貰えているのだから、かなり器用な生き方じゃないか。

寄らば大樹の陰。吹けば飛ぶような会社の中でも面倒見よく、心優しい上司を探して見つけ出しお追従。随分器用じゃないか。機嫌取りするより仕事する方が遥かに楽だと思うが・・顔色なんて不可解なものを見るより、数字で残す方が分かりやすい。というより、お前らの方がこっちに気を遣えと普段、上に対して思っているつりをからすれば、全く理解できない考えだ。

酔えば酔うほど、普段抑えているものが出てしまうのか、見苦しいほど尊大になって威張り散らす。一体どの立ち位置から物を言っているのか理解に苦しむ言動に、苦笑しつつ思う。

自意識ばかりが肥大して、実が伴っていかないそのギャップに一番苦しんでいるのは本人たちかも知れない。と。


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「魂の言葉」  辰吉丈一郎著。

生き方が不器用。というのは、この人のような人のことを言うのじゃないか。

現役にこだわることなく、いくつかあった節目で引退していたら、芸能活動、ジムの会長、コメンテーター、いくらだってやれることはあって、お金だってもっとずっと稼げただろう。

しかし、自分の生き方にこだわった。

器用に立ち回ればたくさんのものが手に入ったのに。

しかし辰吉の欲しいものは、世間一般の思い描く当たり前の金銭的なものではなく、

チャンピオンベルト。

自分の人生に節目の線を引く、約束のチャンピオンベルト。

「お金」が最上の価値観の世間からすれば、

随分損な生き方をしているように見える。現に俗物の僕の目にもそう見えてしまう。

普通ならいろいろなことを諦めてしまう年になって、未だお金以外のものを真剣に追いかけられるなんて、若い時にした未来の約束を未だに純粋に果たそうとするなんて、

やはり、辰吉は素敵だな。

僕の知り合いの元ボクサーにも、お金に全然執着なく、どこまでも純粋に女の尻を追い掛け回している中年がいる。

何かとお金が必要になってくる中年に差し掛かってなお、未だお金以上の価値観を見出して、それを真剣に追いかけられるなんて、

やはり、狂拳は素敵・・・なのか?w

善哉。

そう思いました。






人間は賢いのか阿呆なのか分からないけど、予め先のことを考えられたりする。

まだ来ぬ未来に怯えたり、不安になったり、今いる環境や状況から類推して、おおよそこんな感じのことが起こるんじゃないだろうかと転ばぬ先の杖。その杖で目の前にかかっている石橋を叩く。杖折れる、さらに不安。

先に楽しみのみあるとき、人は意外と未来を思わない。というより、その楽しみから健全な力を得て、快眠、食欲旺盛、箸が落ちても面白い。みたいになる。何を心配するでもなく、そこまで行けば楽しいだろうから。

未来を強く思うとき、それはやはり行く先に恐れや不安があるときなんじゃないかと思う本人比。明日を憂慮して眠れなくなったり、三度の飯より飯が好きみたいな人が食欲減退したり。

どれだけ心配したって、そのときは必ず来るし、そのときになればこれまでの心配が杞憂に終わることも少なくない。特に世間知らずの若いうちの心配は結構杞憂に終わる。

ところが、年を経るに従い、段々に不安が的中しだすから困ったもんだ。いい予感はひとつも当たらないのに。

先のことなど考えられなければ、その日まで楽しくやれるのに。

未来に怯えて現在が楽しくないなんてのは、愚の骨頂。だと思うけど、

怯えていた未来がそれなりの精度で来たりするから、備えておかないと、三角帽をかぶってピエロの鼻をつけて、バースデーケーキを模したサングラスをかけ、クラッカー鳴らしながら、ヒャッホーって飛び込んだ先が葬式。みたいなウカレポンチなことになってしまう。

変わらないようでいて、毎日同じようでいて、その実、刻々と変わりゆく状況の中で、周囲の戯言やマスコミに煽られ、どこにも整合性のないソースで未来を予見し、深刻な顔したり、あるいは開き直って唐突によさこいを踊り出すような突き抜けた阿呆になってみたり、先行きの不安に対する反応は人それぞれ。

