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人間は賢いのか阿呆なのか分からないけど、予め先のことを考えられたりする。

まだ来ぬ未来に怯えたり、不安になったり、今いる環境や状況から類推して、おおよそこんな感じのことが起こるんじゃないだろうかと転ばぬ先の杖。その杖で目の前にかかっている石橋を叩く。杖折れる、さらに不安。

先に楽しみのみあるとき、人は意外と未来を思わない。というより、その楽しみから健全な力を得て、快眠、食欲旺盛、箸が落ちても面白い。みたいになる。何を心配するでもなく、そこまで行けば楽しいだろうから。

未来を強く思うとき、それはやはり行く先に恐れや不安があるときなんじゃないかと思う本人比。明日を憂慮して眠れなくなったり、三度の飯より飯が好きみたいな人が食欲減退したり。

どれだけ心配したって、そのときは必ず来るし、そのときになればこれまでの心配が杞憂に終わることも少なくない。特に世間知らずの若いうちの心配は結構杞憂に終わる。

ところが、年を経るに従い、段々に不安が的中しだすから困ったもんだ。いい予感はひとつも当たらないのに。

先のことなど考えられなければ、その日まで楽しくやれるのに。

未来に怯えて現在が楽しくないなんてのは、愚の骨頂。だと思うけど、

怯えていた未来がそれなりの精度で来たりするから、備えておかないと、三角帽をかぶってピエロの鼻をつけて、バースデーケーキを模したサングラスをかけ、クラッカー鳴らしながら、ヒャッホーって飛び込んだ先が葬式。みたいなウカレポンチなことになってしまう。

変わらないようでいて、毎日同じようでいて、その実、刻々と変わりゆく状況の中で、周囲の戯言やマスコミに煽られ、どこにも整合性のないソースで未来を予見し、深刻な顔したり、あるいは開き直って唐突によさこいを踊り出すような突き抜けた阿呆になってみたり、先行きの不安に対する反応は人それぞれ。

今、つらくてどうしようもない人はそこから楽しい未来は想像できないかもしれない。
今、楽しくてウキウキが止まらない人はそこからつらい未来は想像できないかもしれない。

でも、つらくてしょうがないことも、楽しくて思わずトリプルアクセル跳んじゃうようなことも、どちらも長くは続かない。

どんな未来が来たとしても、それは一過性のもので、必ず状況は変わる。良くも悪くも。

特に若いときには、身体における新陳代謝と同じく、人間関係、思考、世界、目まぐるしく変わる。

まぁわてらオッサンみたいなもんになると、身体も心境も環境も若い時と比べて著しく代謝が落ちるけど。

それとて、遅くなるだけで、変わっていくんだ確実に。

絶望するにはまだ早い、若い、甘い。

若者と話していて、そんなことをこの間。


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「リリイシュシュのすべて」   2001年 日本 監督 岩井俊二

ほ〜・・これもう15年前の作品なんだ。映画の専門チャンネルでやっていたものを懐かしさから鑑賞。

キレイさっぱり内容を忘れていて、自分の阿呆力に驚愕。ここまで忘れていたら、もう新作だね。

この作品ではかわいらしい市川隼人が、あんなオラついた感じに仕上がるとはな・・。

未来は誰にもわからない。ある程度予見はできても。

少年少女の繊細な心と狂おしいまでに求めながら得られぬ光。

光、緑、誰にも聞こえぬ叫び。

暗がりに落ちて、いつまでもここに居ることになると感じる毎日。身体、心を縛る絶望、無力感。

闇の中にいて光の見えない日々、見えていてもそれとの距離が変わらなく思える日々。

君ら、あと少し。あと少しだけ頑張れないだろうか?

