徒然草子

ずいぶん更新していない…更新の仕方忘れた(笑)

訪問記 大阪府

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海船政所跡

海船政所跡


(2008年10月)


堺の締めくくりで行きました。
これなんてマニアックの最たるものかもしれません…


確か説明文によると、三好長慶たちが海運業に使った屋敷跡だかなんとか…

イメージ 1

ちゃんと覚えてないですね(笑)
相方さまは、説明が間違ってると言ってたような気がしますが…。


場所はちょっとわかりにくいところにありました。
阪堺電車の線路からちょっと西に行った、南海電車との間くらいでしょうか。
住宅地の真ん中にぽつねん、とありました。
すぐ横にはお地蔵さんがあって、看板と石碑があるだけでした。

イメージ 2

往時をしのべるようなものは周りには何もない感じでした。


で、ここの関係者らしい三好長慶の説明を…

三好 長慶(みよし ながよし/ちょうけい)は、戦国時代の武将。
畿内・阿波の戦国大名。室町幕府の相伴衆、管領代。

家系
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。

三好元長の嫡男で、三好義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。
仮名は孫次郎、官位は従四位下筑前守、のち修理大夫。
史料では「三筑」の略称で彼の名が多く残っている。
諱の長慶は「ちょうけい」と有職読みされることも多い。

生涯
細川家臣時代
大永2年(1523年)2月13日、三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれる。
父・元長は細川晴元配下の有力な重臣で、阿波や山城に勢力を誇っていたが、
天文元年(1532年)に元長の勢力を恐れた晴元は一向宗の力を借りて、元長を殺害してしまった。
このとき長慶は、河内守護代であった木沢長政の仲介や、幼少であるという理由から許されて、
細川晴元に従うことになる。

長慶は父や祖父以上に智勇に優れた名将であった。
天文8年(1539年)には父の遺領を受けられなかったことに不満を持って、
2,500の兵を率いて上洛し、力によってそれを手に入れることに成功した。
このとき、時の将軍・足利義晴は長慶を恐れて近江に逃走し、
晴元は六角定頼に長慶との和睦を仲介してもらうほどであったという。
これにより長慶は摂津守護代、越水城主となった。
その後、長慶は細川氏の重臣として忠実に働き、木沢長政や遊佐長教らの敵勢力を
次々と打ち破っていき、応仁の乱収束後に事実上の天下人であった細川氏の
最有力重臣にまでのし上がった。

そして、天文17年(1548年)、細川晴元と敵対していた細川氏綱側に寝返って、
翌天文18年(1549年)に晴元と将軍・足利義輝を近江に追放し、
同族ながら敵対していた三好政長を討った(江口の戦い)。
これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。

三好政権の興亡
長慶の政権は、幕府を滅ぼすのではなく、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、
畿内を支配した。
普通、鎌倉時代の北条得宗家のような全国区の長期に渡る政権とは見なされないため
戦国大名として扱う。

天文21年(1552年)1月、六角氏の仲介で敵対していた晴元・義輝らと有利な条件
(長慶は幕府相判衆となり、晴元は氏綱に家督を譲って隠居)で和睦した。

ところが天文22年(1553年)から再び両者と争い、永禄元年(1558年)に京都霊山の戦いで
足利・細川軍を破ったことを機会に義輝と和睦し、自らは幕府の主導者として、
幕政の実権を掌握したのである。
ただし、逆説的にはこれは三好家が幕府権力の掣肘に伏する事に他ならず、
山城一国の統治権を将軍家に返還するに留まらず、幕府に替わって発行していた
長慶名の裁許状もこの年を境に途絶え、中央政権たる体裁を失うという
政治的な敗北は明らかであった。
これ以降は堺の経済力を握り、有能な弟たちに軍を預けて、河内や大和、丹波に転戦して、
畿内に一大政権を築き上げたと言ってもそれは幕府隷下の地方権力に留まる結果を齎したのである。

細川晴之に敗退
永禄4年(1561年)、細川晴之(細川晴元の次男)率いる畠山高政・六角義賢の同盟軍に破れ、
京都を明け渡す。
しかも三好政権は、長慶個人の能力によって支えられているところが大きかった。
永禄4年(1561年)の十河一存、永禄5年(1562年)の三好義賢、
永禄6年(1563年)の三好義興という相次ぐ一族の死により、
長慶が心身に異常を来してからは勢力は大きく衰え、
晩年は実権を家宰の松永久秀に操られるようになった。

最期
永禄7年(1564年)5月、松永久秀の讒言を受けて弟・安宅冬康を誅殺した直後、
元々前年から病がちだったため、自身も後を追うように
7月4日に河内飯盛山城下の屋敷において病死した
(病死ではなく謀殺説もあり、犯人は松永久秀や三好三人衆の中の誰かではないかと推測し、
俗説もしくは後世の作家の創作だとも考えられている)。享年42。
嫡男の義興が前年に早世したため、弟の一存の息子である三好義継が養子として後を継いだ
(一説に冬康を討ったショックから、6月に家督を義継に譲って隠居したともされる)。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)






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