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虐める者と虐められる者はどちらが悪い?
大津の件で 最近よく話題になっているようです。 こんな簡単なことまでが激しい論争にまでなるのですから どうかしております。 ♂「虐められる側にも問題があるやろう。」 ♀「いいえ、虐める側が百パーセント悪いわ!」 ♂「虐める側が百パーセント悪い?それは言い過ぎやで、気い悪いんはおるけんなあ。」 ♀「気い悪いんが虐めてええって理由にはならん!」 ♂「せやけどなあ、気い悪いんがしつこう寄ってきたら、『きしょいんじゃ!いにさらせ!ぼけ!』っていうやろう?」 ♀「それがどないしたん?それが虐めと何が関係あるんや?」 ♂「ええか、要するにや。相手は友達がおれへん寂しい奴や。せやから 誰でも寄っていくんや。ところが誰もが似たような態度を取る。中には……」 ♀「あっ、ガン無視!」 ♂「そうや。それだけやあれへんで。集団に寄って行ったら場合によったら一時 オモチャ にされるで。そりゃあ 気い悪いんやからしゃあないわなあ。」 ♀「そうすると、各々 個人は虐めてるんやないわなあ。単に 気いが合わんから避けちょるだけや。せやけど本人からしたら 皆に虐められてるいう感覚に陥るわなあ。」 ♀「そういうこともあるっちゅうこっちゃ。」 いろんなケースがあると思います。 これは、一例に過ぎません。 「虐め」というものはこの世から無くなることはありません。 それを、あたかも根絶する可能性があるかのように語られることが 虐めの問題をより深刻にしているのです。 そして、【虐めを苦に自殺】というニュースの対象が学生ということがほぼ百パーセントに近いこともあり どうやら 子供特有の現象 と勘違いしているのではないか?と思われるような方々も見受けられるのです。 「虐め」は、年齢を問いません。健康状態を問いません。性別を問いません。職業も問いません。国籍も問いません。思想信条も問いません。あらゆるコミュニティに於て普遍であり不滅の現象なんです。 そして、虐めを苦に自殺するケースは 全体のどれ程の率でしょうか? このように言うと 「柳虫は人ではない〜」 「虐められる者の気持ちを理解できるのか〜」 虫「虐められっ子でした。」 「蟯虫の受けた虐めなんかなまちょろいわ〜」 「蟯虫は死ね〜」 「蟯虫は虐められっ子になるべくしてなった〜」 「蟯虫はきしょいんじゃ!消滅しろ〜」 などと言われるでしょう。 実際に、やられましたしね。(笑) そうです。 ネットにおいても このような意見を以て挑むと虐める側が百パーセント悪い と言っていた者たちが、一変して虐めっ子になってしまうのです。 当の本人たちは全くそれを意識していません。 私 柳虫も全く気にしません。 これも、一例です。 さて、戻りましょう。 自殺するケースは極稀なんです。 そして、殆どの虐めは何等かの対処がなされ解決されるものなんです。 自殺というキーワードが出る度にヒステリックにバッシングがおこりますが、 「虐めを何故止められなかったのか!」 「何故 被害者は死ななければならなかったのか!」 「虐めをなくす為の対処をしていたのか!」 「教員は何をしていた!」 どれも、理性を失った感情任せのバッシングでありましょう。 今回の大津は何やら怪しげな動きをしていますから、注視が必要ですが、一般的に教員が自殺までを予測するのはほぼ無理な話ではないでしょうか。全くないとは言いません。未然に防げた例もありましょう。しかしながら、全体から言えばやはり稀でありましょう。 虐めの現場に出くわした時に注意をしたり、酷い時には何等かの具体的な処理が必要でしょうが、現在の学校は教員と生徒の関係に於てそれ以上の対応ができるものでもありません。 折檻や懲罰を与えたならば、それこそ虐待で訴えられるのですからな。 被害者が何故死ななければならなかったのか!は被害者にしかわかりません。それを 教員に問い質しても意味はありません。 まして、教委や行政が学校内のことを全て把握できるものではないのです。 そして、バッシングしている者たちが、虐める側になっているという事実。 今回の大津の件でも、どうやら無関係の第三者が被害者となったようです。 加害者はなに食わぬ顔で普段の生活を続けるだけです。 これも、一例です。 さて、虐める側が百パーセント悪いとする意見ですが、どうでしょうか? 私柳虫はケースバイケースであり答えはないと断言します。 