徒然草子

ずいぶん更新していない…更新の仕方忘れた(笑)

訪問記 京都府

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京都府の観光名所(主に神社仏閣・城跡・遺跡など)の訪問の記録です。
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青蓮院

青蓮院
 
(2009年9月)
 
青不動の公開目当てで行ってきました。
祇園付近までは良く行ってたわりに、青蓮院は初でした〜
 
さすがに青不動の公開で、すごい人出でした。
イメージ 1
とはいえ、通常営業を知らないので、いつもこんなもんなのかも知れませんが…
 
青不動の前は…もちろん撮影禁止なので。
でもすごい人だったです。
お説法もしてらっしゃったようですが、とりあえず聞こえない(笑)
ところてん状態で前にいってちら見するのが関の山でした。
 
境内は門跡寺院らしく落ち着いた雰囲気でした。
特に庭園は緑が映える、いい感じの庭園でした。
イメージ 2

随心院

随心院

随心院(ずいしんいん・ずいしんにん)は京都市山科区小野にある
真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。
小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。
当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、
随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。

歴史
随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺
(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。
仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。
神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、
「雨僧正」の通称があった。
曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。
伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知り
その牛を飼育したが程なく死んだ。
それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、
「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。
なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく
父とされている。

第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。
続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。
東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151 - 1236)の時、
寛喜元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院
(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。
その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。

その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが
応仁の乱によりほとんど焼失した。
『随心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。
その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、
曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。

江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、
大僧正に至ったが、九条稙基が夭折したことを受けて寛保3年(1743年)還俗し、
九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。

真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。
御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も随心院は「真言宗」にとどまっていたが、
明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、
東寺派、泉涌寺派として独立。随心院は小野派本山となった。
その後昭和6年(1931年)には真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称。
昭和16年(1941年)には善通寺が総本山に昇格した。
現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、
随心院は同派大本山と位置づけられている。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2009年3月)


H嬢とN嬢と行きました。
ちょうど「はねず踊り」で有名な紅梅が満開の時期だったので。


門はかなり立派でしたね。

イメージ 8

ちょうどはねず踊りの看板も出てました。
確か、踊りの前日に行ったんだったと思います。


ここは小野小町にもゆかりがあるんで、歌碑がありました。

イメージ 3

しかもかなり新しくつくられた感じでした。
小野小町の後姿なんかも描いてあって、雰囲気が良かったですよ。


本堂自体はそんなに大きくなかったと思います。
どっちかっていうと、大きくないから落ち着いた雰囲気って感じで。
庭園も小さくて、かわいいくらいの感じでした。

イメージ 5

正門がかなり立派なので、それとは対照的って感じです。

イメージ 4


あと、梅園がかなり広大です。

イメージ 6

下手をするとお堂よりも広いんじゃないかって思うくらい。
そして、ほとんどが紅梅なので、紅い霞がでてるみたいでした。

イメージ 1

ただ、あんなにたくさんの紅梅に囲まれていながら、梅の香りがわからなくて…
H嬢やN嬢は梅のいい香りがしていると言ってたんですが。
私はどれがその梅の香りなのか、イマイチわからないままで…


梅には鳥がきてました。

イメージ 2

メジロかなぁ…とは思うんですが、鳥の種類に詳しくないのでよくわかりません。
鶯色っていうんでしょうか。独特の緑色はしてましたけど…うぐいすかどうかもわからないし。


あと、境内には小野小町に縁の化粧井戸と文塚がありました。

イメージ 7

これは結構境内のはずれというか、変なところにあるので、
ちょっと行きにくかったです。
小野小町ゆかりなことをアピールするなら、もうちょっとわかりやすくしてくれたらいいんですが…





勧修寺

勧修寺

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。
山号を亀甲山と称する。
開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。
皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。
寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、
寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。
一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は
「かんしゅうじ」である。

また1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて
勧修寺内の一部を勧修小学校として使用されていた。

歴史
 創建
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、
醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、
胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、
胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。
胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。
開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。
代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)兵火で焼失して衰退し、
江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。

宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。
弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。
彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。
高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。
なお、高藤と列子のロマンスについて『今昔物語集』に説話が残されている。

創建年代については上述のとおり昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。
勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、
この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、
これにしたがえば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。

前述のとおり、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、
皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。
天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、
東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。
「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、
真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。

 中世以降
南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王(1309 - 1376)が15世長吏となって以来、
勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。
中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、
真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。
建武3年(1336年)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、
三河、備前など18か荘に及んでいた。

その後、応仁の乱と文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。
豊臣秀吉が伏見街道を造るに際し境内地を削られるなどして次第に衰退する。
寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が
29世長吏として入寺してからであった。
法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。
現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。
済深法親王に次いで30世となった尊孝法親王は伏見宮出身であった。
法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が
紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。
西国札所として著名な紀三井寺護国院は、現在は真言宗から独立しているが、
元は勧修寺の末寺であった。
幕末の32世済範入道親王も伏見宮の出身であったが、後に還俗して山階宮晃親王となった。

 近代
真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。
御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は「真言宗」にとどまっていたが、
明治40年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、
東寺派、泉涌寺派として独立。勧修寺は山階派本山となった。
その後、第二次大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、
真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の昭和27年(1952年)に再度山階派として独立している。

 藤原高藤と宮道列子に関する説話
『今昔物語集』には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。
藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。
ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、
雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。
勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。
翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、
高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。
その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。
それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。
6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。
この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2009年3月)


