徒然草子

ずいぶん更新していない…更新の仕方忘れた(笑)

訪問記 東海

[ リスト | 詳細 ]

東海地方の観光名所(主に神社仏閣・城跡・遺跡など)の訪問の記録です。
記事検索
検索

全1ページ

[1]

犬山城

犬山城

犬山城(いぬやまじょう)は、愛知県犬山市にある城。 
今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代前後に建造された天守(国宝)を有する
城郭の一つである(現存天守)。

別名を白帝城という。
この名は、犬山城が木曽川沿いにあり、三国志の劉備が臨終を迎えたことで有名な
白帝城も長江沿いにあることから、それにちなみ荻生徂徠が命名したと伝えられる。

 歴史
戦国時代・安土桃山時代
1469年(文明元年) 織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。 
1537年(天文6年) 織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭を造営して移った。
現存する天守の2階まではこのころ作られたと考えられている。 
1544年(天文13年) 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となる 
1564年(永禄7年) 織田信長との対立の末に信長によって攻め取られる。 
以後、池田恒興や織田勝長などが城主を務めた。 
本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。 
1584年(天正12年) 突如として、かつての犬山城主でもあった池田恒興によって
奇襲を受けて奪われた。これはまもなく小牧・長久手の戦いの引き金の1つとなる。
戦後は再び信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。 
豊臣時代には石川貞清が城主となった。
かつては、この時に美濃国金山城の天守を移築したという伝承があったが、
1961年(昭和36年)の解体修理の際の調査の結果、移築の痕跡がまったく発見されなかったため、
移築説は現在は否定されている。 

江戸時代
石川貞清は関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、まもなく没落した。 
1601年(慶長6年) 小笠原吉次が城主となる。 
1607年(慶長12年) 平岩親吉が城主となる。 
1617年(元和3年) 親吉が没した後の6年間の城主の空白期間を経て、
尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり、天守に唐破風出窓が増築される。
以後徳川時代を通じて成瀬家9代の居城となった。 

近現代
明治の廃藩置県で廃城となったが、1891年(明治24年)の濃尾地震で天守の一部や櫓・城門などが
こわれたため、1895年(明治28年)に城の修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥に無償で譲渡された。
2004年(平成16年)3月時点で日本で唯一の個人所有の城であったが、
同年4月に財団法人犬山城白帝文庫に移管されている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(43番)に選定され、
2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2008年9月)


東海地方2日目は、犬山城に行って来ました。
犬山城は国宝になってるお城なので、以前から気になってたので。


名古屋から名鉄で犬山遊園に行って、そこから徒歩で行きました。
ただ、名古屋でやっぱり大きな荷物を置こうと思ったんですが、
なかなかロッカーが見つからなくて…
そんなに出発が遅くなかったはずが、名古屋駅付近でもたもたする羽目になっちゃいました。
で、やっぱり名鉄はお高い…(泣)


犬山遊園の駅は付近に何もなかったです。
駅からすぐ木曽川があって、日本ラインくだりっていうのがあるらしく、
下船場からシャトルバスが出てるということなので、見に行きました。
ただ、1時間に1本しかバスがなく、ちょうど30分後ということなので、
とりあえず、犬山城に先に行くことにしました。


犬山遊園からはちょっと離れてたのと、坂をのぼらないといけなくてそれが大変でした。
駅から犬山城までの間には有楽苑という茶室があるみたいでしたが、
なんとなく見る気になれなくて、そこはスルー(笑)


犬山城のすぐ下には神社が2つもありました。

イメージ 5

1つは稲荷神社らしかったです。もう1つは、犬山祭りの神社みたいですね。
名前は忘れてしまいましたけど(笑)


神社の境内を抜けると、すぐ犬山城への道につきあたりました。
そこには、門の跡があって、1つめが矢来門、2つ目が黒門らしいです。

イメージ 7

イメージ 6

その奥には入り口になってる門がありました。

イメージ 3


入り口をはいるとちょっとした広場で、すぐ天守閣がありました。

イメージ 1

国宝の天守閣ですが、かなり小さい感じでした。
まぁ、名古屋城や大阪城と比べるからそう感じるだけなんでしょうが。
彦根城と比べると同じくらいかもしれません。


天守閣の中は特に小さくは感じませんでした。
特に大きいわけでもなかったですけどね。
ただ、昔のそのままなので、階段がかなりきつかったです。
段差がかなりあって、勾配もきつくて…上るのが大変でした。


