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教育・しつけ

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わたしは一男一女を設け、長男は結婚してもうすぐ4歳になる子どもがいます。長女もまもなく結婚することになりましたので一応親業卒業と思っています。両方ともそんなに優れた成績や仕事のことでよそ様に誇るようなものは一つもありませんが、分をわきまえそれなりにあまり人様の迷惑にならずに人並みの家庭生活を営んだり、配偶者を見つけたりしております。わたしがいうしつけとは人並みのことができることをいっているので、末はノーベル賞か大社長かということをお望みの方は対象ではありません。

先日yumeyume0928さんから無窮はどういうしつけをしたのかとコメントをいただきました。
(http://blogs.yahoo.co.jp/mukyu_shikari/23124757.html)

 
コメントに以下のお答えをさせていただきました。
「人の迷惑になることは何か。迷惑になることなら親も全力を尽くして迷惑になる行動を回避する。例えばまだ言葉もわからぬころでも電車の中で泣き出したら直ちにデッキにでるとかです。泣く子と地頭には勝てぬと言いますが、そんなことはありません。親が気を使っていることは子どもは敏感に分かります。親の価値観を身をもって示すということでベッタりつきそっていることではないと思います。しつけということはその繰り返しではないでしょうか。わたは特別なしつけなどしていません。」


短いコメントではお答えしきれなかったので、あらためてわたしのしてきたこと、考えを述べてみたいと思います。



わたしはコメントに述べたようなことを心がけてきました。自分が出来ないことを子どもに言ったり、私と家内が違った基準で接することは極力避けました。また出来るだけ自分で出来ることは自分でさせるように努めました。その都度対応が違ったり、適当に妥協したりするとこどもは、どうしてよいか分からなくなります。電車の中で泣き喚くこどもの泣き声をきくと、ほんとに苦しさを訴えているのと、いずれ親が妥協すると見こして泣いているのとでは泣き方が違います。後者の泣き声を聞くと、いつもこの子は家庭で甘やかされているな、このまま大きくなるとこの子はかわいそうだな、と思って親の顔を見ています。こどもは親の対応を見透かしています。そして親が神経を使っていることに敏感です。


農業が忙しくこどもにかまっている暇など無い、商家で朝から晩まで仕事に忙殺されている。そういう場合も多いと思いますが、陰日なく働く姿は子どもにとってこれ以上の手本はありません。無言のしつけをしているといっていいと思います。そしておなかがすいた、何かが欲しいという時は親と対話するはずです。そのときの親の受け応えがしつけになっていると思っています。もうすこし我慢しなさいとか、遅くなってごめんねとか。その言葉の中に親の気持ちがこもっていて、言っていいこと悪いこと、していいこと悪いことが子どもに伝わるのだと思います。危険なことや、絶対にやってはいけないことをみつければときに叱ることもあるでしょう。



わたしは子どもの教育というのはやって見せるということだと思っています。自分が日ごろやっていること以上のことを子どもに要求しても子どもは受け付けません。えらそうなことを言っても必ず子どもに見破られます。親の背中を見て育つという言葉や、この親にしてこの子ありという言葉がありますが、その通りだと思います。朝寝坊の親が子どもに早起きをいっても通じません。やにくさい息を吐きながら、子どもにたばこはダメといってもチャンチャラおかしいとしか映りません。最近学校敷地内全面禁煙という小学校が増えてきたのはよいことです。

私の小さいころは子どもに限らず、大人でも言い争いが時々あったような気がします。みんなもっと言いたいことを言いあっていたように思います。そしてそれが江戸時代はしょっちゅう喧嘩に及んでいたのではないかと思います。火事は出そうとして出したのでは無いでしょうが、火事と喧嘩は江戸の華というのはそういう状況を言ったことのように思います。


わたしが小さいころは男子は互いに皆呼び捨てで呼んでいて、喧嘩は毎日のようでした。言い合いだけでなく、組打ちも、殴り合いもありました。女子はちゃんずけだったように思いますが妹たちの学校生活ではわたしが卒業してから暫くして君付け、さん付けで呼ぶように先生が生活指導するようになったと聞きました。わたしの子どもの小学生時代はもっと進んでお互いを思いやりましょうという教育が進んで、家内に言わせると、娘の友人が家に遊びに来ても変に遠慮して言いたいこともいわず、子どもらしい率直さが無く、淑女もどきの子ども版でいやらしいというのです。