虐められる方に其なりの理由がある場合、それは虐められる側が悪いんです。 そして、虐めがこの世から無くなるなどと夢想しないこと。 また、学校や教委や行政が対応するにも限界があることを知ることです。 特にこの原因を作っているのが、保護者自身なんですからな。 「それでは、虐めから我が子を護れないではないか。」 心配要りません。 それは、ご両親が確り教育と躾をすればいいのです。 *虐めることの愚かしさ *虐められた時の対処法 *虐められない為の肉体と精神の育成 *虐めに対しての耐性 *虐めの現場に遭遇した時の態度 どうせこの世から無くなることのない虐め ご両親が確り護ってやればいいのです。 大人になり社会に出てからも通用しまっせ。(笑) BY柳虫( ̄0 ̄)/ |
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なんや知らんけど 印刷会社の従業員が胆管癌に次々と罹患し亡くなっちょるそうですが、なんでも有機溶剤が原因とか。
11事業所で24人ちゅうことぢゃ。 ほいでもって、なんでも全国の印刷所に諸々の調査を実施。 ほいから、金属加工所やらなんやら調査をせなあかんらしい。 せやけど、有機溶剤が原因なら その有機溶剤を製産しちょる企業や工場は余程 胆管癌が発生しちょるんやなかろうか? 現在、因果関係を調査中いうことぢゃが、なんでも有機溶剤は6万種以上あるいうことぢゃ。 こんなもん 特定するんも簡単やないぢゃろ。 発癌性を調べて胆管癌性を調べて更にその有機溶剤を過去からどれだけ使用してどれだけ吸い込んだか 調べなあかん。 決着は長引きそうぢゃね。 そもそも、有機溶剤の発癌性はどれだけ認知されとったんかいなあ。 これまで、一切 それを調べてないということらしいし これって 会社に責任のあるもんなんぢゃろうか? あまり詳しゅう見とらんけど、これからいろいろ明らかになっていったら判ることぢゃね。 せやけど、なんで製造元の調査をせえへんのぢゃろうねえ。 不思議 BY柳虫( ̄0 ̄)/ |
8.8 辺野古区民の真実の声を全国に「普天間基地の辺野古移設は地元の反対が強いから不可能である。」 これは、真っ赤な嘘です。プロパガンダです。 移設先の本当の地元とは、移設先の米軍キャンプのある名護市辺野古区です。 <名護市辺野古区のホームページ> http://www.henoko.uchina.jp/ 辺野古区のホームページには、 「私たちは今まで基地との交流によりまちを発展させてきました。」 と書かれています。 実際にキャンプ・シュワブの米海兵隊隊員と辺野古区住民は溶け込んだように生活しているようで、 辺野古区の恒例の運動会では、キャンプシュワブの隊員は第11班の住民として参加しているとのことです。
<写真:辺野古区運動会に参加している米海兵隊隊員とその家族> 辺野古区民は首尾一貫して、普天間飛行場の危険性の除去を願い、代替地として受け入れを容認(条件付き)してきたのです。 しかし沖縄のマスコミ、全国のマスコミはその事実と辺野古区民の思いを一切報道せず、辺野古区民の意志を黙殺した情報操作が繰り返され、結果として全国民も国会議員さえその事実をしらず、国家の利益を大きく失うことになってしまいました。 そのような中、名護市民が立ち上がり8月8日に「辺野古区民の真実の声を全国に広げる市民集会」が再開される事になりました。 地元マスコミに封殺されてきた辺野古区民の真実の声、そして辺野古テント村の実態や被害状況などを直接聞くことができます。 沖縄在住の方は、万障お繰り合わせの上是非、ご参加ください。 そして、沖縄のマスコミの報道が嘘だらけであることを多くの沖縄県民にお伝え下さい。 また、沖縄県外にお住まいの方も、ご都合のつく方は是非沖縄まで足を運ぶようお願い申し上げます。 マスコミの報道と沖縄の真実のギャップを体で感じ取り、その事実を全国に広げていただきたく存じます。 特に辺野古区民の真実の声を全国に広げていただきたく切にお願い申しあげます。 ◇関連ブログ記事◇ <■立ち上がった「辺野古漁港の不法占拠を許さない名護市民の会」> http://goo.gl/bP3AB <■辺野古テント村の不法占拠を許すな!不法占拠を応援する名護市長を許すな!> http://goo.gl/8gRFk <■韓国の左翼団体と連帯している辺野古テント村> http://goo.gl/KHUu7 (仲村覚) チラシのダウンロードはこちらから http://goo.gl/WBccb
