キャリアカウンセラーとメンタルヘルス・臨床心理

さまざまな課題を抱えていても、その人らしい道を探りたい。

エッセイ byキャリアCC

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玄界灘の魚<2>

(下の記事より続き)

 船が大海原に出て、陸が水平線上に沈む頃、案の定「敵機来襲、敵機来襲」という声が甲板に響き渡った。お昼近くではあったが、昼飯はまだだった。
 米軍機二機があっという間に頭上に襲来し、ダダダダダダと射撃してきた。父が伏せたほんの二〜三〇センチ右側を体と平行に一列の弾が打ち込まれた。少し位置が違っていたら、そのときで即死だった。飛行機がいったん過ぎ去って旋回している間に、危険を感じて船室に入る。すると、今度は低空飛行の米軍機が水平掃射。鉄のドアを叩く弾の威力に体は跳ね飛ばされそうになる。両手だけを伸ばして、体はドアから離し、腰を引くような格好でドアを押さえた。
 すぐに大きな衝撃が船全体に伝わる。魚雷が命中したのか、爆撃されたのかはわからない。ともかく船が沈みだした。初め、左舷へ逃げる。しかし目の前に高さ三メートル余り波が襲ってきた。それで慌てて右舷へ逃げると、今度は体の何倍もある波が一挙に被さってきた。船が沈んで渦に巻き込まれたのか、体が水に翻弄され回転する。そして深く深く沈む感覚があって、ようやくのこと目を開けた。しかし、あたりは真っ暗。息が苦しい。もがいても、もがいても真っ黒。そのとき、ふと右側に母が現れた。七歳のとき死んだ母の姿だ。そして、左側に自宅に置かれていた仏像が浮かび上がった。「もう駄目だ、俺も死ぬのだな」と思ったそうだ。

 しかし、苦しいながらも息をプッ、プッ、と少しずつ吐く。小さいときに遊びのなかで自然に体が覚えた長く潜るコツのようなものだった。そのとき、上を見るとかすかに光が射してくるところがあった。「あそこだ!」と足を蹴って必死で浮かび上がった。空中に飛び出た! 空気を思いっきり吸う。しかしそれも一瞬。すぐに再びまた海底へと沈む。襟首をギュッと後ろからつかむ者がいたからだ。溺れた兵士がつかまってきたのだ。それで五〜六メートル沈んだが、どうにかまた浮き上がることができた。
 気がつけば、周囲は累々と兵士達の死体が浮いている。バシャバシャと溺れかかった兵士もいる。その兵士に木切れをひろってきてやる。父は、泳ぎ自体は得意なので、板を集めて海の中で筏をつくる余裕があった。板と板はゲートルをほどいて結んだ。筏が完成するとどうにか生き残っていた兵士たちがその上に乗った。しかし、小さな粗末な筏に六人も乗ったので、臍のところまで体は水に浸かった。

 助けはすぐには来なかった。心細さをカムフラージュするためだったのだろう、全員で軍歌を歌いあった。やがて水平線上に一条の煙。船だ! 期待に胸が膨らむ。だんだん近づいてくる。と思ったら、しかし、その船もやがて傾いて海に沈んだ。魚雷にやられてしまったらしい。父達はがっくりとするが、また助けの船が来る、と励ましあって、大海原で腰まで水につかって再び歌を歌い続ける。そして夕暮れ時やっと一艘の船が見えた。
 日本の船か米軍の船か分からない。日本の船であっても無事ここまでやってきてくれるかどうか不安がよぎる。それでも、父達は「お〜い、お〜い」と手を振り叫び続けた。幸い、その船は日本の船であった。船に助け上げられ、甲板に上がると兵士達のうめき声が聞こえてきた。水、水! と叫んでいる者もいる。助けてくれぇ〜〜、と悲鳴をあげているものもいる。船にあげられても、すでに多くが死にかかっているのだ。
 制空権も、制海権も米軍に握られてしまった玄界灘を、船は奇跡のように山口県の海岸にたどり着いた。生きて帰った兵士達は、全体の五分の一ほど。あとは海の藻屑となって消えた。民家で一夜を明かした。一服の煙草、そしておにぎりが差し出された。そのときの美味さは、五十年以上経った今でも忘れられないと父は言う。
 翌朝、海岸に流れ着いた木切れを集めて、亡くなった兵士達を荼毘に付した。父はその兵士達の軍服や軍袴を洗うことを命じられ、小川で洗った。そこには肉片がいっぱい付着していた。