天守からの眺めはかなりよかったです。

イメージ 2

イメージ 4

すぐ下に木曽川が流れていて、雄大な景色でした。
360°ぐるっと見れるようになっているのが素敵でしたね。
ほかのお城だと、まず天守閣の周りに出れなかったりするので、この点はかなりよかったです。


ただ、天守閣から降りるのはすごく大変でした。
急勾配の階段は、人が何度も通っているからか、かなり滑りやすくなってましたし。
かなりしっかりと手すりにつかまってないと、ホントに滑り落ちそうでした。


犬山城からの帰り道はやっぱり神社の中を通りました。
のぼりは稲荷神社のほうを通ったので、帰りはもう1つの神社にしたんですが、
階段の段差を見誤って、足をくじいてしました…(泣)
かなり痛かったです。
そのせいで、行きに後にしようって言ってた日本ラインくだりをあきらめる羽目になってしまいました。
あ〜ぁって感じでした。


なので、帰りは犬山遊園側ではなく、犬山駅のほうまで歩くことにしました。
犬山遊園側には何もなかったので、犬山側には何かあるかと思ったんですが、
こっちも何もない感じでした。
別にみやげ物屋があるという感じでもなかったですし…
どっちかていうと、シャッター通りが…。
ちょっと寂しかったですね。





名古屋城

名古屋城

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋
(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。
金鯱城、金城ともいい日本100名城にも指定されている。

概要
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、
徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。

大坂城、熊本城とともに日本三名城に並び称され、伊勢音頭にも
「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。
大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。

大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期までは現存していたが
名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、
現在城跡は名城公園として整備されている。

 歴史・沿革
戦国時代
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。
この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。
1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。

信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。
のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、
1555年(弘治元年)、信長が清須城に本拠を移したため、廃城とされた。

江戸時代
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、
水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、
九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。
1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。

普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。
縄張は牧野助右衛門[1]。石垣は諸大名の分担によって築かれ、
中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。
天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、
岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。

清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から
徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。
この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、
清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。

1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。

近代
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。
しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の
中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。
このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。

1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。
1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、
終戦まで続いた。

保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、
本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。
1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。
その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、
宮内省から名古屋市に下賜された。

名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開し、
また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。
太平洋戦争時には金鯱を空襲から守るために地上へ下ろすなどしていたが、
1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、
正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。

現代
戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。
園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。
また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは
三の丸を含めて比較的よく残されている。

天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、
復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。

天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、
バブル崩壊等の資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。

市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、
2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。

2007年(平成19年)本丸御殿復元の許可が文化庁よりあった。

現在、2008年(平成20年)に再建工事を着工し、2010年(平成22年)における
第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。
またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。 

2022年(平成34年)完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定され、
2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2008年9月)


やっぱり名古屋といえば、名古屋城の鯱でしょう、ってことで向かいました。

イメージ 2

ただ、徳川美術館でゆっくりしすぎたせいか、名古屋城に着いたのが遅くて、
もう天守閣もしまる時間になってしまってました…


大阪城なんかと違って、公園自体も有料なのにはびっくりしました。

イメージ 4

天守閣・庭園・本丸御殿なんかを全部有料にしていて、しかもしまる時間が早い。
大阪城に慣れていたので、そんなことを予想もしてなかったので、
今回は遅い時間だったせいもあって、入場を断念しました。


っていうのも天守閣がしまっても、公園から見学すればいいか、くらいに考えていたので、
まさか公園にすら入れなくなるなんて、本当に予想もしてなかったですからね…
ガイドブックにも一応有料って書いてあったんですが…先入観ですね。


でも、せっかく名古屋城まで来ておいて、まったく見ずにすごすごと帰るのは悔しかったので、
堀の周りを移動して、遠くからでも天守閣が見えるポイントを探すことにしました。

イメージ 3

これがまた大変でした…
なにしろ、名古屋城って大きいですからね。
堀の周りを歩くだけでかなり歩くことになってしまって…
最初は、ちょっと横から見たら見れるだろうとおもって始めたんですけど、
横に行ったくらいじゃ全然見えなくて、どんどん進むことになってしまって。