【拡散依頼】
◆辺野古区民の真実の声を全国に広げる市民集会◆ ◎日時:8月8日(水) 開場 午後6:30 開演 午後07:00 ◎場所:名護市民会館・大ホール ( 〒905-0014 沖縄県名護市港2丁目1番1号電話:0980-53-5427 ) ◎参加費:無料・カンパ大歓迎 ◎主な登壇予定者: ◇前名護市長 島袋吉和氏 ◇名護市議会議員 宮城安秀氏 辺野古移設拒否の根底には、マスメディアと左翼勢力による「辺野古区民の声黙殺工作」がありました。 辺野古区民は、首尾一貫して、住宅が密集する宜野湾市の危険性の除去を心から願い、 そのために基地の代替地として受け入れを容認(条件付き)してきたのです。
まさに沖縄のウムイ(思い)そのものです。 しかしマスコミはその思いを一切報道せず、沖縄県民だけではなく、多くの国民・国会議員にもその事実を知らせないまま、辺野古区民の意志を黙殺した情報操作が繰り返され、結果として日本の安全保障を揺るがす大きな問題へと炎上させてしまいました。 今こそ良識ある沖縄県民は、報道されない沖縄県民の声を、そして辺野古区民の声を、力あわせて全国に発信し、日本国における沖縄の果たすべき役割を自ら宣言すべきなのです。 いままで、辺野古区民が自ら先頭に立ち表明しようとすると、反対する勢力による多くの妨害や嫌がらせが発生し、辺野古の人間関係や住民の方々の精神を蝕んできました。 今こそ、沖縄県民有志による、「辺野古区民の真実の声を全国に広げる県民集会」実行委員会の設立を提案し、マスコミが報道しない沖縄の真の声を全国に発信できるよう、関係各位と力を合わせていきたいと考えておりますので、ご賛同、ご協力を心からお願い申し上げます。 転載元 狼魔人日記http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/8ab2a07c6095b017159f9c776795e6e7?st=0#comment-form(沖縄在住の愛国者のブログです。) 皆さんぜひ拡散して下さい!
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「差別ではない、区別だ」
柳虫流では、これを非難しています。 差別と区別の違いをはっきりさせましょう。 【差別】 差を認めて別ける 【区別】 違いを認めて別ける さて、どう違うのか? 立場 能力 体力 体格 性 などの違いを別けることを 差別 又は 区別 といいます。 各々を同じくする時に 国籍 肌の色 言語 宗教 などにより 別けることを 皆さんは「差別」と仰有いますが、実は これは誤り。 そうして別ける場合は 差を別けるのではなく 違いを別けるのですから 「区別」 が正しいのです。 そして、区別により別けられたモノに優劣をつける時 *特別扱い *不当な扱い というのです。 皆さんは、差別を 「別けて差をつける」 と、誤解しているようですが、全く以てナンセンス! 語源を調べても そのような意味はありません。 あくまで、 「差を認めて別ける」 であります。 条件を揃えた上で分け前を等しく平す(ひとしくならす)ことを平等というのです。 つまり、差別をすることにより条件と分け前が揃えられるのです。 区別とは、差を度外視した上での特徴別区分をも区別と称しますから、 同じ外国人でありながら、 *特別永住者が認められている事 *中国人のみにビザが緩和されている事 は、差別ではなく区別であり 特別扱い であるということなんです。 また、 外国人への生活保護は 国民と外国人の立場の差を認めないのであるから これは 差別でも区別でもなく 拠って 単に「平等が失われている」と言えるわけです。 外国人には責任と義務に於て国民とは絶対的差違があるのです。 それを、認めないのですから「逆差別」と、皆さん仰有いますが、逆差別と造語をつくらなくとも 「不当な扱い」 国民に対して、外国人との絶対的差違を認めないのですから、このように言うべきなんです。 そして、しっかり 「差別をしろ!」 と、言えばいいのです。 「差別ではない、区別だ」 と、言っている内は 世に言う”差別”も”特別扱い”も”不当な扱い”も決して無くならない。 と、申しますのも 差別と区別の違いを皆さんが誤解 曲解 してしまっているからなんです。 外国人は、それを理解しています。 