というモヤモヤが。鑑賞中ずっと。

善哉。

そう思いました。









世の女性にとって結婚というのは、「永久就職」とか言ったりするみたいに、生きていくための経済活動という側面が小さくないのかもしれない。

最近よくテレビなどでも取り上げられる「婚活」。

ある日、テレビでその話題をやっていて、何気なく見た。オバハンが得意げに結婚相手の理想を話している。その条件を聞いていると、年収がいくらで、次男坊で、安定した職に就いていて、ギャンブルはしない、身長はどれくらい、顔は当然ハンサム。

みたいなことを、この世の終わり、ハルマゲドン、みたいな顔したオバはんが真面目に言っている。

仮に相手の条件が全て思惑通りに揃っていたとして、果たしてその人はこのオバハンを選ぶだろうか。まぁそこは、偶々拾った宝くじが5億円の当たりだったくらいの奇跡が起こって乗り越えたとして、それだけ条件の整った相手に見合うだけの「何か」をこのオバハンは提供できるのだろうか。相手に矢鱈と求めるが、お前は何ができるんだ。何も差し出すものがないのに、これだけの要求はしないだろう。もし何もないのに、これだけのものを求めているなら、モンスター婚活オバハン、モン活。

というより、そもそも結婚というのは、病めるときもまた健やかなるときもとか神父が言うように、どんなときでも支えあって良いことは勿論、苦難も伴にするというのが大前提で、こんな初手から安楽な生活のみを求めてくるような手ぶらのオバハンと誰が結婚するんだろう。

でも、まぁ夢を見る権利は誰にでもあるから、別段それを悪いとは思わないけど、アホだな。とは思う。もし知り合いにこんなオバハンがいたら、脳震盪を起こすくらい横っ面を張り倒して、「現実と鏡を見なさいっ!」とたしなめるのだけど。

でもまぁこれが、「婚活」と言わず「就活」だと言われれば、納得する。

それは誰でも良い会社に入りたいし、安定した雇用の元、のびのび働きたいだろう。誰しも願うこと。

しかし、そういうところに就職する人は、そういうところに就職するためにたくさんの時間をかけて、やりたいことも我慢して勉学に励み、ようやくそういったところに行けるのだ。

ところがオバハン、そういった頑張りのおこぼれにあずかる気しかないような、そして、それを労せず手に入れる権利が自分にはあると言わんばかりの口振り。どこをどう見たら彼のこれまでの頑張りの結果にそぐうだけの「何か」がオバハンにあるというのだ。せめて何か努力しろ。とか言ったら、「今、滅茶苦茶婚活サイトに登録したり、婚活パーティーに参加したりして超頑張ってるじゃないっ」とか言ってきそう。それは外面。まず内面。


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「わたしのハワイの歩き方」  2014年  日本  監督 前田弘二

会社の仕事でハワイに行ったら、いい感じの人と出会って、仕事放棄して遊び呆けて結果結婚しちゃった。

みたいな、普通の社会人が見たら、唖然とする内容の話。

登場人物は元々クセのある人間ばかりだったものが、それぞれが持つ妙な価値観をぶつけ合う間に、クセが少し矯正されていく感じはちょっとリアル。

セレブとの結婚を夢見る女。若い女に入れあげたオッサン。金目当ての女に疲れたセレブ。事業の成功を夢見るが視野の狭さで上手くいかない男。不倫に疲れて仕事にかこつけてハワイ取材に来た女。

皆、幸せだ。

その程度で深刻な顔して泣いたり怒ったり、

何だ、この映画。

と思ったりしたけど、

こういう人たち、いるんだろうな実際。とも。

そう思いました。












とらっしゅすね。

盲滅法生きていても、それなりの時間生きていると、物事のいろんな面が見えてきたりする。

そのことによって、これまで自分が思っていた正しさが、ただの一面だけのことであって、違う側面から見ると、そこにはまた別の、う〜んそうかもな・・そうなっちゃうか〜。みたいな正しさもあったりして、自分の立ち位置が覚束なくなったりする。

そうなると、物事を始める、あるいは誰かに意見する、なんどいう場面で、いまいち自分の行動言動に自信が持てなくて、動き出しが遅れる、あるいは緩慢、歯切れ悪い、みたいなことになる。

知らないときには信じられた自らの正当性が、長ずるに従い薄れていく。

自分は正しい。そう思うことから得られる力は絶大。

しかし、これ年々薄くなってくる。年取って薄くなってくるのは何も髪の毛や精力だけではないということか。

でもこれって劣化だろうか?

確かに力が衰えるということから見れば劣化に違いないけど、

物事のいろんな側面を考えることが出来るようになったという面から見れば、それは成長と言えるんじゃないか。

たくさんの面を見て、総合的にどうやら間違いない、という結果が得られれば、そこには若い頃の一面のみを見て得られた正当性より、もっと確かな正当性があるはず。

だと思うが、どうだろう?