こどものころは言いたいこと、やりたいことをやって意見の衝突や、自分の意思どうりにはいかないという現実をお互いに味わい、その体験の中から自然に妥協や我慢、他人へのその人なりの思いやりなどを体得するのではないかと思います。えせ紳士、えせ淑女に育て上げた結果が今日のいじめの元凶ではないかと思います。わたしも会社に入ってからもいろんな失敗して学んだ対人関係の対処方法が沢山あります。失敗やいやな思いをせずに、言っただけでは分かるはずはないことだと思います。


こどもの本質は動物的な本能そのもの発揮であると思います。それが2〜3歳までの基本的な躾で両親から泣いても叫んでもきいてもらえないことがあることを学び、学校という世間に出て今度はお互いにぶつかりながら社会性を身に付けていくことだと思います。いまはその機会が失われていることになってはいないではないでしょうか。


学校でいじめをなくすといいますが、そんなことが可能なのでしょうか。子供同士でもすきなのもいれば嫌いなのもいます。よく嘘をつくやつ、何かの権威や、物を持っていることで威張るやつ、わがままでみんなから嫌われるやつ。大人の社会と同じです。暴力に訴えるいじめは監視をすることである程度防げても、無視や仲間はずれにするなどということはどうやって防ぐのでしょうか。嫌われ者とも平等に笑顔で付き合えと強制するのですか。いじめられる児童がみんな嫌われ者とは思いませんが、大人でも出来ないことを子どもにさせようというのでしょうか。


いまの報道や文部科学省の対応は、いじめられた方は完全無欠で、いじめたほうは極悪非道という図式ですがほんとにそうなのでしょうか。わたしは小学生のときいじめられましたが、言葉の違い、喘息といった外的条件だけでなく、今から考えると大変気位も高く我がままでした。これがいじめられたほんとの原因と思います。あとは単なるきっかけだったりいいがかりのタネだったと思います。


私の娘は言葉の発達が遅く、また動作も遅く、運動会の障害物競走の袋くぐりでくぐった袋をきちんとたたんでから次の障害にかかるという具合でした。娘がたたみ終わったときにはもう皆ゴールしているという、みんなとずれた行動をとっていたのでいじめの対象になるのではないかととても心配しましたが、そういうことは一度もありませんでした。


いじめられている方の問題をなにもいわない。まして自殺してしまった子どもについては死者を鞭打つという感覚からか、良いことだけを取り上げるということでは原因も分からず、なんの対応も取れないのではないのではないかとおもいます。


今起きている自殺予告を大臣におくるなどということは、この風潮に乗せられて、世の中をもてあそんでいるようにもとれます。なんとしても思いとどまらせる努力は当然ですが困ったものです。喧嘩を奨励するわけではありませんが、麦踏みに例えられるように、強く育てるということに今一度頭を切り替えねばならないと思います。

秋田や福岡で小学生の自殺が報じられ、その原因がいじめにあると報じられています。いじめられた子どものことも、いじめた子どものこともその親のことも何も報じられず、すべては闇の中で学校と教育委員会だけが、批判されています。秋田の場合は事件が起こってから1年間いじめが原因と認めなかったと非難され、福岡は先生にいじめの原因があったといわれています。


どちらも当事者の説明も、何がどうだったかの究明もないので、よく分からないのですが学校や教育委員会はまるでボクシングのサンドバックのように打たれっぱなしのように見えます。秋田の事件も担当の人のインタービュを見ると、何か言いたいのにいわせてもらえないで苦しんでいるように見えました。福岡の先生は校長先生の画面だけで当の先生の弁解もありません。


わたしも小学生の低学年のころよくいじめられました。東京から疎開してオカッパ頭、言葉は東京弁で女のようだというのです。そして小児喘息。みんな整列して登校するのですが、登校時間に遅れそうになると隊列を組んだまま走り出すのですが、しばらくすると咳が出てついていけません。そのうえ祖父が農地改革で土地を失っているにもかかわらず、地主気取りで私を呼びつけにして呼んだ子どもを叱り飛ばします。いじめられる条件はそろっています。よく殴られました。