理解しながら、対日本人には 敢えて ”差別”を使って攻めてくるのです。 本来、区別をしたらいけないんです。 あくまで、差別 をしなければならないんです。 それを、 「差別ではない、区別だ」 と、躍起になるから相手からしたら 「区別されているなら、不当な扱いだ!」 と、なってしまうのです。 いいですか? 平等とは、差を認めて別けて 同じ条件下 同じ分け前 とすることをいうのですよ? そして、 差別とは、別けて差をつける のではなく 差を認めて別ける ことをいうのです。 そして、 区別とは 差を別けることも一つですが、特徴を別けること全般に使う言葉なんです。 公私を区別する とは言いますが、公私を差別する とは言いません。 色を区別する とは言いますが、色を差別する とは言いません。 つまり、 差別より、区別の方がより悪質になるのです。 その違いを理解できない日本人は自らの首を絞めていることになるのです。 自ら、 「区別をして、特別扱いや不当な扱いをしている。」 と、主張しているようなものなのですから。 特に保守を自称される方々に大いにみうけられますが、誤った認識がもたらすものの弊害をもう一度 熟考 願いたい。 逆に 保守の識者から 正しい認識の下 「差別は当然!」 と、論じられるようになれば、真の平等 が 約束されることでしょう。 一時的な混乱はありましょうが、日本人が正しい認識を持ち得たならば もはや 外国人からのそうした不当な攻撃は一切なくなります。 理解している者と理解していない者との関係は、搾取する者と搾取される者との関係になって当たり前なんです。 また、皆さんは 「差別という言葉は、既にそのように認知されているから、その意味で語らなければ会話が成立しない」 と、仰有います。 ところが、 「差別とはなんぞや?」 と、問えば 「あーでもない こーでもない 」 結局 「難しい問題ね!」 で、終わり。 つまり、実際には、認知なんかされていないのです。 当然でありましょう。 誤解や曲解を重ねて 平等 対 差別 と、さも対義語であるかのように語られるのですから、答えが出るものではありません。 その意味に於ても 保守を自称される方々にはよくよく熟考されることを望みます。 いつまでも 「差別ではない、区別だ」 と、言うのではなく 「差別は当然!平等の為に正しい差別がなされるべきだ!」 「何れも差別だ!文句があるか!逆に、特別永住は 特別扱い 外国人への生活保護は不当な扱い 拠って 廃す!」 とね! BY柳虫( ̄0 ̄)/ |
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"無"とは何か
最近 Yahooブログ で 「自分」と「人間」と「肉体」との相関について探究したブログ主と遭遇し しばらくやりとりを重ねました。 経緯の詳細は省きますが、 その中で "無"とは何か?どのような世界か?を考えてみたのです。 そして、柳虫は先ず このように定義しました。 森羅万象の事象や現象 また 物質的及び精神的な 干渉を一切許さない世界 そして、 造り出すことは可能でも 体験や観察のできない世界 なぜ、このように定義したのか。 それは、全く何も無い ことと"無"が絶対的には直結しないことがあるからなんです。 確かに存在するモノはあれど 全容を捉えられない 空間 数 次元上の直線や面 など 無限大の広がりを持つモノも また "無" である と 言わざるを得ないからです。 空間や数 次元上の直線や面が "有" と認識されるのは 任意による区切り をつけた時です。 また、真空 というのは"無"とは違います。 よく言われる 「絶対的真空は造れない」という意味ではありません。 柳虫流の真空は "有"の世界の中に真空という実体を造ったのであるから 実体を現した真空は"無"とは言えない。 ということであります。 そうしますと、上の定義にもう一つ 実体の無い世界 という定義が加わります。 実体を伴わず 如何なる干渉をも拒み 体験も観察もできない世界 を、如何に造るのか? 既に、そのブログ主のコメント欄で実験済みですが、ここで 今一度 実験を再現したいと思います。 仮に、矛盾や瑕疵のある場合は遠慮なくご指摘ください。 では、始めます。o(*⌒O⌒)b 先ず 最低限用意するモノがあります。 *細かな部分は面倒臭いので割愛しますが、大方の流れが解るようには記述するように心掛けます。 