でも、まだ見落としている面があるんじゃないか?

という疑り深さもまた、年取ることの弊害として生まれてたりして。

そんなことどうでもいいから、動けよ。

早く動けよ。

分かってるよ。

でも、正当性が。

本当にやっていいの?これ正しいの?

そもそも正しくなきゃいけないの?それは何故?

なんて考えがクラッシュ、あとに残る過去、時間の残骸、トラッシュ。

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「トラッシュ この街が輝く日まで」   2014年  イギリス/ブラジル  監督 スティーブン・ダルドリー

ゴミ山でゴミを拾って生計を立てる少年たち。

ある日、そのうちのひとりがゴミ山で、財布を拾う。

それは単に誰かの落とした財布というわけではなくて、

大きな組織の何やらマズイ証拠がそこには隠されていた。

少年たちはそこにある不正を若い敏感な感受性で感じ取り、核心に迫ろうと行動を開始する。

正当性は我に有り。きっと神様が守ってくれる。

少年とは思えぬ機知に富んだ計画と、少年ならではのましらのような身軽さで、次々に迫る危機を乗り越える。

正しい。と信じられた時、人が得られる力の大きさ。

最近何かと感じる力不足は、どうもこの辺に原因がある気がする。

などと。

善哉。

そう思いました。












ろまんすすね。

コインの裏表。

現在我々が日常使いおるコイン、硬貨は数字の書いてある方が裏で紋様のある方が表。

何だか逆のように思うけど、そういうことらしい。

これ、娑婆世間社会、人々が日々活動している表の世界にも同様の違和感を覚えたりする。

裏っかわでしかない数字の値を少しでも高く見せようと足掻く藻掻く。

そうしているうちに、表の紋様がぐちゃぐちゃに仕上がって、裏の数字を見て寄ってきた人にその無様で何の面白味もない紋様に呆れられ、結局、裏の数字の値が大きく下がる。

あるいは、紋様を仕上げることにのみ専心し、裏の数字に全く拘泥せず生きていると、人がさっぱり寄ってこず、気づけば孤高の一円玉。個人的にはとても好きな生き方で、格好良いと思うけど、なりたくない。

そう考えると、表も裏もそれなりに頑張らないといけない。のかもしれない。

会社なんかで、偉いさんと称される地位の高い人と話す事が稀にある。それは社会的に偉いのだから、数字の値は大きい。大きいのだけど、それに見合う紋様を期待して話してみると、数字にそぐうだけの紋様が皆一様に無かったりする。どころか桜とか期待して見てみると、毒キノコだったり、毛虫だったり。すごく綺麗で可愛い女性なども、数字の値は大きい。が話してみると、期待していた秋桜とか蘭などではなく、枯れ木とか造花だったりでその数字に見合うだけの紋様は無かったりする。人間の内面の充実と、社会的なそれが釣り合うことなどないというのは、重々理解しているのだけど、余りに大きな隔たりに数字など当てにならないと、そのまま同じなら、人を見る苦労などないのにと思ったりするけど、もし、全ての人間が見た目通りならば、それはそれで非道い混沌を招くだろうとも思う。

裏表のない人。などいう形容をたまに耳にするけど、そんなのはいない。と思う。表があれば必ず裏がある。

裏表がないと評される人は、裏と表が釣り合っているんだろうかな?

それとも、巧妙にどちらかだけを見せているのかな・・・怖っ。

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「ロマンス」  2015年  日本 監督 タナダユキ

ロマンスカーで社内販売の仕事をする主人公、ひょんなことで知り合った男に長く会わない母からの手紙を読まれ、行きがかり上何となく巻き込まれるように、母親探しの旅に出る。

誰の人生にもたくさんの思い出が貯蔵されていて、その思い出の地をトレースする旅は厭でも人を感傷的にさせる。

僕は一度行ったことのあるところには、もう一度行きたいとあまり思わないのだけど、

20代の頃に散々繰り返した貧乏旅行を懐かしく思い出して、もう一度あそこ行ってみたいな。とか。

劇中、男が百円玉を指で弾いて手の甲で受け、表か裏かでこれからの行動を決める。みたいなことをやっていて、この男、数字のある方が表だとずっと思っていたらしく、じゃあ今まで全部逆やってたの?みたいなシーンがあった。