子どもには子どもの世界があり、しきたりがあります。しかも子どもは手加減や、遠慮がありませんから残酷です。先生になどいいつけたら村八分になることは請け合いです。子どもなりに知恵を出し、しきたりに合わせるしかありません。2年になり、3年になり外見も言葉も周りの子どもと変わらなくなり、友達が一人、二人と増えるに従いいじめられなくなってきました。また祖父も亡くなり、5年、6年のいじわるなのも卒業していきます。


今になっていじめられた原因を考えてみると、外見や言葉の違いやまわりの言動だけではなく、自分自身の性格にもいじめを誘発する原因を持っていたと思います。わたしは我がままでした。何事にも我慢ができませんでした。それで私をこころよく思わない人が沢山いたのでいじめられたのでと思います。よく口げんかから、つかみ合いのけんかになり、最後にはねじ伏せられて悔しい思いをしたことが何度もあります。


60年前と今は状況が違っているでしょう。しかし子どもの本質、残酷で無遠慮な生まれたままの状態を徐々に克服することで大人になるということ。つまり虫を捕まえれば殺し、蛇を捕まえれば皮をむき、そうやってそういうものの犠牲の上に命や死と言うものを学ぶ。けんかをして殴られて痛みを知り、ねじ伏せられて自分ではどうにもならないことや、悔しさを知る。これを通過することが必要なのではないでしょうか。


命の大切さを教えると、こういう事件があるたびにいいますが、言葉で言ってわかるものとは思いません。少しの怪我にも大騒ぎし、けんかもさせないという教育を教育と思っていると、見た目はおとなしいが、追い詰められるとすぐキレル人を育てることになりませんか。自殺とすぐにキレルこととは裏腹の関係にあるように思えてなりません。


いま学校を批判することはとても言いやすいことです。弱者と思われている立場の人に何か問題があってもものが言えないようになっているように思えてなりません。わたしは今年社会体育指導員(剣道)中級の資格を取りました。その講義の中で今の子どもは肉体的にも精神的にも信じられないくらい弱くなっているから、注意して指導するように。間違っても自分のこどものころと比較してはいけないと。明日の日本を背負う子どもを強くするにはどうすればよいか考えようではありませんか。

今朝のNHKニュースで子どもの運動能力の低下を取り上げていました。まっすぐに走れない子ども、前方転回が出来ない子ども、ジャンプできない子どもの例が取り上げられていました。取材した大学の研究者の話では、最近は信じがたい怪我が増えていて、中にはボールが飛んできても、取ることも、よけることも、目をつぶることさえできずに、眼球に傷をつけてしまうという事例があるということでした。


まっすぐに走れない子どもには、輪をならべて足でぐう、ちょき、ぱーのスキップさせてバランス感覚を養う。前方転回が出来ない子どもには逆立ちをさせて倒立の感覚をそだてる。ジャンプできない子どもは、跳んで着地するときに足で体重を受け止める経験が不足しているので、低い平均台から何度も飛び降りさせるというトレーニングをすることで正常に運動できるようになっていました。


わたしも今年剣道の社会体育指導員中級の講習を受けましたが、その時も現代の子どもを私達が子どもの頃と同じと考えてはいけない。肉体的にも精神的にもずっと弱くなっている。そのことをよく頭において指導するように言われました。


今朝のニュースでも、講習会でも何故そうなったのかという説明はありませんでしたが不思議でなりません。私の子どもをが小さい頃を思い出しても、現在の孫をみても思い当たる節がありません。


もともと子どもは小さな段差があれば始めは後ろ向きになって腹ばいになって足を低い方の床の着くのを確かめて移動します。そのうち前向きにしゃがんで何かにつかまりながら片足を床に着けそれからもう片方を床につけます。
次つぎに段階を経ながら最後にはジャンプして越えるようになります。この過程はだれも教えなくとも通過してしまうものと思っていました。


他の運動もそうです。走ることだって、でんぐり返しだって、逆立ちでさえみんなやりたくてしょうがないのです。やがてできるようになってしまいます。逆立ちなどは教えなくても最初は壁を使ってやっているうちに出来るようになります。


