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私の家の近くにバエア山という山がある。ごみを出しに行くとき,買い物の帰りにふと見上げるといつも頂上に雲がたなびいている。麓近くには教会の尖塔や家々がぽつぽつ見え,その上はバナナ園,椰子の木々,熱帯樹林がびっしり茂り,頂上にはラジオポストの鉄塔が立っているのがよく見える。
山頂まで歩いて約1時間半,時々運動がてらにハイキングする。途中牧場の牛に出会ったり,バナナや椰子の実を天秤に担いで降りてくるサモア人に出会う。ハニーイーターという赤い熱帯の鳥がアフリカンチューリップという木の梢に咲く赤い花の密を吸っている。風の音と空を行く鳥,蝶々,とんぼの他は誰にも会わない。サモア人はわざわざ無駄な歩きの山登りなどはしないようだ。
この山の裏側に谷を隔ててバエア山のもう一つの嶺がある。先のが生活のある側ならばこちらは観光の側だ。観光といっても訪れる人は1日に何人あるかないかだ。麓はロバート・ルイス・スティーブンソンの住んでいた邸で,その庭から登る頂上には彼の墓が建っている。海抜350メートルと書いた地図もある。登り口はいちおう木の階段があるが,すぐ岩とすべりやすい土と泥の道になる。
ここではときどき観光客らしき白人に出会う。山道は険しく,原生林のままの大きな木々が倒れたまま,そこから芽を出し,新しい木をのばしている。羊歯の大きな葉が道にはみだしていたり,不思議な茸類が生えている。垂れ下がった幹がそのまま伸びて何本もの幹を伸ばし巨木になっているバンヤンの木。団扇のように根を拡げる板根をもつ木。自然林のままの森がそこにある。
板根の発達した樹木
「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」を書いたスティーブンソンは晩年の四年間をこのアピアの郊外の山ふところで過ごした。1850年生まれで1894年没の44年の短い生涯だった。エディンバラ生まれのスコットランド人で病弱だったから,サモアのあたたかい気候が彼の健康によかったのだろう。
スチブンソンの邸宅
スティーブンソンの館は美しい熱帯の花々が咲き,手入れされた莫大な芝生の庭をもつ,2階建ての木造のテラス付きの大きな家だ。内部は博物館になっており,彼の作品,愛読書,書斎机,ベッド調度品,食堂,客間と当時のヨーロッパの人々の趣味がそのまま伝わってくるものだ。サモアの地までよくぞ運んだものだと驚くほどの徹底ぶりである。母親,奥さんの部屋にはミシン,西洋風のドレスまで揃っている。
食堂の風景
スティーブンソンは若き頃,パリの芸術村で出会ったファニーオズボーンという11歳年上のアメリカ人の夫人と恋に落ちた。彼女には子ども2人がいたが,離婚して,アメリカまで追いかけてきたスティーブンソンと結婚。彼の38歳のときだ。そしてカリフォルニアで彼の数々の傑作が生まれたという。その当時南の島へのあこがれが欧米の人々に強く,植民地化したいという列国の欲望と相まって,ロマンと冒険の地,南太平洋の島々は脚光をあびていた。
治療室
スティーブンソンも売れた本のおかげでヨットを買って,家族を伴い(年老いた母60歳も一緒に)タヒチやトンガ島の辺りまで取材旅行しては「南の島の物語」や日記,エッセイを多く発表した。彼の文章は夏目漱石が愛読したほど,無駄がなく言葉を操るのがうまかったという。中島 敦の「光と風と夢」はスティーブンソンの「南の島」を読んで,想像力で書かれたものだという。
応接室
スティーブンソンはサモアのバイリマというこの地域を自分の生涯の定住の場と決め住んだ。近くの酋長たちとも良い関係が結べて,ツシトラ(語り部)という別名をもらいサモアの伝説などを語り聞かせたそうだ。彼が亡くなったとき遺言どうり,バイリマ山の頂上に埋められることになり,熱帯雨林で覆われた山頂への道を多くの村人達が一晩で切り開いた。
スチブンソン博物館のベッドルーム
今でも歩きにくい山道を棺をかついで登ったのはどんなに大変であったろうか。彼が人々から愛された男だったことがよくわかる。
山頂にはパンの木とマンゴーの木,芝生の丘に方形の柩が一つ置かれている。そこからはアピア湾がはるかに見え,南太平洋の海が木々の間からみえる。
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