でも、その甲斐あって、裏側から見たらすごく綺麗に見えましたよ。

イメージ 1

イメージ 5

天守閣がしっかりと見えて。
正面からだと全然見えなかったんですけどね。


ただ、門の中に展示してあると思われる、鯱のレプリカを見れなかったのが残念ですね。
今度はちゃんと時間に間に合うように行かないといけないですね…
でも、有料を払う気になるかどうかが微妙ですけど(笑)





徳川美術館・蓬左文庫

徳川美術館・蓬左文庫

徳川美術館 (とくがわびじゅつかん) は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園内にある、
財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館である。

概要
徳川美術館は、徳川御三家の一つで徳川家康の九男・徳川義直(1600−1650)を祖とする
尾張徳川家伝来の道具類を展示公開している。
ことに国宝『源氏物語絵巻』を収蔵することで著名である。

尾張家の第19代当主・徳川義親(とくがわよしちか、1886−1976)は1931年、
財団法人尾張徳川黎明会を設立した(その後「財団法人徳川黎明会」と改称)。
徳川美術館は、同財団により1935年、尾張徳川家名古屋別邸跡の現在地に開館した。
大倉集古館、藤井斉成会有鄰館、大原美術館などと並び、日本の私立美術館の草分けである。

なお、財団法人徳川黎明会の本部は東京都豊島区目白に所在し、
同地には尾張家の藩政史料を集めた徳川林政史研究所がある。
また、尾張家伝来の古文書(こもんじょ)類は名古屋市に移管され、
現在、徳川美術館に隣接する名古屋市蓬左文庫(ほうさぶんこ)に収蔵されている。

日本の私立美術館は、実業家や大企業のコレクションを母体にしたものが多いのに対し、
徳川美術館は旧藩主家伝来の道具類がまとまって遺されている点が特色である。

創設者である徳川義親は、徳川黎明会の設立に際して周囲から強い反対を受けながらも
これを実行したが、日本各地の旧藩主・大名家の伝来品は、第二次世界大戦中の戦災や
戦後の混乱、そして1946年の財産税課税の影響などにより、大部分が散逸・焼失してしまった。
その中で早い時期から財団法人に移管されていた尾張徳川家の収蔵品は散逸を免れ、
結果的に義親の先見性を証明することになった。

現在残されている徳川美術館の収蔵品は、近世大名の所有していた「御道具類」とは
いかなるものであったかを知るうえで、きわめて貴重な歴史資料となっている。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2008年9月)


イメージ 1


尾張徳川家の美術品とかを展示している博物館ですね。
相方さまおすすめの場所なので、行って来ました。


徳川美術館と蓬左文庫のすぐ横には徳川園という庭園がありました。
ただ、そっちには寄らなかったです。
庭園よりも美術館とかの方が面白そうでしたし。


まずは蓬左文庫のほうに行ってみました。
建物は自由に入れました。
中にはちょっとした映像展示があって、その2階部分が昔ながらの「文庫」になってるみたいでした。
上を見上げると、「文庫」に古文書が置いてあるのが見えました。
これはいい感じでしたね。
奥には図書室があるみたいでした。


ただ、文書の展示は有料らしく、徳川美術館と共通入場らしいので、
徳川美術館側に回ることにしました。


徳川美術館は、美術品がメインの展示でした。
特別展が仏教美術だったので、あまりよくわかなかったですが…
というより、どこまでが常設展で、どこからが特別展なのかがわかりにくかったですね。
それに、徳川美術館の展示と蓬左文庫の展示の境目もわかりにかったです。
ただ、どうやら蓬左文庫の展示部分らしきところがかなり面白かったです。
学芸員さんの工夫というか苦労というか…それらが透けて見えて(笑)


あと、美術館のミュージアムショップと徳川園の売店がかなり面白かったです。
ここでしか買えない限定品とかも多くて。


あとは美術館の前が広場になっていて、憩いの場として機能してるのが素敵でした。
なかなか行く機会はないでしょうけど、また行きたいところですね。





熱田神宮

熱田神宮

熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区にある神社である。

概要
祭神は熱田大神であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を
神体としている。
剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも神宮に保管されたままとも言われている。