これらは子どもの本能のようなもので、とめてもなかなか止まらないものだと思います。7月に3年生以上のこども37人を連れて剣道の合宿に2泊3日でいきました。合宿所は道場をの板の間を細長い畳敷きが取り囲んでいるという形式で、子どもたちはこの畳の部分に寝かせるます。板の間と畳の部分との間には間仕切りがありません。


食後は自由にさせて、子どもたちの様子を見ていると走り回り、取り組みあい飽きることがありません。大変な運動量です。中学生には低学年がぶら下がり、飛びついています。これをみながら、普段こんなに大きな空間で自由に走り回れるところが無いのだな。この運動を毎日やれたらずいぶん違うだろうと思ってみておりました。


私の子どものころも、子育てするころも家の中は今よりも一般的に狭かったと思いますし立派な体育館も公園もありませんでした。なぜこんなに運動能力が落ちてしまったのでしょうか。


わたしは子育てするとき、直る怪我はしょうがないと思って育てました。怪我を恐れてはなにも出来ないと思っています。熱いものに触れて手をすばやく引っ込めるのも反射神経を訓練した結果と聞きます。つまり小さいやけどを繰り返して養われるのでしょう。


怪我をおそれるあまり、こどもに過剰なまでの保護をした結果で出はないでしょうか。怪我を恐れなんでもやってみようとする子どもの本来の能力を殺してはいませんか。託児所などで怪我をしたときに過剰な反応をしていませんか。最近の報道のトーンを見ると憂慮に堪えません。

安倍新総裁の挙げている改革案の第一は教育基本法の改革と聞きます。この改革で最も期待したいのは教育の基本は家庭にあるということを教育基本法の冒頭に掲げてほしいことであります。そして義務教育は家庭教育を補完するものという位置づけが欲しいものです。


だれしも子どもを持った時このこどもにはこの様な人生を送らせたと夢をもつはずです。それを実現するための能力を子どもにつけさせるのが、躾を含む教育であると思います。子どもに期待する理想は親それぞれ違っていますから何をどうどの順番にというのは親によって異なると思います。しかし何を身に付けさせるにしても我慢すること、約束を守ること、うそをつかないこと、人の気持ちを察することなど、人を敬い人の言うことを素直に聞ける躾ができていないと、どんな教育も身に付きません。この基本的生活態度を身に付けさせるのは、生まれてからすぐに始まり、おそらく高校生あたりまで続きます。


わたしは基本的生活態度の教育は両親にあると思います。学校は両親の及ばないところ即ち団体生活の規律や、知識を広く組織的に教え、日本人として必要なことを過不足無く教えることなど、両親の教育を補完する形で教え、両親が育てた骨格に肉付けしていく役割を担うべきと思います。


最近教育はすべて学校と思っている人が増えてはいないでしょうか。小学校に入学するまでにきちんと座って話を聞く、教室では私語をしない、といった最低限の躾がなされないまま体だけ大きくなっているこどもが多くなっているように思います。わたしも剣道を教えていて新1年生がこの段階を終えるのに1年かかる子どもが多いように思います。こういうレベルの子どもが40人の半分もいれば教室の正常な運営は殆ど不可能ではないでしょうか。


色んな事件が起きるたびに子どもを守ることを主とした主張がくりかえされますが、守るのには限界があります。どうしたら健全な少年を育てることが出来るのかを教育基本法の改定にあたっては徹底して考えることが大切です。知識も必要ですが、躾や基本的生活態度が育っていない人が知識を持てばどうなるか、オオムの例を見れば明らかです。


最近校長先生に対するアンケートで親の子どもに対する教育力が低下していると考えている人が殆どであるとの新聞報道がありました。またある自治体では親に子どもに対する家庭での教育法を指導しているところがあるとテレビが伝えています。とても良いことだとおもいます。こういうことは国を挙げて取り組むべきことと思います。


これから親になる人にも、既に親である人にも教育の基本は家庭にあるということを、国民みんなの合意の下に、認識してもらい。そしてその自覚を持って子どもの教育に取り組むことが国家百年の繁栄の礎であることを教育基本法の前文と第一条に掲げてもらいたいものです。

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