これ見て、本当、そういうことある。

今だって、そうかもしれない。

表だ表だと思って拘っている自分が、

実は裏なのかも。

なんて。

善哉。

そう思いました。






言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、ぽいずん。

と昔、テレビで歌っている人がいた。

ぽいずんの意味はさっぱり分からないし、それ、いる?とか思ったけど、その前の言いたいことも言えないこんな世の中という部分はよく分かる。と思った。

社会に対してとか、会社の上司に対してとか、鬼嫁に対してとか、いろいろ言いたいけど、言ったら60倍くらいになって返ってきそうでおっかない、とてもじゃないけど言えないな。なんてことを溜め込んで鬱々と暮らしている人は多いだろう。

上記のように恐怖から言えないというパターンとは別に、言っても同じだろうな、こんな奴に正論を説いたところで、伝わるわけないよね。なんて諦めから言いたことを言わない人もいるだろう。

しかし、まぁこれらは、損得を天秤にかけて、言うことの方がどうも損らしいとの結論を得るから言わないのであって、そこでどうも言った方がお得らしいとの結論が出たなら、きっと言えるし、言うんだと思う。

だから、厳密には言いたいことも言えないには該当しない気もする。

じゃあ言いたいことも言えないとはどういうことか?

それは、己の真情を己の知りうる語彙を散々に駆使して説明に及ぶも、相手に「は?」とか「え?」みたいな顔される。

言いたいことを気持ちよく話しているとき、相手からのリアクションが薄いことが気になって、ふと相手を見てみると、耳にイヤーホーン。

さて、映画を観て、鑑賞中、そこにあった己の思考を少し書き記そうかなと思って、書き始めるとだんだんに話が逸れて、最終的には何を書きたかったんだか分からなくなる。

なんてことが、本当の意味で言いたいことも言えない状態じゃないのかな。と思う。ぽいずん。

結局、言いたいことも言えないというのは自らの力不足に拠るところが大きいんじゃないか。

しかし、その言いたくて言えないことをあまりに溜め込むと、心が屈折する。そして、言葉にできないそれを衝動に任せた行動に移してしまったりして、それが問題に発展したりして、後で周りになぜ早く言わない。などと叱責を受け、ごめんなさい。となる。そこにはでもまた言い分があって、「でも・・」なんて謝罪の後に続けようとすると、「うるさい、言い訳をするな」などと言われて、そこからまた言いたいことも言えないが溜まっていく。

そう考えると確かに、人にとって言いたいことも言えないということはぽいずんかもしれない。

とここまで書いて、悲しい気持ちになる。

そう、お察しのとおり、言いたいことと違うのである。

今回観た映画は「心が叫びたがってるんだ」だったから、自分にとって心が叫びたくなるときってのは、どんなときかなと考えて書き始めたのに、いつの間にかぽいずんを理解していく過程になっている。

このブログを始めて随分になるけど、未だに言いたいことを言えたためしがない。かなしい。ぽいずん。

だからこそ、ダラダラと続いているとも思えるのだけれども。


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「心が叫びたがってるんだ」  2015年  日本  監督 長井龍雪

僕は基本的にアニメを好んでは観ないのだけど、以前に偶々観た「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に甚く感動し、それ以来アニメを観ることのハードルが少し下がった。

この作品は、アニメに対する小さくはあるが部分部分にあった穿った偏見を取り除くきっかけになった「あの花」のスタッフが製作した新作ということで、観るわなそら。みたいな感じで観た。

期待値が高かったせいもあるが、「あの花」程の感動はなかった。

如何せん、ちょっと狙いすぎというか、「要素」を詰め込みすぎた感がある。

眼目を一点に集中出来ない感じがずっとあった。

この物語をしっかり表現するには時間が短すぎたのかもしれない。

言いたいことも言えない。の理由の一つには時間的な制約もあるんだろう。

誰かの言いたいことも言えないを一つでも減らすために、

自分自身の理解力を高めておかないとな。

ね?また関係ないこと言っちゃってる。

ぽいずん。

そう思いました。


















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