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今夜も乾杯!
うれしい日も残念な日も、旅先でも一人でも、とにかく夜は乾杯を♪

書庫ドタバタエッセイ〜うちんちの珍事

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子のためと涙こらえて新境地


一文無しで今の地に越してきたわが家。

鶴見の賃貸マンションよりも格安で借りられる

テラスハウスを見つけたための決断だったのだが、

越してきてみると、そこは今をときめく新興住宅地。

立派な家がお行儀よく立ち並び、

どの家も、門の周りには手入れの行き届いた草花が飾られている。

私は泣いた。

なんでよりによってこんなハイソな街を選んでしまったんだろう。

ほかにも転居の有力候補地があったのに、

ちょっとした行き違いで今の地に決定してしまった。

うまくいかないときは、何をやってもうまくいかないものである。

 

それでも、罪のない子どもたちを泣かすわけにはいかない。

「新しい学校でもお友だちをいっぱい作ろうね!」

と、私は努めて明るく振る舞い、

沈みそうになる自分の気持ちを片隅に押しやった。

「この家いいね!トイレが二つもあるし、お庭もあるし」

と、無邪気に戸建て感覚の住居を喜び、

毎朝歌を歌いながら2階から下りてくる次女にも

どれほど心励まされたか知れない。

ありがたいことに、仕事も順調そのもの。

次第に、子どもを介して大人同士の交流も増え、

居心地もだいぶよくなってきた。

さらには、夫の実家の一部の土地が税金対策上、

私たち家族の名義になっていたのを義母が買い取りたいと申し出てきて、

新居建築の頭金ができることにもなった。

 

それからというもの、

毎月12万円という家賃を払い続けるよりも、

掘っ立て小屋でもいいからマイホームを建て、

そこにお金を次ぎ込んだ方が得策だろうと考えるようになる。

子どもたちの教育資金など二の次だ。

細々と積み立ててきた学資保険と、大学の奨学金でどうにでもなるだろう。

その前にまずはマイホーム確保。

そう思ってリサーチを始めた矢先、

高台でバス停からはちょっと離れているものの、

このハイソな街にしては坪単価がかなりリーズナブルな土地物件が出た。

買うなら今だ!

渋る夫を焚きつけ、いっしょに土地を見に行って、

見晴らしのいいその場所に立って2人とも納得した。

ここでもう一度人生をやり直そう。

その場所からは、うらぶれた気持ちで越してきて、

どうにかこうにか5年間過ごしてきたテラスハウスが眼下に見えた。

 

かくして2000年、

私たちは人生初のマイホームを獲得した。

大田区のアパートで5年、

横浜市鶴見区のマンションで5年、

今の地のテラスハウスでも苦節5年、

そしてとうとう終の棲家を手に入れたのだ。

施工は、夫が勤務していたリフォーム会社に依頼。

設計は、それまでテラスハウスによく泊りにきては

壁面の本棚や庭のバードフィーダー(鳥のえさ台)などを作ってくれ、

いっしょに旅行にも出かけたりしていた夫の会社の同僚がちょうど独立を果たし、

一級建築士事務所を立ち上げたため彼にお願いした。

 

わが家の隣りには「くじらの森」と親しまれている里山がある。

わが家を設計してくれた彼の会社名が「建築工房くじら」。

この設計家は、自分の設計した物件のどこかにくじらの形の物を残したいと、

わが家の2階のオープンスペースに

幅一間分の大きなくじらのカウンターを作ってくれた。

これも何かの縁というものなのだろうか。

 

とにかく、子どもたちはそれぞれに個室を手に入れて勉学にも励み、

夫は会社でかなり営業能力を発揮して月間MVPを何度も獲るまでになり、

私はくじらのカウンターにデスクトップのPCを買って原稿を打ち続けた。

 


何もかもが順調に滑り出した、かのように思えた。

が、またもやとんだ落とし穴が口をあんぐり開けて待っていたのである。


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手書きからワープロを経てパソコンに

リクルートで働いていた頃、原稿は専用の原稿用紙に鉛筆で書いていた。
婚して子どもが生まれ、
自宅で求人広告のキャッチフレーズとコピーを頼まれるようになったときも、
原稿用紙に鉛筆書き。
ただし、仕上がった原稿はすぐにFAXで送らなければいけなかったので、
一般的にはまだそれほど普及していなかった家庭用のFAXを、
わが家は設備投資とばかりにいち早く導入した。

ただ5〜6年続いた在宅コピーライターも
1988年のリクルート事件をきっかけに、次第に先細りとなっていく。
1993年頃にはさすがに開店休業状態となっていたが、
長男が幼稚園の卒園を控えた2月のある日
さらにワンランク上の文明の利器が必要となるできごとが起きたのである

