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    『複式夢幻能をめぐって』・・『 日本のかくれた形(アーキタイプス)』・・13

    

 ところで、さっきいった水に映る星影とか月影とかいうのは紀貫之だけかと思っていたら、バシュラールというフランスの哲学者のものにも出てくるし、ホフマンにも確か出てきますね。

 エドガー・アラン・ポウの詩のも出てくるはずです。

 それぞれの国の人なりの感じかたではあっても、水に映る月、水に映る星、そっちのほうに真実があるという考えかたは、一種インタナショナルなものでもあるらしい。

 ということになるとですよ、さっきお能を二曲挙げて、日本的リアリティの造出ということをお話しして、それと日本的発想の原基形態とはつながってるだろうということをいいましたが、それはそうに違いないけれども、一方でヨーロッパのドラマにも、ふつうヨーロッパ的合理性というような言いかたで割り切られているものを越えるなにかがある。

 全ての場合じゃないけれどもそういうケースもあるということを、一応考えておうたほうがいいかと思います。

 そこでまず、いちもぼくが何かというと例に出す『オイディープス』というギリシャ悲劇があります。

 あれはソポクレースという紀元前五世紀の人の書いた芝居ですが、テーベのよき王が十年間よき政治を行ってきた。

 するとそこで疫病がはやったので、何とかしてくれと町の長者達が王に訴える。

 そこで王は何とかしようとしてデルポイの神殿に伺いを立てる。

 そうすると、自分の父親を殺して自分の母親と結婚している男を発見すればいいという神託が下る。

 そこでよき王としてのオイディープスは一所懸命それをさがそうとして、努力して努力して行って、最後にそれは自分自身であることを発見して、苦しんだあまり自分の両眼を潰して放浪の旅に出るという話しですね。

 これを、もう四年ぐらい前ですが、ギリシャの国立劇団が日本で演ったんです。

 これは、ギリシャの劇団が演ったからギリシャ悲劇ということにはならないらしいですね。

 古典ギリシャ語と現代ギリシャ語は違うし、民族的にも違うらしい。

 古典ギリシャ悲劇というのは日本人が演ってもどこの国の人が演っても同じことだという理屈になるらしいのですけれども、そのギリシャ劇団はとにかくギリシャ語で演ったんですね。

 それを見てぼくは不満だった。

 なぜ不満だったかを考えてみると、そこで演じられているものが、、一人の男が非常に困難に出会って煩悶しているという舞台にしかなっていない。

 どういうことかというと、理も非もなく彼に劫罰を与えた神の視点というものが全然抜けているのです。

 困難に相対した男が悩んで闘っているという、これだけだったらこれはイプセンの芝居の亜流見たいになってしまうわけですね。

 たいへんに悩んで最後には自分の目を潰してしまったーーーその人間としての苦悩がちゃんと演じられると同時に、彼にそういう劫罰を与えた神、人間の力を越える存在としての神というものが舞台空間の内か外か知らないが、どこかにいないかとあの『オイディプース』という芝居は成り立たない。

 ただし、そういう意味で成功した『オイディプース』の上演があるかどうかしりませんけれども、例えば、能の役者があれば演じれば、それもただ翻訳してそのままというのではなくて、翻訳して演じればどうなるか。

 実は“宴の会”という、今はないグループですが、能、狂言、新劇が集っていた集団が、かって『オイディプース』をやった。

 ただし翻訳でやった。

 見そこないましたが、翻訳でやってみるといいと思います。

 人間の直面している困難と同時に、その困難を与えた神の立場というのが創り出せたらおもしろいだろう。

 ドラマの基本は対立だということをよく言いますけれど、単にAとBが対立してコンフリクトが起きるのがドラマなのではなくて、それはドラマの一部であって、やっぱりドラマというのは人間と人間を超える力とが相対峙しているところに漲る緊張感、それが基本だと思うのです。

 『オイディプース』の場合でも、いわれなき劫罰を神から与えられたよき王としてのオイディプースがそのいわれなきものとどう闘うかということで、作者は、ソポクレースという人は、ギリシャの当時、運命というものをどうやって突き抜けるか、それを主人公のオイディプースが自分で自分の目を潰してしまうという行為を経て、次の高い次元に出たという形で描いていると思うのです。

 それがあのギリシャ国立劇団の舞台では創られていなかった。

 これは恐らくヨーロッパ演劇全体の問題かもしれません。

 能の持っているような、自分であり同時に他人であるというそういうものの系譜がないから、それはヨーロッパ演劇がこれから解決していかなければならない問題であるかもしれないし、同時に能がただ今の能のままでいたのではやはりどんな優れた能に感動しても、一歩外に出るとわれわれは違う世界に生きているわけですから、それだけでは自分の中のどの部分かが感動したに留まってしまう。

 そこでそれらをどうやって総合するか統一するかということがこれからの世界演劇全体の問題だろうと思うのですが、そっちへ話を持って行ってしまうと演劇論になってしまう。

 今いいたいのは、ヨーロッパにもーーー突っこんで考えて行けば日本の場合とずいぶん質の違った、しかし無縁ではないーーーそういう問題があるらしいということです。 

(木下順二、複式夢幻能をめぐってー「日本文化のかくれた形」・岩波書店、1991年)

画像: 小山硬作品 http://www.geocities.jp/mune_sumi/culture-koworld.html
Image Designer: 森 泉 http://www.japan-fineart.info


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