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『複式夢幻能をめぐって』・・『 日本のかくれた形(アーキタイプス)』・・14

もう一つだけヨーロッパの例を挙げれば『マクベス』。

 この芝居が今のぼくにもおもしろいのは、これもある意味でお能の問題と重なるところがあるのですが、マクベスがだんだん自分を他者として見るようになってくるということなのです。  
  
 それはどういう意味かというと、なにしろヨーロッパの芝居というのは、紀元前五、四世紀のギリシャから一貫してせりふも論理的に書かれていますから、謡曲にあるような翻訳不可能な、つまりヨーロッパ的論理では翻訳不可能なことばのつながりあいでは書かれていませんから、比べるのは無理といえばそれっきりなのですけれども、でも例えば『マクベス』にしても、われわれが芝居を書く時には考えようもないようなオーヴァーで荒唐無稽みたいなことばの使い方をしていますね。

 ただそれが日本の歌舞伎とかお能とかと違うのが、ことば遣いは荒唐無稽のように見えても実はリアルな心理を言い当てているということです。

 そのことばの例を挙げるのはいま省略しますが、マクベスでおもしろいのは、彼がダンカン王を暗殺してしまう、そして殺してしまった瞬間にしまったと思い、だんだんその思いが深まってくるわけですね。

 ところが『マクベス』というのは1605年あたりの作品、作者後半期の代表作の一つのわけですが,シェイクスピアの前期の作品、例えば1592年頃の『リチャード三世』なんかは、同じように王を殺して自分が王になるという芝居なんだけれども、これは一つのメカニズムとして客観的に書かれているわけですね。

 対立者を殺す、そのことで階段を踏み上がって行く。

 と、そのことによって自分は敵を次々につくって行く。

 そして敵ができるから敵によってまた殺される。

 歴史の歯車の回転はそのようなものである、というメカニズムは書いている。

 ところが後期の方になりますと、例えば『マクベス』の場合、そういうものとしても分析できるけれども、それよりもっと、自分がその殺人の現場の中にどんどんはいって行く、ダンカン王を殺したら次はパンクォーの息子を殺さなければならない。

 フリーアンスは逃げちゃうわけですけれども。

 そいうふうに、回れ右の利かない道へどんどん入って行くうちに、だんだんだんだん自分が他人に見えてくる。

 つまり、おれがこんなことをしちゃったのは間違いない事実だけれども、しかしどうしておれはここまで来たんだろうと、そういうふうにしている自分が不思議に見えてくるわけですね。

 で、自分を他者として見る。

 他者として見るのだけれども、しかしいくら他者として見てもそうやって見ている自分は、もう行為を犯してしまっているわけで、その行為を犯したら、必然的にもう一つ先へ、次なる行為へ進まなければならない。

 回れ右が利かない。

 先へ進まなければならない。

 そうやってずるずると入っていくわけですね、血の中に。

 だけれども入っていきながら、その入っていく自分をいわば客観的に、とりかえしのつかなくなってくる自分をずうっと見ながら、見ながら転落していく。

真直ぐな並木道、vista、その坂道をまっさかさまい自動車が転落していくとしますね。

 転落していくことはまさにそうなんだけれども、同時にその転落していく自分が見える。

 あるいはその自分を両側の並木が自分の目になって見ているような、そういう感覚を非常に適確に描いている。

 だからそういう意味からいうと、お能では、一種不思議な様式で、自と他、あるいは運命というものを一人の役者が演じることになる。

 それに対してヨーロッパはもっと合理主義的ですから、そんな不思議なことはないんだけれども、結果としてそれに似たようなことができているといっていいのかもしれない。

 それを直接並べてつなげる、また比べることは無理ですけれども。


    * * *

 以上、課題の日本文化のアーキタイプ(ス)のまわりをただぐるぐる回って来ただけのことになってしまいました。

 問題を考える入口までやっと来たかという気がするというより、ぼくの場合はむしろ素材を提供したというところにとどまると思いますが、一応ここで終わることにします。

  (木下順二、複式夢幻能をめぐってー『日本文化のかくれた形』・岩波書店、1991年)

 今回で、木下順二の『複式夢幻能をめぐって』は、最終回。

 複式夢幻能の幽玄の世界が、言ってみれば、『異時同場面』という日本文化のかくれた形(アーキタイプス)があると言う。

 「主語」を省略しながら話す日本語の基本に根ざして可能にしているという。


 日本アニメの伝統は、高畑勲作の「十二世紀のアニメーションーー国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるものーー」(徳間書店)に示されている。

 『信貴山縁起絵巻』、『伴大納言絵詞』、『彦火火出見尊絵巻』、『鳥獣人物戯画』の解説が面白い。

 そこで、『異時同図』的表現の特徴を指摘している。

 そうなると、日本を代表する文化たる能、マンガ・アニメに『異時』の『同場面』、『同図』表現が組み込まれる伝統があることになる。

 言語的な主語を明確にせずに話す特長だけでは、「能夢幻能」は説明できないといえる。

 しかし、昨今の習俗的な日本語の『主語』を省略することが、発言者の“無責任”な発現様式につながっていることを危惧する。

 よく、“皆が”言っていると言いながら、「自分」の意見を“他の人”所為にしていっていることが多いことだ。

 責任回避型の無責任社会を生むファクターになっていると言えないか。

 また、「言語明瞭・意味不明瞭」な会話も可能となる。


 しかし、そこにこそ、我が国に、マンガ・アニメが生まれる土壌がある?

画像: 小山硬作品 http://www.geocities.jp/mune_sumi/culture-koworld.html
Image designer: 森 泉 http://www.japan-fineart.info 


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