今、つらくてどうしようもない人はそこから楽しい未来は想像できないかもしれない。
今、楽しくてウキウキが止まらない人はそこからつらい未来は想像できないかもしれない。

でも、つらくてしょうがないことも、楽しくて思わずトリプルアクセル跳んじゃうようなことも、どちらも長くは続かない。

どんな未来が来たとしても、それは一過性のもので、必ず状況は変わる。良くも悪くも。

特に若いときには、身体における新陳代謝と同じく、人間関係、思考、世界、目まぐるしく変わる。

まぁわてらオッサンみたいなもんになると、身体も心境も環境も若い時と比べて著しく代謝が落ちるけど。

それとて、遅くなるだけで、変わっていくんだ確実に。

絶望するにはまだ早い、若い、甘い。

若者と話していて、そんなことをこの間。


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「リリイシュシュのすべて」   2001年 日本 監督 岩井俊二

ほ〜・・これもう15年前の作品なんだ。映画の専門チャンネルでやっていたものを懐かしさから鑑賞。

キレイさっぱり内容を忘れていて、自分の阿呆力に驚愕。ここまで忘れていたら、もう新作だね。

この作品ではかわいらしい市川隼人が、あんなオラついた感じに仕上がるとはな・・。

未来は誰にもわからない。ある程度予見はできても。

少年少女の繊細な心と狂おしいまでに求めながら得られぬ光。

光、緑、誰にも聞こえぬ叫び。

暗がりに落ちて、いつまでもここに居ることになると感じる毎日。身体、心を縛る絶望、無力感。

闇の中にいて光の見えない日々、見えていてもそれとの距離が変わらなく思える日々。

君ら、あと少し。あと少しだけ頑張れないだろうか?

というモヤモヤが。鑑賞中ずっと。

善哉。

そう思いました。









世の女性にとって結婚というのは、「永久就職」とか言ったりするみたいに、生きていくための経済活動という側面が小さくないのかもしれない。

最近よくテレビなどでも取り上げられる「婚活」。

ある日、テレビでその話題をやっていて、何気なく見た。オバハンが得意げに結婚相手の理想を話している。その条件を聞いていると、年収がいくらで、次男坊で、安定した職に就いていて、ギャンブルはしない、身長はどれくらい、顔は当然ハンサム。

みたいなことを、この世の終わり、ハルマゲドン、みたいな顔したオバはんが真面目に言っている。

仮に相手の条件が全て思惑通りに揃っていたとして、果たしてその人はこのオバハンを選ぶだろうか。まぁそこは、偶々拾った宝くじが5億円の当たりだったくらいの奇跡が起こって乗り越えたとして、それだけ条件の整った相手に見合うだけの「何か」をこのオバハンは提供できるのだろうか。相手に矢鱈と求めるが、お前は何ができるんだ。何も差し出すものがないのに、これだけの要求はしないだろう。もし何もないのに、これだけのものを求めているなら、モンスター婚活オバハン、モン活。

というより、そもそも結婚というのは、病めるときもまた健やかなるときもとか神父が言うように、どんなときでも支えあって良いことは勿論、苦難も伴にするというのが大前提で、こんな初手から安楽な生活のみを求めてくるような手ぶらのオバハンと誰が結婚するんだろう。

でも、まぁ夢を見る権利は誰にでもあるから、別段それを悪いとは思わないけど、アホだな。とは思う。もし知り合いにこんなオバハンがいたら、脳震盪を起こすくらい横っ面を張り倒して、「現実と鏡を見なさいっ!」とたしなめるのだけど。

でもまぁこれが、「婚活」と言わず「就活」だと言われれば、納得する。

それは誰でも良い会社に入りたいし、安定した雇用の元、のびのび働きたいだろう。誰しも願うこと。

しかし、そういうところに就職する人は、そういうところに就職するためにたくさんの時間をかけて、やりたいことも我慢して勉学に励み、ようやくそういったところに行けるのだ。

