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童謡の話の前に、童謡が出来るまでの過程があります。 これが、日本の西洋音楽の始まりにもつながります。 明治維新後の日本は、西洋音楽を取り入れようとします。 ドレミファソラシの7音階です。 只、当時の日本人は、ミファ、シドの半音を使うことに なじみが薄く、ドレミファソラシ(ヒ・フ・ミ・ヨ・イツ・ム・ナ) のファとシ(ヨとナ)を取った、雅楽の呂旋法を基礎としました。 これを、ヨナ抜き長音階と言います。 この音階が、明治時代音楽の主流になっていきます。 明治に入り、自由民権運動が盛んになり、権力に対する反発が起こり、 演説する代わりに歌うと言う趣旨の、演歌節が始まります。 これが、演歌と言われるものの始まりです。演説の歌で、演歌。 今の演歌とは、意味合いが違いますが、 それが、今の演歌(艶歌、怨歌)にかわります。 明治12年に、音楽取調掛(今の東京芸大です。)が、設立されます。 この頃、さらに民権運動が盛んになり、政府は、思想統制に乗り出します。 唱歌による、忠君愛国思想の普及に力を入れ始めました。 君が代が作られたのもこの頃(明治13年)です。 明治14年から17年にかけて、伊沢修二を中心に「小学唱歌集」全3巻作られた。 日本最初の唱歌集が刊行された。音楽としてではなく、思想教育の一環として。 子供のための歌は、忠君愛国思想のもと、 子供には理解できない言葉、外国歌曲の翻訳物で、歌いにくいものでした。 唱歌教育による、愛国思想は、定着していきます。 この唱歌集の多くは、ヨナ抜き長音階でした。もしくは其れらしき曲。 蛍の光、庭の千草、アニーロリー、賛美歌など・・・。 スコットランド、アイルランド民謡が多く見られるのは、ヨナ抜き長音階の曲が 多い理由と、キリスト教の布教の隠れた意思がまた、別にあったといわれてます。 これは、北朝鮮みたいだ・・。 そして、日清戦争前後から、軍歌一色、行進曲調、長調ヨナ抜き音階ばかり、 作られて、行くことになった。2拍子、4拍子のタンタ、タンタのリズム。 別名ピョンコ節。 そして、翻訳移植時代から、創作歌曲時代に移り変わります。 この頃、音楽取調掛が、東京音楽学校に名前がかわりました。 当時は、音楽教師が目的で、演奏家になる人は、まれだった。 その中で、滝廉太郎は、異才を放った。 特に荒城の月は、ヨナ抜き短音階を、基礎に新しい試みをした。 このヨナ抜き短音階が、大正時代の中山晋平の「船頭小唄」に用いられ それに、コブシを加えた、古賀メロディ、今の演歌と受け継がれていきます。 そして、文学上の、二葉亭四迷などによる、言文一致運動が始まります。 その影響を、音楽も受け始めます。 子供の言葉の子供の歌を。 東くめなどが代表的で、はとぽっぽ、お正月など、 作曲の田村虎蔵も、言文一致唱歌を、主張した。うらしまたろう、はなさかじじい等 また、この運動が気品のないものとして、明治40年小学校令改正で、文部省による 「尋常小学読本唱歌」が編纂される。われは海の子、春がきた、虫の声、鎌倉 ふじの山日の丸の旗、人形、案山子、桃太郎、紅葉、雪、茶摘、村祭り、冬の夜、汽車。 これが文部省唱歌です。 明治後期日露戦争勝利し、日本帝国主義に基礎を固めた頃 自由主義的批判精神が広がり、寮歌、学生歌もひろがった。 大正に入り、自由と民主主義の思想が民衆から提起される。 これが、大正デモクラシーです。 大正初期は、明治以来の円満無難な唱歌である。春の小川、故郷など。 この頃、反感的な音楽を作り出し、5音階を、大人の歌に適用した、カチューシャの唄 流行歌の道を開いた。 大正7,8年は、大正デモクラシーの頂点で、第1次世界大戦勝利、物価高騰、 大正中期に、文部省唱歌、それらに反発した、叙情性をもとめた、 鈴木三重吉による「赤い鳥運動」が、はじまります。 雑誌「赤い鳥」「金の船」などが、出版された。 この頃の童謡は、文学界、音楽界の最高の人たちが集まり 世界には類を見ない運動になったと思います。 この頃の子供のうたを、唱歌から、詩情を感じさせる、童謡と呼ぶようになります。 かなりや、赤い鳥小鳥、雨、靴がなる、浜千鳥、叱られて、シャボン玉、七つの子 赤とんぼ、揺籠のうた、夕日、どんぐりころころ、青い目の人形、赤い靴、砂山 月の砂漠、夕焼け小焼け、花嫁人形、コガネムシ、どこかで春が、春よ来い 雨降りお月さん、あの町この町、ペチカ、雨降り、この道 これらの詩には、色々な意見が飛び交ってます。 これが、結構面白いです。 それを、取り上げていきたいと思います。
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こんにちは。
「荒城の月」は、歌詞、メロディいずれもいいですね。
2008/11/27(木) 午後 1:31 [ kemukemu ]