その頃私は、母親たちで構成する卒園委員なるものを仰せつかっていて、
余った予算で卒園児にタオルを配ることになり、
大田区中延にある出産・育児用品の特約小売店「アカチャンホンポ」へ仕入れに行った。
すると、私を旧姓で呼ぶ声がする。
ん?と思って近づいて行ってみると、リクルート時代の同僚Sだった。
と会うのは、私とタマッキーの結婚披露パーティー以来、実に10年振り。
彼女も長男の幼稚園で卒園委員をやっていて、
余ったお金で卒園児に配る鉛筆を買いにきたというからおかしい。
よりによってこの「アカチャンホンポ」で私はSから、
扶桑社が出版する住宅雑誌『新しい 住まいの設計』の、
取材記者の仕事を紹介してもらうことになったのだ。

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それは、家を新築した人を訪ね、
失敗談や成功談を聞き出して記事にするという、なんとも楽しい仕事だった。
ただし、手書きはNG。
原稿はワープロでたたいて、FAXで送信することが要求された。
そこで機械音痴の私は急きょ、息子が通う幼稚園の同級生のお父さんから、
押入で眠っているというワープロをもらい受け、
ついでにワープロのインストラクターまで引き受けてもらうことになる。
長年、鉛筆書きに慣れたこの体。
そう易々とワープロなんて気のきいた物を使いこなせるだろうかと不安だったが、
この心優しき幼稚園のお父さんのおかげで、
私はどうにかワープロをマスターすることができた。
人間、必要に迫られれば、思わぬ力を発揮するものである。
結局、このオンボロ(ごめんなさい)ワープロは、
1995年、わが家が初めてパソコンを導入するその日まで、
けな気にも私の仕事をサポートし続けてくれた。

1995年はわが家にとっては激動の一年だったが、
その頃存命だったタマッキーのお父さんは意気消沈している私に、
「孟母三遷」と言い、Windows95の発売とともにパソコンまで買ってくれた。

※孟母三遷とは、孟子の母が、墓場近くに住んでいたときは孟子が葬式の真似ばかりするので市場近くに転居すると、今度は商人の駆け引きを真似るので、次は学校のそばに転居したらやっと落ち着いて勉強するようになったことから、教育には環境が大切だというたとえ。

人生、悪いことばかりじゃない。
パソコンの導入はわが家にとっては一大センセーションだった。
インターネットに接続すると、居ながらにして世界中の情報を瞬時にキャッチできる、
れまでにないスグレモノである。
私の書く住宅記事は、ワープロで書いていちいちプリントアウトしなくても、
パソコンに搭載されたワープロソフトで書き上げたら、
内蔵のFAX機能で簡単に送信できたし、
そのうちメールが普及し始めると、
書いた原稿をメールにコピーペーストして送ることも可能になった。
どこにいても仕事ができるようにと、
買ってもらったパソコンはノートタイプだったので、
3人の子どもを公園に連れて行って放し飼いにし、
私は木陰のベンチでノートパソコンを広げ、仕事を仕上げたなんていうことも。
 
どうにかこうにか住宅記事が書けるようになると、
住宅メーカー・ミサワホームがユーザー向けに発行している季刊誌からも、
取材記者の仕事が舞い込んできた。
月刊誌である『新しい 住まいの設計』と、
この春・夏・秋・冬の季刊誌の仕事が重なる月などは、
どうやって子どもたちの世話をしていたか思い出せないくらいの目まぐるしさである。
たとえ目が回るほど忙しくても、
たとえ、夫とばかり思っていた相手が髭の生えた赤ん坊よろしく、
ときに子どもより手を焼く存在だったとしても、

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私にとって仕事は生きがい。
その頃習っていたピアノの月謝も、友人たちとの交際費も、
洋服代も美容院代も、全部自分の収入でまかなっているという自負が、
私が私であることの支えになっていた。

なのに、運命とは過酷なものである。
突然我が身にふりかかったとある珍事をきっかけに、
私の仕事は見るも哀れ、急激に冷え込んでいくのである。
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転々と行く先々に保育縁