玄界灘の魚<1>

【昨日書いた父は、今年3月食道がんで亡くなりました。心晴れない日々が続き、父にとっては無念が残る生涯ではあったとは思いますが、それでも若く元気だった頃の思い出話を時折してくれることがあり、家族にとってはそれを聞くのが楽しみでもありました。一昨年北九州へ最後の家族旅行を致しました。下記は、そのとき聞いた話をまとめた文章です。多くの普通の一市民があっという間に惨劇に巻き込まれた時代の話です】


 父は、「玄界灘の魚は食べられない」と言うことがあった。その理由を問いただしても、はっきりした答えが返ってくることはなかった。実家は瀬戸内にあったので、わざわざ玄界灘の魚を買わなくても魚は豊富にあり、あんまり気にせずに過ごしては来た。

 旅行会社のバスツアーで、長府(下関市)の次に訪れたのは門司港レトロタウン(北九州市)だった。門司港駅を中心に古い洋風建築が並んでいる。その一帯を整備して、観光客を呼んでいるのだ。赤レンガ造りの建物もあれば異人館風の建物もある。オルゴールミュージアム、地ビール直売店もある。観光船が波飛沫をあげて港に入ってくるときは、跳ね橋があがる。それも名物になって、にわかカメラマンがぞろぞろ集まってくる。
 門司港駅はフランスのルネサンス様式の建物。大正三年に建てられた当時とほとんど変わらない雰囲気で今に残っている。駅舎内の鉄の梁も剥きだしのままだし、壁は何百回も塗り替えられたかと思われるペンキがてかてかと光っている。改札口は昔風の木の改札口である。その改札口の前を両親と歩いているときだ。
「昔なあ、空き腹かかえてここを走りまわった」
と、父がしゃべりだした。かつて一度ここに来たことがあったのだ。
 駅から、波止場、そして港を見晴るかす喫茶店で父が話した長い話はこうだったーー。

 太平洋戦争の末期、昭和二〇年八月七日、父の部隊は待機していた下関から早朝に移動して、対岸の門司港にやってきた。朝鮮半島に向かうためである。船が出港するまでのわずかの時間、故郷の姫路の家に手紙を託することを思い立った。駅で並ぶ大勢の人たちに「姫路方面へ行く人はありませんか」と脂汗たらしながら声をかけて回った。いよいよ戦場におもむくので故郷に一言届けたかったのだ。数日前、下関で密かに頼んで炒ってもらった大豆が悪くてアメーバ赤痢にかかったばかり。どうにか回復に向かってはいたが、満足に飯を口にすることもできない。体力はかなり消耗していた。しかし、必死の声も空しくたちまち出港の時間。
 父達が乗り込んだのは、特攻船と呼ばれる八五〇トンの船。一隻に約百人、二隻が出港した。その出港の直前には、沖に入港してきた船がドカ〜ンとまっ二つに割れて沈んだ。おそらく、米軍が沈めていた機雷に当たったのだろう。すでに、その日までには、沖縄は米軍に落ち、前日には広島に原爆が落とされていた(父達はそのことを知る由もなかったが)。空も、海ももう米軍が支配していたといってよい状況下であった。船が沈むのをみて父達は「えらい、ゲンクソが悪いな」と密かに言い合ったそうだ。(つづく)

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