N嬢とH嬢と、行ってきました。
地下鉄小野駅からのんびりと歩いていくといい感じの距離でした。


とりあえず、看板が見えたんですが、入り口がよくわからなくて…
うろうろしていたら、宮道神社という小さな神社がありました。

イメージ 3

勧修寺に関係の深い宮道氏の神社なんだろうな…ってことはわかりましたけど。


入り口に向かう途中にサクラが咲いてました。


とはいえ、まだちょっと早かったらしく、そんなに満開ってわけじゃなかったですし、
なによりサクラの木が多くなかったんですが。

イメージ 4

門はかなり立派な雰囲気でした。

イメージ 7

入ったらすぐ宸殿がありました。立派な建物でしたけど、内部を見せてくれなくて残念。

イメージ 1


進んでいくと「勧修寺燈籠」の看板が見えましたが、肝心の燈籠がみつからなくて…

イメージ 6

うろうろするとありました。

イメージ 5

ちょうど看板の裏っかわって感じの位置に、植木に埋もれるようにありました。
これはなかなか気付かなかったわ〜って感じでしたよ。
形はかなり珍しい形をしているそうです。ちょっとかわいい形でした。


あと、燈籠の周りに槙の一種が植わってるらしく、すごいなんともいえない匂いがしてました。
青臭いというかなんというか…
私はちょっと苦手な匂いでしたねぇ。
まぁ、人によったらいい匂いなのかもしれませんが。。。


あと、池のそばに観音堂っていうお堂が建ってました。

イメージ 2

ただ、これもあまりちゃんと見せてはくれなくて残念でした。
池は綺麗でしたけど、まだ植物が咲く季節には早かったのであまり…
あたたかかったので人がたくさん池のまわりでくつろいでおられましたが。





等持院

等持院

等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。
山号は万年山。足利尊氏の墓所としても知られる。

歴史
足利尊氏は、1341年(暦応4年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、
その2年後の1343年、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立した。
尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。
その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2008年11月)


大徳寺と今宮神社を見た後、相方さまが行こうと言うので行ってきました。
実は、私は等持院ってあまり知らなかったんですよね…
どうやら足利将軍家に縁のお寺らしいです。


まず、どうやったらたどり着けるのかわからなくて大変でした。
ちょうど立命館大学のお隣という場所だったんですが、
入り口の門がどこにあるのかがわかなくてうろうろしてしまいました…

イメージ 5


境内はかなり広かったです。
紅葉もほのかに色づいてる感じだったんですが、そのわりにはすいてましたね。

イメージ 2

これだけ大きなお寺なのに…って気もしました。
まぁ、時間が中途半端だっただけかもしれませんが。


方丈の奥には広大な庭園が広がってました。

イメージ 4

そこをそぞろ歩きできるようになってました。
入り口に靴を脱いできてるので、備え付けのスリッパで、でしたけど。


ホントに庭園は広大でした。

イメージ 1

ちょっとした築山の上には茶室が2つ並んでるみたいでした。
そして池のまわりをそぞろ歩きました。
途中で紅葉がかなり真っ赤になっててすごく綺麗でした。


池には鯉が結構な数いました。

イメージ 3

しかも、みんな口をパクパク…
ちょうどおせんべいをもってたので、ためしにやってみると、なかなかいい食いっぷりで(笑)
相方さまが特に楽しそうにやってましたねぇ。
確かにパクパクしてて楽しかったですけど(笑)


方丈の奥には庭園だけでなく、歴代足利将軍の木像の置かれた玉屋がありました。
そこはもちろん撮影禁止だったんですが…
あと、15代のはずが、人形は14だったかな…
でも、足りない人間は2人…あれ?
そうです、私たちが認識してる足利将軍が1人多かったと思います。
でも、誰が足らないのか全然わからなかったですし、誰が多かったのかもわからなかったですね…
相方さまが歴史手帳で調べてくれたんですが…もう忘れちゃいましたし(笑)


最後は正門の方に向かって帰りました。

イメージ 6

正門のすぐ近くの紅葉が一番赤々としていて、まるで燃えるようでした。
おもいっきり記念撮影しちゃいました(笑)




今宮神社

今宮神社

今宮神社(いまみやじんじゃ)は、京都市北区紫野にある神社である。
社格は旧府社。別名「玉の輿(たまのこし)神社」とも言われる。

歴史
現在の今宮神社は、994年(正暦5年)船岡山で御霊会が行われた後、
1001年(長保3年)5月に現在の場所に神殿が造営されて3柱の神が祀られたのが始まるとされるが、
現在の場所には創建年代については不明であるが、
古くから疫病の神とされるスサノオを祀る社(現在摂社疫神社)があったという。
御霊会は今宮祭とも呼ばれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけて禁止された時期もあった。
1284年(弘安7年)には正一位の神階が与えられ、江戸時代には社領として50石が与えられた。

京都西陣の八百屋に生まれた「お玉」が徳川3代将軍家光の側室となり、
5代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となったことから
「玉の輿」と言うことわざが出来たとの説がある。
桂昌院は京都の寺社の復興に力を注いだが、
氏神である今宮神社の復興にも力を入れ社殿を修復して四基の鉾を寄進したと言われている。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2008年11月)


大徳寺のすぐ横(?)にあったので、足を伸ばしてみました。
ちょうど大徳寺から西側に出ると、大きな石碑があって、

イメージ 1

その通りの北に朱色の大きな楼門が見えました。

イメージ 4


境内は結構広かったですね。
舞殿なんかもしっかりとしたものでした。

イメージ 2


拝殿から奥は木が茂っていて、奥の本殿は見えなかったですね。

イメージ 3

かなり広くなってるんじゃないかとは思いますが…
ただ、もうちょっと境内に紅葉があれば良かったな〜といったところでした。


石碑から楼門までの間はイチョウが黄色く色づいていて、それは綺麗だったんですけどね…




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