書籍名 そして二人だけになった Until death do us part 著者名 森博嗣/著 出版社名 新潮社 発行年月 2002年12月 価格(税込) 740円 シリーズ名 新潮文庫 書籍紹介 全長4000メートルの海峡大橋を支える巨大なコンクリート塊。 その内部に造られた「バルブ」と呼ばれる閉鎖空間に科学者、医師、建築家など6名が集まった。 プログラムの異常により、海水に囲まれて完全な密室と化した「バルブ」内で、次々と起こる殺人。 残された盲目の天才科学者と彼のアシスタントの運命は…。 反転する世界、衝撃の結末。 知的企みに満ちた森ワールド、ここに顕現。 (Yahoo!ブックス より引用) 読み終わっても、はてな?って感じのする作品。
納得できないというか…、謎が謎を呼ぶといった感じ。 でも、何故か面白い作品。 |
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2008年03月15日
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書籍名 サロメの乳母の話 著者名 塩野七生/著 出版社名 新潮社 発行年月 2003年4月 価格(税込) 420円 シリーズ名 新潮文庫 書籍紹介 ホメロスが謳うオデュッセウスの漂流譚はでっちあげだ!と糾弾する妻ペネロペ。 不器用で世渡りが下手な夫を嘆くダンテの妻。 サロメの乳母、キリストの弟、聖フランチェスコの母、ブルータスの師、カリグラ帝の馬… 歴史上の有名人の身近にいた無名の人々が、通説とはまったく違った視点から語る 英雄・偉人たちの裏側。 「ローマ人の物語」の作者が想像力豊かに描く短編小説集。 (Yahoo!ブックス より引用) まさに新解釈の短編集。
しかも、機械的に描くのではなく、問わず語り風に描かれているところが面白い。 |
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院。 聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、 本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。 「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。 当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。 宗派はもと天台宗に属したが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、 「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、 1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。 歴史 『日本書紀』に見る創建の経緯 四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては 最古のものである。その草創については『日本書紀』に次のように記されている。 用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に 武力闘争が発生した。 蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、 敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から 矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。 聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、 この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、 「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。 その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、 戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。 その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で 四天王寺の建立に取りかかった。 寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。 (なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、 四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。) 以上が『書紀』の記載のあらましである。 聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が 創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、 その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。 四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する 「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、 8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である 「若草伽藍」の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。 異説 当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、 593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある (森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。 また、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、 四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。 四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。 大阪にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、 現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。 その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。 なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。 また、東高津神社は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の 大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの 皇居であったのではないかという説もある。 なお、20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする 言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。 また、上記の『書紀』の記述とは別に、四天王寺は渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)氏の 氏寺であったとする説もある。 四箇院 伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。 四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。 敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局・病院に近く、 悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。 施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。 施薬院は、後に聖徳太子が勝鬘経を講じられた地でもあり、 「勝鬘院(愛染堂)」とも呼ばれるようになった。 四天王寺の勝鬘院(愛染堂)が故地と伝えられている。 平安時代以降 法隆寺が飛鳥・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、 四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。 早くも平安時代の承和2年(836年)には落雷で、 天徳4年(960年)には火災で主要伽藍が失われている。 聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。 太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。 また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、 浄土信仰の寺としての性格も加えていった。 太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、 四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。 現在も寺に伝わり国宝に指定されている「四天王寺縁起」は、 こうした信仰を広めるのに大いに力があった。 「四天王寺縁起」は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、 金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、 「発見」時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。 既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。 院政期の上皇や法皇は四天王寺にしばしば参詣した。 後醍醐天皇は上述の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している (これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている)。 平安〜鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、 浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。 四天王寺は近世以降もたびたび災害に見舞われた。 天正4年(1576年)には石山本願寺攻めの兵火で焼失。豊臣秀吉によって再建されるが、 やがて慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失。この時は江戸幕府の援助で再建される。 しかし、幕末の享和元年(1801年)の落雷でまたも焼失。文化9年(1812年)に再建される。 この時の伽藍が近代まで残っていたが、1934年の室戸台風で五重塔と中門が倒壊、 金堂も大被害を受けた。五重塔は1939年に再建されるが、数年後の1945年、 大阪大空襲で他の伽藍とともに焼失。 現存の中心伽藍は第二次世界大戦後の1957年から再建にかかり1963年に完成したもので、 鉄筋コンクリート造である。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用) (2007年10月) 四天王寺さんって、とても近いせいかまともに行ったことがなかったんで、 今回チャレンジしてみました。 天王寺駅から歩いていったんですが、商店街が結構しっかりしてて、 お店を見て歩くだけでも楽しめるんですね。 さすがは門前町といった感じでしょうか。 参道を歩いていくとちょうど西門方面に出ました。 ここの極楽門は結構大きくて立派です。 門に転法輪だったかな?滑車みたいなのがついていて、 それを回すとお経を唱えたことになる…みたいでした。 みんなすごい力一杯回してるみたいで、触ったら怪我しそうでしたけど。 中央伽藍は講堂・金堂・塔でした。 塔は…綺麗でしたね。さすがって感じでしょうか。 基本的に建物内部は写真がダメだったのが残念でしたね… 講堂の中は釈迦の一生が壁画になってました。 思ったよりも鮮やかな色が残ってる感じでした。 いつ描かれたのかわかりませんけど。 金堂の中は…どうだったかな。 塔の中は石仏みたいな壁でした。 塔は上まで登れるようになってるんですが…すごかったです。 螺旋階段をひたすら登って、ひたすら降りるって感じで(笑) 降りてきたら膝が笑ってしまうくらいでした。 ちょっと情けなかったけど。 あとは伽藍の周りの回廊がいい感じでした。 燈籠が吊してある感じも素敵でした。 あと、本坊の庭園が見れるってことで見たんですが、 ちょっと微妙でした。 確かに庭園なんですが… 京都や奈良のお寺に慣れているせいか、イマイチな感じでした。 もう少し整備してほしい、って感じですかね… うまく言えないけれど、あまり綺麗といった感動がなかったです。 |
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後輩の出産祝いに送りました。 白いもこもこフードです。 生まれた赤ちゃんが男の子なんですが、ちょっとかわいくなりすぎたかも…
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