この世というもの、ときとして自分の意志とは無関係な力が働き、
それが宿命でもあるかのように、とある場所や人にたどり着くようできているらしい。
 
せっかく親が惚れ込んで長女と長男を通わせていた保育園。
子どもたちもその環境にだいぶ慣れ、
むしろ積極的に園での生活を楽しむことができるようになった折りも折り、
わが家に3人目の子どもが誕生することとなった。
さすがに、2DKに親子5人は密度が高すぎる。
そこで、私たちはもう少し広い住居を探して探して、
鶴見という街にたどり着いたのである。
もちろん、「子どもの部屋保育園」への通園圏というのが最優先課題だったが、
時はまだバブルの頃。
都内で3DK以上となると、家賃が高すぎて望むべくもなかった。
結局、多摩川と鶴見川、2つの川を越えた高台に新築中のマンションを見つけ、
私たちはそこで手を打つことになる。
かくして長女と長男は、あえなく転園を強いられたのだった。

ところがよくしたもので、
引っ越した先には「子どもの部屋保育園」に負けず劣らず
子どもたちをのびのびと遊ばせてくれる幼稚園が、
両手を広げて待っていてくれたのである。
園児数の多さには圧倒されたが、それでも先生たちはみな熱心で温かく、
手作りの保育を心がけている様子が伝わってきた。
「小さいうちは詰め込み教育ではなく、光や風や土や水に体ごと親しもう」
そんな園の方針にも大賛成だった。
鶴見という見知らぬ街で、私もタマッキーも子どもたちも、
この幼稚園を介してたくさんの人と出会い、
数えきれないほど楽しい思い出をつくることができた。
大田区から川を2つ渡って引っ越したときは、
すっかり「都落ち」の気分だったのに、住めば都。
もはや鶴見に定住もありとさえ思っていた矢先、
わが家始まって以来の一大事件は勃発した。

結婚を機に大手住宅メーカーのリフォーム会社に勤務していたタマッキーだったが、
1992年に仲間5人で出資し合い、リフォーム会社を立ち上げていた。
が、その会社がうまく軌道に乗らないうち、
ワケあってタマッキーだけスピンアウトすることになったのだ。
運よく再就職はできたものの、諸事情により鶴見を引っ越さざるを得なくなってしまった。
それは忘れもしない、1995年の出来事である。
長女と長男は小学校を転校するとして、
5歳になった次女が張り切って通っていた幼稚園を、去らなければならないこと。
そこで培った貴重な交友関係も置き去りになってしまうこと。
すったもんだのスピンアウトで、貯蓄がほとんど底をついてしまったこと。
タマッキーと結婚して初めて味わう絶望的な気持ちの中で、いろんな思いが交錯した。
1月、阪神・淡路大震災が起きたときなど、
マッキーのスピンアウトが決定した直後だっただけに、
私は特別な面持ちでテレビの画面に見入ったものだ。
わが家の一大事は自己責任によるもの。
なのに、震災に遭った人たちは、なんの責任もないのに被災してしまった。
この地震で愛する者を失った人もいれば、
長年住み慣れた自宅が倒壊してしまった人もいる。
それでもみな復興を目指して立ち上がり、
力強く生きていこうとするその姿に、私はどれほど勇気づけられたかしれない。

はてさてそれが夢かうつつか幻か、複雑な心境を抱えたまま、
わが一座は今の地に越してきた。
そして、鶴見では幼稚園仲間に助けられながら仕事を続けてきた私も、
誰一人頼る者のない新天地では、次女を保育園に預けるしかないと覚悟を決め、
その手続きに向かうまさにその途中である。
なにを思ったか私は、駅へ向かう道をいつもと違うルートで自転車を走らせ、
とある幼稚園の前で不意に足を止めた。
大田区時代にぞっこん惚れ込んだ保育園とも、
鶴見時代に親子で満喫した幼稚園ともつかない、
でもどこか同じ匂いのする幼稚園。
吸い込まれるようにして中に入って話を聞いてみると、
お仕着せのカリキュラムではなく、太陽のもとで大暴れしつつ、
木工や調理をしたり、自分の足で大地を踏みしめて遠足に出かけたり、
子どもながらに自立を促す保育方針だという。
幼稚園というよりも、自主保育というポジションらしく、
毎日のように親の出番があると聞いて気持ちは揺らいだが、
背に腹は替えられない。
たまに仕事でお迎えが遅くなることがあることを了承してもらったうえで、
私は即刻、次女の入園を決めたのである。

