道なき道

日々の学びが理解を深める。継続は力なり

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過程

我々は常に過程の中にいます。

あることが原因で何かが起こりますが、その起こったことが原因で次の何かが起こります。

これを繰り返しているのが人間です。

結果と言えるものはありません。

ただ起こったことがあり、それが次の何かを生み出し続けているわけです。

結果とはそれで終わり、その先がないということです。

だから人間の世界において結果など存在しないのです。

原因と結果の法則というのがありますが、原因を遡って行くと最初に原因のない原因にたどり着き、また結果を見ようとすると終わりがないため、結果と見えたものは瞬時に原因となり、過程となるわけです。

ならば起こったことに執着する必要はないのです。

生かされている

世界の調和を乱しているのは個人がいるという思いがあるからです。

私という存在が個人であるから、私が幸せになろうとすることは個人のみが幸せになることになり、別の個人の幸せには無関心になってしまいます。

この世界ではいろんな制限があります。

誰もが王様になれるわけではありません。

誰もが大金持ちになれるわけではありません。

誰もが一番になれるわけではありません。

誰もが全ての物を手に入れられるわけではありません。

だから自分が何か得ようとすることは他と争うことになるのです。

誰も人とは争いたくないはずです。

誰も人と仲良くしたいはずです。

でも個人として生きるなら、それは避けられません。

なんとも酷い世界だと思うでしょうが、個人がいるという錯覚さえなくなればそれで解決なのです。

人の一番古い癖が、私という個人がいるという思いです。

個人が個人だけで存在出来るなら、個人はいると言えます。

しかし、個人は個人以外のあらゆるものに依存しなければ個人として存在出来ないのです。

個人は全体によって個人として生かされているわけです。

生かされている存在、外側に影響を受け続ける存在が独立した個人と言えるでしょうか?

我々が行動、言動の前に抱く、いろんな思いでさえ与えられたものです。

思いを自由自在に操れる人がどこにいるでしょうか?

多くの人が何の疑問も持たず、それを私だとし、個人があると信じているのです。

少しでも疑問を持ち始めた人は内側に目が向き始めています。

外側を見ることは私という個人の視点で見るから「私という個人がいる」という前提をしっかりと握ったままなのです。

私という個人がいるという思い込みからの解放こそが、大安心に向かう唯一の道であります。

個人がいなければ個人のことで悩むことなどありません。

して、全体のより良くだけを考えて生きることは楽しみしかありません。

そういう生き方をしてみたいと思いませんか?

感情、思い

今日、山歩きをしながらゴミ拾いをしていたらある年配の男性に「なかなか出来ることではないね」と言われました。

私からすればゴミを拾うくらいは誰でも出来る事だと思っているから「?」と思ったのですが、一般的な考えからするとそうではないのだなと思いました。

自分の家や部屋にゴミがあれば掃除をするし、汚れていれば拭き掃除をします。

これを出来ないという人はほぼいないと思います。

しかし、場所が自分の家以外となれば「出来ない」となるのです。

なぜ出来ないのでしょうか?

それは「出来ない」と思い込んでいるからです。

「出来ない」を作り出している原因は人それぞれでしょう。

自分の家でないから、面倒だから、手が汚れるから、人の目があるから等々。

これは日常生活のあらゆることにも現れています。

出来ない、無理だ、上手くいかない等々、これらが現れるのには必ず原因があります。

その原因を知るだけで、それらは存在出来なくなり、そう思えなくなるのです。

自分の中にある良くない感情や思いがありませんか?

否定的な感情や思いは、原因を知るために現れた信号のようなものです。

人はそれらと向き合うことを嫌いますが、それらと向き合うことでしか解決出来ません。

良くない感情や思いを否定し、避けるのではなく、認め、受け入れてなぜそれが作られたのかを知らなければいけません。

否定し、避けることは同時に問題をより大きくすることでもあります。

逃げることを続けているとドンドン問題は大きくなり、やがて逃げられなくなります。

だからこそ早い改心が必要なのです。

努力と結果

人は起こる出来事を選ぶことが出来ません。

なぜなら起こることは起こるべくして起こるからです。

人の意志や思いなど関係ありません。

今、起こったことは過去という原因があって起こっています。

過去を変える方法などありません。

だから起こったことに対して不満を言おうが、喜ぼうが何も変わらないのです。

これらに対していちいち時間を割くのはあまりにも無駄なことだとわかると思います。

そして未来に起こることは今という原因において起こります。

人が努力することが出来るのは現在しかありません。

現在の努力は未来に影響を与えますが、未来を好きなように選ぶことは出来ません。

ですが努力により、より良くすることなら出来ます。

そういう意味において人は起こることを自由に選べないが、より良くすることなら出来るというのがわかると思います。

我々がこれが一番良いと思っていることでも数時間後、数年後になってみるとそうではなかったということを経験した人は多いと思います。

我々は今でしか物事を考えれれません。

だから我々は最善の選択など選べないし、そもそも正解など知らないのです。

ならば今という瞬間に最善を尽くすしかないし、それ以外何も出来ないと気づくはずです。

結果は考えようが、求めようがどうにもなりません。

ならば結果などにとらわれる必要などないと言うことです。

結果はどうにもなりませんが、因果の法則はあります。

だから努力は実るのです。

智慧を使う

私は人に優しくすることなど出来ない人間でした。

というより人をいかに攻撃するか、苦しめるかを考えるような人間でした。

そんな私でも現在は人に対して普通に親切に出来るし、人のために何かをするのに苦を感じることはほとんどありません。

自分でもなぜそうなったのか明確に説明することは出来ませんが、事実としてある以上は間違いではなく、また一時的、条件付きのものではないということはわかります。

ただ言えることは理解を深めて行ったから変わって行ったのだと思います。

心に関する理解、人間に関する理解、全体に関する理解、これらは自分というもの、世界というものを知るために避けて通れない道です。

逆に言えばこれらを理解することが出来るほど心は静かになっていき、憎んだり、悲しんだり、恐怖したりすることが減ってくると言うことです。

人は無知だから、知らないから苦しむのです。

知ってしまえば憎むことも、恐れることも出来なくなるのです。

仏教は智慧を使って心が揺さぶられる原因を減らしていき、心が静かになってきます。

時間はかかりますが、確実に良くなっていく方法でもあります。

仏教以外にもいろんな宗教や教えがありますが、日本人には仏教的な方法が一番向いているような気がします。

日本では大乗仏教の僧侶が何人も悟りに至ることが出来ている背景からも日本人の気質的にも合っているのでしょうね。

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