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サモア守宮句会

 
俳句を始めた切っかけは、我が家にサモア守宮句会の客人を迎えたことである。これまでは、我が道である土と木の世話に忙しく、まわりを見ている時間がなく、こころの豊かさを欠いていたようである。
 
土と木の精霊がひとのこころであることに気付き、周りをじっくり見ていると、たしかに色々なことが目と耳から、さらに手、舌、鼻から入ってくる。
 
ブッシュウォークをすると、万物万象の世界が広がってきた。「色即是空」とは誰が言ったのであろうか。これは弘法大師の言葉である。色から空にいたる経緯を吟じるのが俳句である。この人の世は、まさにやぶれ傘である。俳句はこれを修繕して、丸いきれいな傘にしていくための布きれになればと思っている。
 
俳句に季語を入れることは、宇宙の一部である地球上の最後の楽園とも言われるサモアの自然を十分に満喫して、自然と人の心とを交流するための手段であると心得る。これからは、できるだけ精進して、俳句道を踏み出すこととする。
 
タロイモとヤム
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第一回守宮句会がはじまったのは、2009年6月27日である。四季のないサモアであるが、わずかに気候の変化は感じられる。大きな葉が風にそよぐ音、輝く太陽、だだっと降ってすぐ止む雨、次々と咲かせる赤・黄の花々、海に山に、魚市場に野菜市場に沢山の季語がころがっている。
 
自然と人間との関わりの中で読まれる俳句であるからこそ、自然いっぱいのサモアは最高の舞台である。
 
Tさんの言葉であるが、永遠に流れて決して止まることのないこの時の移り変わりの中で、その一瞬を、自分の想いとともに切り取り、素朴で決して飾ることなく、自分の受け止めたものを、素直に17文字に載せて詠む。
 
しかし、その切り取った一瞬の中には、無限の世界が広がっていて、自分を遠く、どこまでも誘ってくれる。そして、もしかすると、自分でない他の誰かまでも、その遠くへと連れ去ることができるかもしれない。
 
バナナ
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サモアの季語

      
      モソオイのにほひの誘ひパロロ浮く
 
  これは新しく守宮句会に入られたKさんの句だ。彼女はサモア在住40年の日本人の方で、サモア人と結婚し、子育てをしながら、アピア市内の旅行社で日本とサモアの観光や貿易の事業をずっと取り仕切ってこられた。私たちが旅行するとき必ずお世話になる会社で、「地球の歩き方」に顔写真が載っている方だ。
 
  さて、当句の季語は?と思ったが、Kさんの説明を聞いて、パロロがサモアの季語になると思った。モソオイはレイなどに使われる香のよい花木で、この季節よく薫るそうだ。このころ10月か11月の満月の1週間後くらいのある日に、パロロが海面に浮んでくるという。
 
  パロロは珊瑚礁の細い穴に棲息している、ゴカイの仲間で、1日だけ生殖活動のため海中を浮遊しているという。サモア人にとっては特別貴重な食べ物らしく、また、いつ出てくるかわからないので、その日が近づくと漁師だけでなく、政府のお役人も先生も男達は皆そわそわし出すという。
 
  今は亡きKさんの夫も仕事をそっちのけで、夜明け前に海に入り、蚊帳の網で作った丸い金魚すくいの特大製のようなもので、パロロをすくって来たそうだ。明るくなると消えてしまうので、暗がりの中で、手探りですくうのだそうだ。
 
  最近は首都のあるアピアではあまり獲れなくなっているそうで、マーケットに出るとあっという間に売れてしまうそうだ。Kさんのパロロに対するさまざまな思いが伝わってくる句であった。
 
パロロ料理
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  11月15日、日曜日の朝6時にいつも連れて行って貰うフィッシュマーケットでその幻のパロロを見つけた。プラスチックの器に入り、どろりとした緑色の固まりの中に、にょろにょろとした細長い固体が見える。もうひとつの島サバイィ島で獲れた物だそうだ。さっそく300グラム入りのもの、30ターラ(約千円くらい)で買った。
 
  さてどういう風にして食べるのか。魚にくわしいシニアボランティアの先輩、Bさんが知り合いのサモア人に作ってもらってきた方法で私も作ってみた。フライパンに卵、バター、牛乳、にんにくをまぜた物を入れ、卵が固まったらパロロを加えてまぜるだけ。よく火が通ったら出来上がり。
 
  マッシュポテトを添えて食べるとおいしいということで、それも作った。いつものサモア語の勉強会の後の持ち寄り食事会に持っていってみんなにも食べてもらった。かすかな磯の香りがする。塩は足さず、自然の海の味のままなのでやわらかな味、不思議なおいしさだ。
 
