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長谷寺での牡丹の写真です。 牡丹って、なんとなく赤や白のイメージが強かったんですが、 これはすごく黄色が綺麗でした。 牡丹の時期としてはかなり最後の方だったんですけど、 ちょうど本堂の影になるせいか、すごく綺麗に咲いてました。
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2008年05月10日
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書籍名 天皇家はなぜ続いたのか 著者名 梅沢恵美子/[著] 出版社名 ベストセラーズ 発行年月 2005年3月 価格(税込) 620円 シリーズ名 ワニ文庫 書籍紹介 邪馬台国はなぜ歴史の闇に葬られたのか。 その悲劇は、天皇家の成立と無縁ではなかった。 天皇家はいつ、誰によって、なんのためにつくられたのか。 答えは『日本書紀』だけが知っていた。 正史が封印した歴史を掘り起こし、天皇家の不可侵性の起源と王権成立の謎に迫る意欲作。 ついに明かされる!天皇家の誕生の秘密。 目次 序章 不思議な王権 (不思議な王権 「天皇システム」はいつ生まれたのか ほか) 第1章 ヤマト建国の裏側 (考古学が明かす日本の歴史のはじまり 「ヤマト建国」のいきさつを熟知していた『日本書紀』 ほか) 第2章 祟る邪馬台国の女王 (問い直される「二つのヤマト」 江戸時代にすでにあった「邪馬台国偽僭説」 ほか) 第3章 神=鬼の名を冠した天皇 (「神=鬼」の名を冠せられた天皇 神武東征の功労者・ウマシマチが石見に逼塞したワケ ほか) 終章 天皇家のカラクリ (永続する天皇家の根源にある祟る女神 鏡に映したかのような奇妙な話 ほか) (Yahoo!ブックス より引用) 「日本書紀」と「古事記」についての解釈。
まわりくどい説明が少し気になったけれど、解釈の内容は面白い。 ヒミコとトヨの話なんかは、かなり興味深かった。 |
書籍名 闇の呪縛を打ち砕け 著者名 結城光流/[著] 出版社名 角川書店 発行年月 2002年5月 価格(税込) 480円 シリーズ名 角川ビーンズ文庫 少年陰陽師 書籍紹介 時は平安。異邦の大妖怪・窮奇を退治するため、 毎夜都を見まわる昌浩(あの安倍晴明の孫!)と物の怪(愛称もっくん)は 貴船神社で鬼女が丑の刻参りをしているという噂を耳にする。 一方、道長の娘・彰子の身にも、妖に取りつかれた遠縁の姫君の魔の手がのびる。 それらは全て、窮奇への贄として彰子を手に入れんとする妖異たちの企みだったのだ。 昌浩は彰子を救うため、都の闇を叩き斬る!新米陰陽師奮闘記、第二弾参上。 (Yahoo!ブックス より引用) かわいそうな遠縁の姫君を使った巧妙な罠。
そして、彰子をも巻き込んだ罠に落ちた昌浩が、瀕死になったときのもっくん、紅蓮の悲壮さ… もっくんの昌浩への愛情がかいま見えるお話です。 貴船の祭神も出てくるし、すごいですよ、昌浩の才能は。 |
智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。 山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。 本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥(げんゆう)である。 智山派大本山として、「川崎大師」の通称で知られる神奈川県川崎市の 川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)、 成田山として知られる千葉県成田市の成田山新勝寺及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。 起源と歴史 智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、 3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。 智積院は、もともと紀州(現在の和歌山県岩出市)根来山(ねごろさん)大伝法院の 塔頭(たっちゅう、山内寺院)であった。 大伝法院は真言宗の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、 教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、 大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。 智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、 根来山内の学問所であった。 近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、 天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。 当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。 当時、智積院の住職であった玄宥(尭性/ぎょうしょう、1529-1605)は、 根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。 玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、 念願がかなわないまま十数年が過ぎた。 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、 家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の 付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。 さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、 隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、 復興後の智積院の寺号を「根来寺」、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」とした。 祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、 天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。 現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、 この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。 この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、 現存している。 現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、 火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。 近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち 16面が焼失してしまった。 この時焼けた講堂は1995年に再建された。 講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、 祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことが あらためて裏付けられた。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用) (2007年12月) 三十三間堂から七条通をより東山方面に行くとつきあたりにあります。 ここは障壁画が国宝になっているのと、庭園が有名だそうです。 境内はすごく大きかったですね。 七条通のところの門は入れるようにはなってないみたいでした。 ちょっと南に行くと入り口としての門がありました。 まずは宝物殿で障壁画を見せてもらいました。 どうやら実物らしく、かなりの劣化でした。 でも、劣化していてもすごく綺麗でした。 当然ここも撮影禁止なので写真には撮れませんでしたが。 特に桜の絵の咲き誇る桜の華やかさと淡さはすごく綺麗でした。 庭園は思ったよりも小さく見えました。 とはいえ、本坊をゆっくりと見学させてくれるのがありがたかったですが。 いろいろな襖絵とかも見れましたし。 ここの庭園は座って見る庭園とのことで、お座敷でゆっくり堪能させてくれます。 あと、国宝の障壁画の再現らしきものもあって、それが華やかでした。 特に上段は力強く華やかな障壁画があって、すごかったし、 それだけじゃなくて、上段の畳に座れるようになってるのが面白かったですね。 ちょっと殿様気分を味わえるようになってました。 |
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