決めたのは確かに自分だ。
でも、そこにたどり着く課程は、
自分の意志のようであって、そうではないような気もする。
第六感が働いたということなのだろうか。
とにもかくにも、次女はこの幼稚園に正味7ヶ月ほど通って、無事卒園とあいなった。
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野生児もボンボン育ちの血に勝てず
新婚時代から新米ママ時代まで住んだ東京都大田区に、
とても野性的な保育園があった。
そこに通う子どもたちはいつもちょっと薄汚れていて、
平気で裸足で駆け回るような、
それでいていつも新しい刺激に目を輝かせているような、
時代を逆流して昭和の初期を生きているような子どもたちだった。
田舎育ちで野山を駆け回り、川で河童のように泳いで育った私には、
どこか郷愁を感じさせる子どもたち。
一方、タマッキーはといえば、都会育ちのうえにボンボン育ち。
タマッキーのお母さんは住み込みのお手伝いさんが3〜4人いる家に育ち、
結婚した相手が建設省の転勤族で地方の官舎暮らしが多かったものの、
その都度実家から派遣されたお手伝いさんが官舎近くのアパートに住み、
タマッキー一家が暮らす官舎に通っていたという伝説がある。
靴ひももお手伝いさんに結んでもらっていたせいか、
タマッキーは今でも靴ひもをぎゅっと結ぶことができないし、
ペットボトルのふたを最後まできっちり回せないし、
ドアすらきちんと閉められない。
大げさなようだが、事実である。

私はわが子を、
どんなたいへんな時代でもヒョウヒョウと生き抜くたくましい子に育てたかった。
子どもたちがどうやら野生児の私の血よりも
タマッキーのお上品な血を多く引き継いだようなので、
「たくましい子に」の思いは格別だ。

ところで、私の血液はO型でタマッキーはB型である。
3番目の子どもが生まれてしばらくして、
私は3人いっぺんに血液型を調べてもらいに保健所に行った。
長女はわりに頑固なところがあって、
あまり人と歩調を合わせるタイプではないので、
おそらくB型だろうと検討はついていた。
でも、長男はおおらかで人を和ませるタイプ。
「夫婦ゲンカをしたときはこの子を貸してほしい」
と申し出る友人がいたほど、醸し出す雰囲気の柔らかい子だった。
次女は、OかBかまだどちらとも判断がつきかねる状態だったが、
家庭でも近所でもペットのように愛されていたことは確かだ。
だから私は、長男か次女のどちらかは「O型かも」と期待していたのだ。
検査結果は、長女がB。
「ま、当然だろうな」
と、私は冷静に受け止めた。
が、予想に反して長男もB。
「うっそーっ!?」
私はその場で倒れそうになった。
最後の頼みの綱だった次女までが「B」と告げられたときは、
目の前が真っ白になったほどである。
けっして、B型が悪いというわけではない。
人に流されず、わが道を行く。おおいに結構なことである。
でも、タマッキーのお父さんもBなら、お母さんもB。
皆さんこぞってわが道を邁進していらっしゃる。
一人くらい私と同じO型がいて、人を気づかい、
あっちにいい顔、こっちにいい顔する人間がいたっていいじゃないかと思うのだ。
柔道のヤワラちゃんが、
「田村で金、谷でも金、ママになっても金」
という名言を吐いたが、わが家は
「長女がB、長男もB、次女までがB」
もとを正せば、
「夫がB、お義父様もB、お義母様までがB」
なのである。

さて、話を元に戻すと、大田区にあった野性的な保育が売りの「子どもの部屋保育園」。
色白で、公園に連れて行っても決まった子としか遊べず、
水疱瘡・水イボ・扁桃腺炎それにアトピーと、
ちょくちょく医者通いをさせられる長女の将来を懸念して、
私は長女を「子どもの部屋保育園」に預ける決心をした。

その保育園は徹底していた。
朝は子どもたち一人一人にマット運動を施し、そのあと全員で雑巾がけ。
晴れた日は必ず散歩に連れ出し、毎週金曜日は遠足。
文字通り歩いて遠くまで往復するのだが、
夏の炎天下でもバケツを持って片道1時間以上かかる海浜公園まで行き、
貝やザリガニを収穫してきていたのである。
3歳まで可愛らしい洋服を着せ、親子で蜜月を味わってきたというのに、
そんな愛娘を急に武者修行のような環境に放り込み、
「はたして本当にこれでいいのか」
と、何度も自問自答を繰り返した私だが、
長女が初めて海浜公園までの道のりを往復して帰ってきたそのときは、
「お帰りぃ!」
と抱きしめた瞬間、ホロホロと涙が頬を伝って止まらなかった。
ボロボロになって闘ったロッキーを抱きしめた、エイドリアンのような心境だったのだ。