  卵が入っているので、生臭みはなく、色合いはほうれん草の卵いためのようだ。年に一度だけしか食べられないのだと、皆にも吹聴し、来年の春は日本へ帰る人達には最後のパロロとの出会となった。昔は儀式的な敬虔な食べ物でマタイしか食べられないものであったとは、Bさんからの受入れ知識だ。
 
 
ジャックフルーツ  
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   サモアは年中夏で季節の変化がなく、季語の使い方が難しい。しかし微妙な変化はあり、こんな小さな海の動物がそれを察して、ある日、命を生み出すために必死に海上を浮遊してくるのは感動的だ。
  
  そういえば野菜市場に出る果物も今はパイナップルがたくさん出てきているし、我が家のバナナも今が盛りとそれぞれが花を咲かせ、重いバナナの房をあちこちに付けて垂れ下がっている。10月から3月までが雨季で、後の半年が乾期だ。
 
  雨季といっても1日中降っているわけではなく、ザーと降って、3、40分もすればかっと強い太陽が現れる。雨と太陽のおかげで花々や植物が生き生きと鮮やかに色を増し、実をつけてくる。季節の変化がないと思っていたサモアにもある自然のうつろいをもっとしっかり見てみたいと思ったパロロ体験だった。
 
 

TSUNAMI

 
2009年9月28日6時48分サモアにて地震が発生した。震源は西経171.0度、南緯15.3度でサモアの首都アピアから南方226キロメートルの沖合、アメリカンサモアの首都パゴパゴから110キロメートル南方であった。
 
マグニチュードは8.3と巨大な地震であった。当時潮位はアピアで0.7メートル、パゴパゴで1.6メートルと観測された。アピアでは当日7時20分津波警報のサイレンがなり、各地で緊急避難用の鐘が鳴らされた。
 
被害状況は、ウポル島の南東部にあるリゾート地で有名なラロマヌを含むアレイパタ地区、同島南部にあるリゾート地のココナツビーチシナレイ・リーフ・リゾートなどが壊滅状態となった。20の村が被害を受け、死者139名、多数の行方不明者が出た。6メートルの高波が襲ったとも報道されていた。首都アピアは北海岸に位置しているため、土砂くずれなどの地震被害は多少あったが、津波被害は殆どなかった。
 
津波通過後のリゾート地区
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サモアの人々は逞しく、復興に向かって直ちに作業を開始した。半壊のファレ(壁のない家)や簡易ファレでの集団生活が始まった。壊れた建物から建築資材を回収し、半壊の建物を修理していた。
 
サモア電力公社では、倒れた電柱の建て替えによって、早急に電力供給を開始した。タンク運搬による給水支援活動、教会関係者による食料品の確保が実施された。
 
各国の支援活動としては、オーストラリア、ニュージーランドからの軍、赤十字を含む医療関係、ユネスコ協会、また子供達への予防接種、トイレ設置を目的とした日本ユニセフ協会からの支援金募集などが実施された。
 
日本からも多くの調査査察団がやってきた。
サモア国内には、「津波サモア09基金」が開設され、義援金の募集が始まった。
 
われわれ14名は、日本の支援で建ったサポエ小学校とサレアパガ小学校の校舎、グラウンドの整備を行った。海岸から100メートルにまで堆積した厚さ1〜2センチメートルの土砂を取り除くのに大変苦労した。
 
また、次の週末には、アレイパタ・セカンダリー・スクールでの清掃活動を行った。復旧活動が急がれるなかでも、サモアの人達は、日曜日の休息日には、神様へのお祈りを決して欠かさなかった。
 
津波が来襲した時、ニュージーランドの観光客14名が南海岸のリゾート地区に滞在していた。地震の後で海の様子がおかしいことに気付き、丘の上に逃げ間一髪で難を逃れた。
 
ところが70歳の老女が津波に巻き込まれ5分以上スーツケースに捕まった状態で波に揉まれていた様であった。それを助けに行った息子は、命に別条はなかったものの大怪我をし、ニュージーランドの病院に入院したという報道がなされていた。
 
また、明るいニュースとして、丁度1ヶ月ほど前に訪れたタファタファビーチのファレはほぼ無事で、そのオーナーのおばちゃんも元気であった。実は、津波来襲の日、泊まり客が一組いて、その人達の車で1キロメートル先の国道まできわどく逃れることができたとの事であった。
 
