国家の品格について

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教育・しつけ

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いま子育て中のお母さんは大変です。とくに2人、3人と自分の手で育てているお母さんは専業主婦とならざるをえません。このお母さん方は日本の次の世代を育てているにもかかわらず、いわば無能よばわりさえされていて、扶養控除も廃止せよとの意見さえあります。逆に現在は託児所の建設、維持に莫大な税金が投入されています。こんな不公平はないと思います。


少し仕事が出来て、キャリアになるのがそんなに価値があることでしょうか。立派に子育てを終えて、なおかつ社会の指導的立場にあればそれは敬服に値します。子育てはなにかの片手間にできるものとは思えません。


キャリアとして豊な収入を得て、子どもも無ければ自由に過ごせるでしょう。片や子育てを大切に考え全人生を子育てにささげている人たちは、収入もかぎられ、かつ子どもにかかる費用もたいへんです。こうゆう人たちをキャリヤやマスコミが見下げていいものでしょうか。


わたしは子育てを終えた人に、子どもの数に応じて国が年金を差し上げるべきではないかと思っています。なぜならその子どもたちが年金を支えるのですから。つまり昔の家族制度では子どもが年老いた父母を直接養っていたわけですが、年金システムは間接的に支えていることになります。キャリアで豊な収入を得て丸投げで子育てをした人、子どもを持たなかった人たちは自分たちの蓄えで過ごしてもらえばいいのです。子ども一人に一億円かかるといわれているわけですから。


自立しようにもできず泣く泣く夫や夫の家族に従わざるを得なかったといった不幸な、女性の地位が低くかった時代が良いといっているのではありません。子育てと、仕事の両立といったスーパーマンでなければ実現できないような無理を女性に強い、かつ子どもからは母親を取り上げるという子どもにとって不幸な事態を解消するため知恵を出すべきだといいたいのです。


たとえばこんな考え方はどうでしょうか。

家庭を一つの法人と考えることはできないでしょうか。家庭は二つの機能を持っています。社会に経済的に貢献し収入をうるという機能と、子を産み育て社会が永続する拠点とう機能です。二つの機能は関連しあっていていったい不可分です。この二つの機能を持つ家庭を法人とみなすのです。働き手はもう一人が後方基地をしっかり守り身の回りのことから食事まで立派なサッポートがあって社会に貢献でき、その結果として収入を得ます。また子育ては双方が協力して自分たちの手自分たちの信条にもとづいて行います。会社や官庁は家庭法人と業務契約を結びます。これまでも世の中は妻の内助の功をあてにして来ました。これを具体的に評価して契約するのです。妻がもし能力や資格を持っているならそれも表芸として活用します。


単身者と家庭法人とでは能力も責任感もまるでちがいます。妻ある男性との競争は不公平だ、なぜなら彼には妻が付いていて後方支援しているのだからという、ある女性キャリアの話を聞いたことがあります。いまでも例えば英語が堪能な妻ならば、ただの内助の功だけでなく、夫の会社の文書の翻訳を陰で手伝っているかもしれません。それならそれを契約の中に含めて表に出してはどうでしょうか。


こういったことは個人事業者の場合は沢山あると思います。妻が税理士の資格を持って経理をとりしきったり、栄養士の資格で調理場をまもったり、薬剤師の資格で夫を助けたり。またその逆も。


そのかわり収入は家庭法人のもの、夫単独名義ではありません。家庭法人としての事業にどう支出するか、事業を誰がどう担当するのが子どもにとってまた夫婦にとってよいのかを夫婦間で決めるのです。


わたしは介護保険制度の最大の功績はこれまで女性が陰で行ってきた介護の仕事の価値を金銭で評価できるようにした点であると思っています。介護はいろいろ批判はあっても他人の手でやっても構わないと考えています。場合によっては他人の方が双方に気兼ねなくそのほうが良い場合すらあると思います。つまり場合場合に応じて丸投げでも良いのです。自分の家に介護を必要とする人がいたとしても資格を持っていれば他人の介護をし、自分の方の介護は他の人にゆだねるということだって可能です。


でも子育てはそうはいきません。丸投げはだめです。女性が自立できないために味わう悲劇を回避したいということを単純に女性の社会進出ということで二重苦に陥れることなく、開放し本来あるべき最も大切な出産、育児、教育に安心して取り組める社会制度が必要と考えています。

人間にとって最も大切なことは何でしょうか。一人ひとりが有意義な人生をおくることと、子どもを持ち立派な次の世代を育てることではないでしょうか。これ以上に大切なことは無いと思います。どんなに立派なことでもそれは人類にとって価値があることであって、それを引き継ぐ次世代が無ければ何の意味もありません。立派なわが子を育てることこそ有意義な人生そのものと思います。その他のことはそのための環境づくりにすぎ無いと考えるべきではないでしょうか。


幼児期、就学前、就学後いずれの時期も家庭教育が決定的に大切だと思っています。知識をつけること以上に生活態度、考え方、家族や社会との関係などは、学校で教えることではなく家庭で教えることだと思います。子育ては丸投げではいけません。これを託児所や学校に任せることは丸投げです。企業の丸投げにはうるさい大新聞も子育ての丸投げはむしろ奨励しているようで託児所を増やせの大合唱です。


こういうと共稼ぎで忙しいからそんなことはやっている余裕は無い、公的機関や、社会で面倒を見るべきであるとの反論が帰ってくることは目に見えています。何のために忙しいのでしょうか。いまわたしのこどもの頃に比べれば非常に豊です。60年前の暮らしは無理にしても、車は中古で我慢ができませんか、アパートももう少し狭いところで我慢できませんか。