長男が生まれたとき、私は生後1年半で彼を「子どもの部屋保育園」に託した。
長女がそこで鍛えられ、精神的にも体力的にも強くなったこと。
リクルートから独立したかつての同僚から、
家でもできるコピーライターの仕事が舞い込んでいたこと。
そして自分自身、ただ家事と育児に追われ、
夫が運んでくる給料にしがみついている生活ではなく、
自分の小遣いくらいは自分で稼ぎ、
やりたいことがあったら積極的に挑戦する
アクティブな女性でありたいと考えた末のことだった。
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七五三旅とセットでわが家流
子どもが生まれると、やれ、お宮参りだ七五三だと、
神社に足を運ぶ機会が増えるものだ。
でも、わが家はちょっと異例。
お宮参りは普段着で近くの神社に行って手を合わせただけなのに、
七五三となると記念旅行に繰り出し、
旅先で縁もゆかりもない神社でお祓いしてもらうのである。

七五三を旅とセットでと思いついたのは、長女が2歳のときだ。
初の七五三だし、どこか面白そうなところをと旅先を検討していると、
ガイドブックにあった「日本のヘソ」という言葉が私は妙にひっかかった。
長野県上田市に生島足島神社という神社があって、
そこはちょうど日本のど真ん中に位置することから、
「日本のヘソ」という言い方をしているらしい。
近くには別所温泉があり、宿もラクに手配できたため、
私たちはタマッキーのお母さんも連れだって信州に乗り込むことにした。
単に「日本のヘソ」という言葉に惹かれての安易な七五三旅行だったが、
この神社、行ってみるととても由緒ある重厚な神社で、
朱塗りの大鳥居と、本殿を取り巻く池に映った紅葉の美しさは、
2歳だった娘が2歳の子どもの母親になった今でも目の裏に焼きついているほどだ。

長女が7歳のとき、長男は5歳、次女は2歳だった。
次女は数えで言えば3歳。
これは、七五三をいっぺんにできるまたとないチャンス到来だ。
このときは、タマッキーの「伊勢エビが食べたい」のひと言で、
伊勢神宮に行こうとあいなった。
その昔、伊勢をお参りする人たちは、
二見浦でみそぎをしてから伊勢神宮に参拝したそうで、
私たちも1日目は東名高速豊田インターから知多半島を南下し、
伊良湖からフェリーで鳥羽に渡って二見の旅館に一泊。
翌日、伊勢神宮で七五三のお祓いをしてもらい、
この日は江戸時代の旅籠を思わせる老舗旅館「麻吉」に泊まった。

鳥羽では私の誕生祝いに真珠のイヤリングを買ってもらい、
二見では夫婦岩を見学したり、
伊勢の赤福本店を訪れて、ご近所に配るお赤飯代わりに赤福を買ったり、
帰りは浜名湖近くでわざわざ高速を下りて鰻を食べるなど、
この旅行は2泊3日余すところなく堪能できた。と、思った。

が、そうは問屋が卸さないのがわが家。
実は、旅行の前々日、息子は38度を超える高熱を出したのだ。
わが家では熱を出した場合、夏冬関係なく電気毛布を使い、
ガンガン汗を出させつつポカリスウェットを補給する。
この荒療治で、子どもたちは今では病気知らずの強い体になった。
だからこのときも、息子の高熱をいつもの手当で1日で治したのだ。
ところが旅行前日、熱は下がったのに今度は体がかゆいと訴える。
旅行前だから私も慎重になって、息子を皮膚科に連れて行った。
医者はかゆみ止めの飲み薬と塗り薬を処方し、
私たちは薬を持参しての旅行だったのだ。

伊勢から帰ってまだ腰のあたりをかゆがる息子を、
今度はかかりつけの小児科に連れて行くと、
「お母さん、この子最近、熱を出しませんでしたか」
と、先生が言う。
まさか、1日で下げて旅行に連れて行ったとは言いがたく、
「はい、そういえば数日前…」
と言葉を濁すと、
実は息子の腰のまわりや舌にできたブツブツが溶連菌感染症特有のもので、
ちゃんと手当をしないと髄膜炎を起こしたりする危険な病気だと告げられた。
俗にいう猩紅熱だ。
最低1週間は抗生物質の投与が必要で、
治った頃に手の皮がむけたりすることもあるとのことだった。
息子よ、ゴメン。
そうとも知らずに伊勢くんだりまで連れ歩いて、お母さんはバカだった。

1週間ほどして、息子の指先の皮がむけた。
間違いなく、猩紅熱である。
でも待てよ。
皮膚科の先生は腰のまわりの発疹とイチゴのような舌を診て、
猩紅熱によるものと判断はしないものなのか。
息子は大事にはいたらずに、家族も誰一人菌がうつることなく、
脳天気に伊勢エビと鰻を食べて帰ってきた、
なんともおめでたい七五三ではあったけれど。

次女が7歳になったとき、
たまたま天城高原にあるホテルの無料宿泊券が手に入った。
そこで、私たちは性懲りもなく、
箱根神社での七五三をセットにした1泊旅行に出かけたのである。

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