1,妊婦 2,人工子宮仕様の装置 3,人工膣仕様の胎盤処理装置 4,栄養補給装置(妊婦用と胎児用) 5,排泄物処理装置(妊婦用と胎児用) 6,長期睡眠装置 7,管理スタッフ さて、準備が整いました。 先ず、妊婦のお腹の中の胎児の成長を確認します。 そして、優良ならば 胎児から 外部の音と光から一切遮断する為に 妊婦には出産完了まで寝てもらいます。 長期睡眠装置はその為の物。 数ヵ月を栄養補給装置と排泄物処理装置に繋がれたまま 完全遮光 完全遮音の中で眠ってもらうのです。 胎児の安否は常にエックス線や赤外線などでチェックされます。 そして、臨月を向かえたならば 愈々 出産が始まります。 胎児は、出産されますが人工膣仕様の装置で胎盤を処理され 人工子宮仕様の装置である部屋に産み落とされるのです。 その間も 一切の音と光を遮断されますから 胎児にしてみれば外界との干渉を一切受けていないことになります。 臍の緒は勿論カットされ 栄養補給装置と排泄物処理装置に接続されます。 そして、成長を待ちます。 管理スタッフは、常に胎児の健康状態を監視しデータを取ります。 栄養補給や排泄の管理も怠りません。 故に、胎児は人工子宮仕様の部屋の中で成長するのです。 十年経てば十年なりの、二十年経てば二十年なりの身体の変化が観られるはずです。 勿論、一般的な成長とは異なるでしょう。 何しろ、運動をしないのですから 筋肉の発達はありません。 歪な成長を遂げると思われますが、それなりの身体の変化があるだろうことは予想に難くありません。 さて、これがなぜ "無"を造り出したことになるのでしょうか? それは、胎児にとっては"無"の世界になるということです。 胎児にしてみれば 一切の干渉をも受けておりません。 そして、一切の他のモノを知りません。 生まれてこの方 他のモノを意識することがないのです。 他のモノを意識することがなければ "認知" もままならず なにモノも無い世界 となるのです。 ところで、"無"は体験も観察もできない世界 とも言いました。 胎児にとって"無"の世界というのとは矛盾しますが、それは致し方ありません。 実は、胎児はなにモノも認知できないのですから、"自分"をも認知できないのです。 "自分"を意識し認知する為には 他のモノの存在が必要であります。 "自分"をも認知できない者には"自分"の存在すら認めることができないのですから 彼にしてみれば「完全なる無」でありますが、観察も体験もしていない と結論に至るわけです。 実験者にしてみれば それはまさに"無"の世界を造ったことになりますが、自ら体験したことにはなりませんし、そこに「無という"実体"」がある以上 "無"の世界を観察したことにはならないのです。 無という"実体"は あくまで任意に取り出した 空間 数 直線 面 と 同じことになってしまうのです。 観察という干渉が"無"を実体化させた と、言い換えても差し支えありません。 仮に、胎児がひょんなことから人工子宮仕様の部屋の壁や取り付けられている装置類を他のモノと認識したら、その時 胎児にとって "無"の世界ではなくなります。 また、このように考えても結果は同じ。 成長を遂げるのを待ち 実験者が愈々”無"の世界を観察しようと人工子宮仕様の部屋を開けたら…… そこには、外部の光に晒され音を知り他のモノと初めて遭った胎児がいるだけです。 胎児は既に他のモノの干渉を受けて"無"の世界から飛び出してしまいました。 やはり、観察という干渉の結果 "無"は"有"へと変化したのです。 実験 終わり ところで、そうしますと 「無の境地」 とは? そうです。 あくまで、「境地」 つまり、悟りを開いたとする者たちは"無"を体験したわけでも観察したわけでもなく あくまで、"無"を知り"無"と"有"の境に至った ということなんでしょうなあ。 でも、それが如何なる心境なのか 柳虫 にも解りません。o(*⌒O⌒)b また、 無から有を生み出す 無から有を創る など、到底無理ということも判明しました。 あくまで、 "有"から"無"を見いだすんです。 そして、 不足や不便を"無"と捉え そこから発想せる発明がなされただけ。 "有"の存在がなければ"無"という概念は生じない。 そして、発明される時には必ず下敷きとなる経験や継承があります。 いきなりポッと現れるわけではありません。 そして、全てが存在の許される物質や現象を基に創られます。 BY柳虫( ̄0 ̄)/ |