男女共同参画社会なども大変重要なことですが、こどもの教育を忘れた議論であってはならないと思います。まず子どもの教育は家庭中心でし、その家庭の考え方、伝統に則って行う。そのために両親のすべきことは何か。勿論育てるための環境としての衣食住を得るために働かねばなりません。子どもの教育を中心にして考えその他のことは余力があれば取り組むことと考えるべきであると思います。


ふだん遠くに住んでいる私の孫が来ました。その孫が「おばあちゃんおいで」と呼ぶのを聞いて「おばあちゃんきて」と息子夫婦が言いなおさせていました。孫にしてみればいつも自分が言われていることを立場を逆にして言っただけのことですが、日本語ではおかしいのです。ほんの一例ですがこんな小さなことが毎日毎日出てきます。その一つ一つの積み重ねがその子の人格に影響してきます。こんな教育は親でなければ出来ません。豊な日本語というのはこんなところから始まるのだと思います。


母親がずっと育てるのが良いのは決まりきっています。お母さんを子どもから取り上げないで欲しいんです。そのためにどうするかの議論であってほしいとおもいます。

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三っ子の魂百まで

近所に託児所がありました。毎朝保母さんらしき人が2,3歳のこども7〜8人を鉄柵がついた手押し車に乗せて、どこかに連れていっている光景を見ました。食べ物を与えて、けがなく一日が過ごせればよいというようにはなっていないでしょうか。

ひとは、生まれてまだ首も据わらぬうちに、母親が微笑みかけると、微笑み返すそうです。数ヶ月たつと母親が見えないと、泣き怒り、さらに数ヶ月経つと自分の気に入ることをするように要求するようになり、更に進んで自分を喜ばせることに母親が喜びを感じることに喜びを感じるようになるそうです。こうして喜びを共有するというコミュニケーションが成り立つと、これが進んで悲しみや、苦しみを共有できるようになるということです。しかも喜びを共有できなければ、悲しみや苦しみを共有できるようには決してならないそうです。


親と共に暮らしている子どもは何をするにつけても、親から手本を示され、言い方を直され、我慢するべきことは我慢させられ、時にはやさしく、時には厳しく育てられています。起きている限りMan-To-Man教育です。そしてそこにはその子にかく育って欲しいという親の願いと、人はかく生きるべきであるという親の人生観がつまっていて、しかも親はその子の状態、発育に応じてしつけています。それにくらべ日中を託児所で暮らさなければならない子どもたちは親と共に暮らす時間が絶対に少ない大変大きなハンデを背負って育ってはいないでしょうか。



こどもはどう生きるべきか教えられてはじめて人らしい感情を持ちます。人らしい生活が出来ます。それがしつけと呼ばれているものです。どういうときに怒り、なき、笑うか。どういう時は耐え、我慢せねばならないか。毎日まいにち、いろんなことに遭遇するごとにその対処法を親から学びます。


物が欲しいとき、手に入れるまで騒ぎ続けるとすれば、それは子どもとみなされます。うれしいとき、その喜を表すことで傷つく人がまわりにいればそれを控える、それは大人です。悲しみ、喜び、怒り、欲望、失意、愛情、いろんな感情はコントロールしなければなりません。感情をコントロ-ルできなければ、社会は成り立ちません。また感情のコントロールや表現は自分自身の次の行動にも影響を与えます。




昨今、いたましいニュースを聞くたびに、感情の制御を身に付けないまま大人になってしまったと思われる事件が多いのではないかと思います。

厳しく叱ること

わたしが剣道を指導している少年少女の中に学校で問題児扱いされている少年がいるということです。周りからもそういったことを聞いていましたが、お母さんからもそうききました。そう聞くまでもそんなことはことは感じておりませんでしたし、聞いてからも特に気をつけてみてみましたが全くそんな気配がありません。

わたしは少年少女を一人の人間として対等に考えています。剣道ができないことで叱ることはありませんが、人としてあってはならないこと、たとえば私が話をしているときによそ見をする、あくびをする、礼が正しくできない、一人勝手なことをしてみんなの迷惑になるときなど、こんなときは厳しく叱ります。手を挙げることはありませんが、1年生の男の子が思わず涙をながしたこともあります。でもみんな剣道がすきです。

剣道では指導者は打たせても良いが、打たれてはいけないと言われております。面、籠手、胴と、打たせねば正しく打てるようにならないので基本稽古としては打たせますが、さあ一本といって稽古をするときは真剣にやれとういうことです。相手が小さいからといって甘い稽古をするのは相手にとって失礼だからです。相手を一個の人格と尊敬するがゆえに、稽古も真剣、叱るのも真剣なのです。

指導者と少年は当然対等ではありません。経験も違えば年齢も違います。わたしの指示にしたがって稽古させまた、叱りもします。友達ちではありません。あくまで先生対生徒です。しかし小さいからといってあなどるなどということはもってのほかです。全てを捨てて無心でかかってくれば思わず打たれることがあります。そのときにその少年はほんとに打てた喜びを得るのです。そのためにもこちらも真剣でなければなりません。打たせた打ちと、打たれた打ちはちゃんと分かっています。

テレビでアナウンサーがインタービュしているとき大人には「です、ます」調で話していたのに子どもには急に友達言葉になる人がいます。親しみをこめて言っているつもりでしょうが、一個の人格として認めていないのではないでしょうか。もちろん難解な言葉を使う必要はありませんが、初対面の人に使う最低限のマナーは守るべきです。

学校でどのようなことが起こっているのか、先生がどのように対応しておられるのか知りませんので意見を言う立場にありませんが冒頭の例を不思議に思っています。全力をだすこと、苦しさに耐えること、年齢や経験の差はあっても互いに相手を尊敬すること、こういうことを剣道を通じて学んでくれることを願って指導しています。そしてそういうことを身に付けた人が一人でもふえることが、品格ある国家への道と信じています。

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