ところがオバハン、そういった頑張りのおこぼれにあずかる気しかないような、そして、それを労せず手に入れる権利が自分にはあると言わんばかりの口振り。どこをどう見たら彼のこれまでの頑張りの結果にそぐうだけの「何か」がオバハンにあるというのだ。せめて何か努力しろ。とか言ったら、「今、滅茶苦茶婚活サイトに登録したり、婚活パーティーに参加したりして超頑張ってるじゃないっ」とか言ってきそう。それは外面。まず内面。


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「わたしのハワイの歩き方」  2014年  日本  監督 前田弘二

会社の仕事でハワイに行ったら、いい感じの人と出会って、仕事放棄して遊び呆けて結果結婚しちゃった。

みたいな、普通の社会人が見たら、唖然とする内容の話。

登場人物は元々クセのある人間ばかりだったものが、それぞれが持つ妙な価値観をぶつけ合う間に、クセが少し矯正されていく感じはちょっとリアル。

セレブとの結婚を夢見る女。若い女に入れあげたオッサン。金目当ての女に疲れたセレブ。事業の成功を夢見るが視野の狭さで上手くいかない男。不倫に疲れて仕事にかこつけてハワイ取材に来た女。

皆、幸せだ。

その程度で深刻な顔して泣いたり怒ったり、

何だ、この映画。

と思ったりしたけど、

こういう人たち、いるんだろうな実際。とも。

そう思いました。












とらっしゅすね。

盲滅法生きていても、それなりの時間生きていると、物事のいろんな面が見えてきたりする。

そのことによって、これまで自分が思っていた正しさが、ただの一面だけのことであって、違う側面から見ると、そこにはまた別の、う〜んそうかもな・・そうなっちゃうか〜。みたいな正しさもあったりして、自分の立ち位置が覚束なくなったりする。

そうなると、物事を始める、あるいは誰かに意見する、なんどいう場面で、いまいち自分の行動言動に自信が持てなくて、動き出しが遅れる、あるいは緩慢、歯切れ悪い、みたいなことになる。

知らないときには信じられた自らの正当性が、長ずるに従い薄れていく。

自分は正しい。そう思うことから得られる力は絶大。

しかし、これ年々薄くなってくる。年取って薄くなってくるのは何も髪の毛や精力だけではないということか。

でもこれって劣化だろうか?

確かに力が衰えるということから見れば劣化に違いないけど、

物事のいろんな側面を考えることが出来るようになったという面から見れば、それは成長と言えるんじゃないか。

たくさんの面を見て、総合的にどうやら間違いない、という結果が得られれば、そこには若い頃の一面のみを見て得られた正当性より、もっと確かな正当性があるはず。

だと思うが、どうだろう?

でも、まだ見落としている面があるんじゃないか?

という疑り深さもまた、年取ることの弊害として生まれてたりして。

そんなことどうでもいいから、動けよ。

早く動けよ。

分かってるよ。

でも、正当性が。

本当にやっていいの?これ正しいの?

そもそも正しくなきゃいけないの?それは何故?

なんて考えがクラッシュ、あとに残る過去、時間の残骸、トラッシュ。

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「トラッシュ この街が輝く日まで」   2014年  イギリス/ブラジル  監督 スティーブン・ダルドリー

ゴミ山でゴミを拾って生計を立てる少年たち。

ある日、そのうちのひとりがゴミ山で、財布を拾う。

それは単に誰かの落とした財布というわけではなくて、

大きな組織の何やらマズイ証拠がそこには隠されていた。

少年たちはそこにある不正を若い敏感な感受性で感じ取り、核心に迫ろうと行動を開始する。

正当性は我に有り。きっと神様が守ってくれる。

少年とは思えぬ機知に富んだ計画と、少年ならではのましらのような身軽さで、次々に迫る危機を乗り越える。

正しい。と信じられた時、人が得られる力の大きさ。

最近何かと感じる力不足は、どうもこの辺に原因がある気がする。

などと。

善哉。

そう思いました。












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