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私のうちは先祖代々一向真宗で、正月はおとそを頂く前に一家全員が仏壇の前にそろって、読経をしてから、新年の挨拶をするというのが慣わしになっていて、祖父が元気なときは祖父が、その後、父、私が導師を勤めてきております。
そんな環境と、母の郷が一向真宗の寺であった関係もあって、小さいころから仏様、親鸞聖人といった言葉に慣れ親しんで参りました。読経は正信偈というもので、前半は漢文で、後半は古文です。前半も一部分かる部分もあり、後半は殆どの字面は読み取れます。お経が終ったら、御文章という蓮如上人と言う方がかかれた、一般信者にも分かりやすく当時の口語で書かれた文の一節を読み上げることになっています。
そんな環境にあったので、お経の一部や、「歎異抄」という親鸞聖人の弟子がかかれた聖人の言行録、あるいは「出家とその弟子」(倉田百三著)などを読む機会があり、なんとなく仏の救いというものはこんなものかという観念が出来上がっております。
仏教における救いは、修行によって成仏することでありましたが、法然上人、親鸞聖人は念仏を唱えることで、俗に言う四苦八苦という、とりわけ生労病死という苦しみをあるがままに受け入れることが出来るようになり、現世、来世にたいする心の平安を得るということを導き出されました。これは苦しみ、仏に救いを求めるものは一切の差別無く救うのが仏の本願だと言っておられるのです。この本願がある限り、救われないわけが無いとも言っておられます。救って欲しい、救っていただいて有難うと両方の意味をこめて私は南無阿弥陀仏と名号をとなえます。
信じれば救われるというのは、キリスト教と似たところもありますが、神との契約とか、他の宗教を排除するというところは全く違います。
オウム事件以降宗教はこわいもの、かかわりにならぬほうが良いものという風潮があふれているように思います。そしていまでもこれらの宗教と称する団体に誘われ、参加する人が後を絶ちません。またイスラム教徒による自爆テロや、ユダヤ教徒による極端な中東の支配など宗教の悪い面が毎日報道され危機感をいだいています。しかし今ほど宗教に対する正しい理解、宗教による救いが必要な時代はないのではないかと思います。
わたしは法然上人、親鸞聖人が説かれる他力本願による仏の救いを信じ、非力な自分がさしたる不満も、不自由も無く暮らせるのは仏のお陰と、感謝しながら暮らしています。そして余計なことかもしれませんが仏の力が欧米や中東にも届き世界の人々が現状を是認しながら合意の上改革し、互いに切磋琢磨しながらも争わずに済む日が来ることを念じております。
最近「心象スケッチ【浄土と忍土】 念仏称えながら 五行歌 エッセイ」というブログを知りました。
http://blogs.yahoo.co.jp/miamasavin
とても参考になると思いますので一度訪問されては如何でしょうか。わたしが蓮如上人の「御文章」はきらいだといったら別の意味があると、たしなめられました。
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