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向ヶ丘自治会のブログ
当面自治会館問題の情報発信をいたします

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2014.04.02  向ヶ丘町自治会・自治会館をとり戻す会

守屋池
 −地名の由来をたどる(3)−
昔も今も向ヶ丘の中心
 「向ヶ丘の象徴」といえば、誰でも月見橋と並んで守屋池を挙げるのではないでしょ
うか。月見橋が向ヶ丘への「玄関口」とするなら、守屋池が向ヶ丘の「中心」であるこ
とは昔も今も変わらない。
 上池は堺市の所有、下池は踞尾管財委員会の所有となっており、美しい景観は「守屋
池を愛する会」のみなさんの不断の努力によって維持されている。

物部守屋が造った?
 この池は、灌漑用水池として物部守屋、またはその一族が造った」との伝説がある。
「向ヶ丘自治会誌第1号」(S8.1.1発行)にも「字守屋と謂い守屋池といふ地名の残っ
て居る事など考へますと、彼の蘇我氏物部氏が両々相譲らなかった時代を連想されるで
はありませんか」とある。
 この説にはあまり根拠がなく、「守屋」の名から「物部守屋」を連想しただけのよう
で「伝説」の域を出ない。
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昭和35年(1960年)頃の向ヶ丘(右上は上野芝駅、左下は上中)


物部守屋(もののべのもりや)は、6世紀後半に没した大化改新前の中央貴族で、
仏教が盛んになるに及んで崇仏派の中心蘇我氏と争った排仏派の中心人物。厩戸皇子
(うまやど、後の聖徳太子)と組んだ蘇我氏に攻め滅ぼされた。
敗れた物部一族は河内の各方面に逃れ、一部は泉州堺方面にも逃れたと伝えられる。
 守屋が殺された八尾市に守屋の墓があり、その近くに「守屋池」がある。

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            ↑下池、↓上池の静かなたたずまい 2014.3.31
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行基と家原寺ゆかりの地名?
 守屋の地名は名僧行基とかかわりがあるとの説もある。名僧行基は南家原村に生まれ
、37歳の時、一乗山清涼院家原寺を建立した。家原寺の36におよぶ支坊(僧の住まい)
が甍(いらか)を並べていたのがこの向ヶ丘の地であったと伝えられる。この支坊また
はその僧の名が地名となり、向ヶ丘住宅地の開発された昭和の初め頃までは、守屋・医
王・黄金山・御蔵・七住・大久保・新堀・又堀・北条・市殿などの地名として残ってい
たようだ。  その守屋にあったのが守屋池ということになる。

行基(ぎょうき)は、668年に和泉国大鳥村で生まれた奈良時代の高僧。朝廷が仏教の
民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り民衆に広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬
された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池や橋、困窮者のための施設
の設立など数々の社会事業を成し遂げた。しかし、朝廷からは度々弾圧されたが、民衆
の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、朝廷から大僧正(
最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)とされ奈良の大仏建立の実質上の責任者
として招聘された。                          (TY)

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八尾の守屋池


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