津波の伝播速度はきわめて速く、日本まで10時間余りで到着していた。ジェット機の飛行速度である時速800キロメートルにも及ぶ超高速度である。
 
サモアでは、この津波災害は、日曜日に海水浴場を解放して営業活動を行ったことに対する神のたたりであるとして受け止めている。災害後は、どの村も日曜日には決して入村を許可しない方針を貫いていた。
 
日本では、将来の東南海地震による津波来襲に対して、徹底的な避難訓練が行われ、迅速な救助体制の構築が必要である。
 
屋根がかろうじて残ったファレ
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サモアの地震・津波

 
2009年9月29日(火)成田着16時40分の飛行機でサモアから帰った。シニアボランティアは2年間の任期中一時帰国して、健康診断を受ける義務がある。税関を過ぎ、無事到着の電話を家族に入れ、新宿の都庁の近くのホテルに落着いた。
 
ビルの谷間から見える久しぶりの日本の夕焼けを楽しんだ。翌朝時差のため午前3時半ごろ目が覚め、テレビをつけたところ、「サモアに大地震!」の文字が飛び込んできた。
 
それからの驚天動地は皆様ご存じのところ。偶然にもサモア、トンガを襲った震度8.3の大地震の1日前にからくも帰ってきたことになった。皆様にも大変ご心配をかけ、また俳句会「檪」の“櫟祭り”では津波カンパにたくさんのご厚志をいただいた。深くお礼を申し上げます。
 
  10月31日再び成田を発ち、地震1ヶ月後のサモアに到着した。大地震はサモアの2つの島のうち、ウポル島の南東部に大きな津波を引き起し、死者180名を出した。首都のある北側のアピアには大きな被害はなく、私の家もテレビの上の小さなだるまが床に転がっている変化があっただけだ。
 
 しかし、友人から被災地の海岸の写真や救助に駆けつけた小学校の壊れた校舎や泥や瓦礫で埋った校庭の写真を見せて貰って、被害の凄さを知った。地震は朝7時頃に起こった。人々が朝の仕度をしたり、仕事や学校へ出かける頃だった。
 
ウポル島南部の海岸波浪
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  サイレンが鳴り、人々は山や高いところへ向かって逃げたそうだ。津波が来た海岸にはリゾート地が多く、私達も何度か泳ぎに訪れたところだ。絵にも描き、カレンダーにも載っているところだ。
 
  津波は始め海水がぐっと引いて、水がからっぽになったように見え、その後突然大きな高波となり、押し寄せてきたそうだ。2度波が来て、2度目の波がとても大きくてさらわれた人々が多い。
 
  当時の新聞を集めて読むと、津波後1週間は刻々と届く被災地、奇跡的に生還をした人の話や写真がくわしく載っている。2週間目からは各国の援助、日本の矢崎というトヨタの車の部品をつくるサモア一大きい会社の寄金や、サモア人が13万人住むというニュージーランドからの医療救出に係る物品機材の救援などに対する報告や感謝が目をひく。
 
  日本と違うと思ったところは、なぜクリスチャンの国サモアにかくも大きな地震が起こったか、神は我々を見捨てられたのかという人々の意見があったことだ。ある村の村長は政府の役人でもあるが、サモアが神の掟を守らなくなったからだ。
 
  被害を受けたリゾート地は聖なる日曜日にも営業をしていた、子供の権利ということが言われて、年長者の意見を聞かなくなったと。またある人は神の意志を測ることはできないが、これは神のメッセージだ。
 
  環太平洋地震帯の連携でスマトラ沖の地震も同時に起こったが、サモア全土が壊滅しなかったのは神の恩寵だ、等々新聞の論説を含めて、人々がなぜ地震が起きたかを自然現象とだけに片づけず、神と結びつけて考えているところにサモア人の特徴があると思えた。
 
  1ヶ月が過ぎ、私がしばらくぶりに学校へ行くとき乗る馴染みのタクシー会社に女性ドライバーが入っていた。1週間前から自分の車を使って始めたそうだ。聞くとアレイパタという被害が大きかった地でリゾート用ファレを持っていたそうだ。
 
  水が怖いからもうあの地へは戻りたくない、夫はオーストラリアへ働きに行った、自分はしばらく知り合いのところで働いているのだと言った。サモアではタクシーはいつも音楽を鳴らして走っているのだが、拍子に合わせて体を揺すりながら話してくれた。
 
  「また今度ね」と元気よく別れた。小学校の子供達も家が流された子は1人あったが、みんな元気で余震で何回か山へ向かって走ったことなど話してくれた。「日本では地震、雷、火事、親父」と言って、恐い物の順序を教えてやり、「でも最近は、親父は恐くないんだ」というと、「うちも恐くない」、「うちはやはり母よりこわい」等々と言い、やはりサモアも少しずつ変わってきているようだ。
 