相殿に天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀る。

創建は不詳だが、景行天皇朝には、すでに土着の信仰神として存在していたらしい。

官幣大社、式内社(名神大)で、建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、
1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式であった
(氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。
社務所に当たる組織は熱田神宮宮庁と呼ぶ。
その他施設に、宝物館、熱田神宮会館、能楽殿。熱田神宮の敷地内には愛知県神社庁がある。

東海道名所図会に、熱田大神宮と記載される。

海道記に、熱田の宮の御前を過ぐれば、とある。

東関紀行に、尾張の國熱田の宮に到りぬ、とある。また、

或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。
八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と
云へる大和言葉も、これより始まりけり。
その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。
又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、
夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、
劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。と記載されている。

歴史
第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰路に
尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘
宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚した。
草薙剣を妃の手許へ留め置いた。
日本武尊が能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、
剣を奉斉鎮守したのが始まりと言われる。
そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に常に置かれるようになり、
伊勢神宮に次ぐ権威のある神社として栄えることとなった。

大宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、
平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家の藤原季範にその職が譲られた。
以降は子孫の藤原氏・千秋氏が大宮司、尾張氏は権宮司を務める。
なお、この季範の娘は源頼朝の母である。

明治4年(1871年)5月14日、熱田神宮は官幣大社に列格した。
「三種の神器の一つを祀る熱田神宮は、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張が
熱田神宮の中にはあり、同年7月には大宮司・千秋季福が伊勢神宮に準じた待遇にするよう
国に請願し、却下されている。
次に大宮司となった角田忠行も同様の請願を続け、
明治22年(1889年)までに伊勢神宮に準じた神璽勅封・権宮司設置などが認められた。

それまで熱田神宮は尾張造という尾張地方特有の建築様式で建てられていたが、
明治22年、伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営が計画された。
また、熱田神宮の国への働きかけにより、明治23年(1890年)9月、
社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案が閣議に提出された
(案の段階では熱田神宮を「尾張神宮」に改称する事項も含まれていたが、これは外された)。
しかし、この勅令案は否決され、熱田神宮の社格の件は従前の通りとすることとなった。
その背景には伊勢神宮の反対があったという。
神明造による社殿の造営は進められ、明治26年(1893年)に竣工したが、
この社殿は太平洋戦争の空襲により焼失した。

昭和20年(1945年)の終戦直前、神体である草薙剣を守るために飛騨一宮水無神社への
一時的な遷座が計画されたが、8月15日の終戦により一時中止された。
しかし、今度は上陸したアメリカ軍に神体が奪われる虞があるとして、
8月21日、陸軍の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。
同年9月19日に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、
神職が鉄道で移動した。
社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、昭和30年(1955年)10月に再建された。
新しい建物のため、文化財に指定されていない。

                      (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


(2008年9月)


相方さまが東海方面に合宿に行くのに便乗して行って参りました。
東海地方ってちゃんと行ったことなくて…


熱田神宮は確か草薙の剣を奉納してるんでしたっけ??
古代史でよく名前を見るところだったので行ったみたかったので。
確か、織田信長が桶狭間か何かの時に戦勝祈願したんでしたかね…
その辺はあまりちゃんと覚えてないんですが。


名古屋まで近鉄特急で行きました。
名古屋で大きな荷物を置いて、名鉄で神宮前まで。
名鉄って思ったよりも高いんですね…びっくりです。


神宮前からはホントすぐでした。
駅の目の前が熱田神宮でした。
ただ、駅の方に正面がないので、ぐるっとまわって入りましたけど。


境内はかなり広かったですね。

イメージ 1

神社にありがちな砂利道で、すごく歩きにくかったですし。
ご神木は本殿に近くないところにありました。

イメージ 3

なんか意外でした。


ちょうど大安吉日だったらしく、お宮参りや七五三参りの人でいっぱいでしたね。
それに結婚式が何組かあるみたいでした。
さすがに東海地方で一番大きい神社だな…って感じがしました。
(もしかしたら、一番大きい神社じゃないかもしれませんが)


でも、本殿は思ったよりも大きくは感じませんでした。

イメージ 2

境内が広すぎるからですかね?
逆に神社の殿舎って、大きく作らないのかもしれないですね…
神社の場合は、殿舎よりも、自然を感じるところが大きいかもしれません。
これはあくまでも古くからある神社だけでしょうけど。


ただ、予想よりもあっさり見終わってしまったのにはびっくりでした。
もっと時間がかかるかと思ったんですが…





全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事