 照りつける太陽、カラフルな花々、ラバラバの人々、夕方には聞こえる教会の祈りの歌声等日常が戻ってくると、「おおこれがサモアだ」と思える。ゆったりとおおらかで、敬虔なクリスチャンの国サモアは健在で、津波の痛手も再建の意志をもって、新しく活動をはじめたところだ。
 
津波で押し流されたファレ
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車線変更

 
 サモアが世界のニュースに取り上げられることはめったにない。しかし、9月7日付けで車線が変更されたことは、NHKニュースでも報道されたらしい。約30年前に沖縄でアメリカ方式の右側車線から左側に移行したことは、覚えていらっしゃる方もあるだろう。
 
 サモアでは昨年から反対運動が続き、裁判沙汰にもなったらしいが、政府の意向、車線右から左の決定は合法ということで、着々と準備が進められていた。しかし、反対が90%で本当に実行されるかどうか、私達も半信半疑で眺めていた。まず車線変更の理由が今だにはっきりしない。
 
 アメリカ領の東サモアと同様に、こちらサモア独立国もアメリカ式右側車線を導入していたが、左車線のニュージーランド、オーストラリアに住むサモア人が多くいること、大型の高いアメリカ車を買うより、小型の日本車やニュージーランドからの中古を買う方が安いことなど、経済的な理由が本当のところだろう。
 
 中には首相が車線変更により歴史のページに残りたがっているのだという皮肉な意見まで飛出していた。この歴史的大イベントのために、日本からJICAの交通安全のエキスパートが来て、私達は安全のための講習と運転をする人は実地訓練まで受けることになった。
 
 日本と同じ向きになったからよいと言うほど簡単ではなく、今までの多くの車は右側車線用の左ハンドルで中央が見えにくく、信号機のないロータリや右か左かの一瞬の判断の迷い、うっかり事故の危険も予想されるからだ。
 
車線変更後のアピア幹線道路
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 沖縄では変換の日は8時間、車の運転を禁止にしたそうだが、サモアではどうなるのか私たちは不安と期待の中で見守った。実施の9月7日と8日は休日になり、7日の午前6時を期して、車線は右から左に変更した。
 
  10分前にすべての教会の鐘が一斉に鳴りお祈り、首相のテレビでの宣言、続いてサイレンが鳴り響き、この歴史的変換は実行に移された。車の速度は時速30〜40kmに押えられ、曲がり角には警官が立ち、「左側通行」のサインが車の前後、通りにも貼られ、新しい道の矢印、新しい信号機がその時より動きだした。
 
  休日の2日間は酒類販売禁止となった。私達は家に留まって静かにしていたが、休日の2日目は外へ出て、近くの山へ登って休日を楽しんだ。いつもはのんびりしているサモア人だが、案外きびきびと変換に対応しているのに驚いた。
 
 ただ地方のマタイの抵抗やバス運転手のバス修理費要求のストライキが少しあっただけだ。バスの乗降口が今までのままでは道路の中心に降りねばならなくなるので、すべてのバスは乗り口を付け替えなければ運転できないことになったからだ。
 
 ここのバスは車体がで出来ており、切ってドアを開け、元の明き口には木を貼り付け、ペンキを塗り替えねばならない。窓にはガラスもなくドアも開けっ放しだ。でも人々の大切な足で、バス通学生の多い公立の中学、高校生は更に一週間休みとなった。
 
 なんとか大部分のバスもドアを付け替え、新聞で見る限り、大きな事故もなくこの歴史的変換はスムーズに行われたようだ。今までルーズだったシートベルトの着用スピード制限、夜間飲酒10時以後レストランでの販売禁止、何より多くの警官の出動と交通取締が厳しくなったことは成果であった。皆が用心を忘れた頃がかえって危険かもしれない。
 
  その1週間後、アピア市内の6階建てのビルディングに聖マリア像が現れたという話題があった。単に屋根の樋から雨が壁にしみこんで像の形を作ったのかもしれない。それはイエスを抱くマリア像のようでもあり、コカコーラの瓶の形のようでもあった。
 
 クリスチャンの国サモアでは神からのメッセージという牧師の言葉と共に、夜間その像を拝む人々が列をなした。私も2.3日後に見に行ったが、確かにイエスを抱くマリア像のように見えた。車線変更は神の意向にかなったのだろうか。ともあれ話題の多い九月であった。
 
車線変更になったアピア市内
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