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タファタファ海岸

 
ウポル島の秘境のビーチを探して、我々は、計11名でタファタファ海岸を目指した。9月13日の日曜日、午前9時30分事務所を車2台で出発した。この海岸は、ウポル島の南海岸にあり、クロス・アイランド・ロードを南下して、メイン・サウス・コースト・ロードと交わる地点で東方向に左折し、10キロメートルほど進むと案内板があり、そこを右折して到着した。
 
アピアは快晴であったが、クロス・アイランド・ロードの峠付近は小雨であった。峠を越えたところに有名なパパパパイ・ウタ(別名ティアビ)の滝が有り、滝の正面から見える見晴らしの良い展望台で小休止した。
 
この滝は、フィアモエ山山頂の水源地帯から流れ出すもので、60メートル以上の断崖絶壁を一気に谷底まで流れ落ちている。雨季には、豊富な水量となり迫力満点の圧巻ものである。この川は、タフィトアラ水系に属しており、将来の水力発電の重要な開発候補地となっている。
 
 
ヨットでセイリングを楽しむパラギ
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タファタファ海岸には午前11時頃到着した。天気は快晴で、何よりの海水浴日和であった。まず、大きなファレに集合し、各自持ち寄った弁当を開けて昼食を取ることにした。おにぎり、寿司、野菜サラダ、マグロの煮付け、麦茶など楽しく頂いた。
 
このファレは最近建てられたもので、10畳敷きの大きな収容力を持っている。柱もしっかり建てられ、屋根はトタン屋根になっていた。椰子の葉っぱで葺いた古いファレとは趣向を異にしていた。これらのファレは10数棟あったが、そのオーナーはニュージーランドの病院を退職した未亡人であった。
 
彼女の夫はニュージーランドの大工であり、退職後にサモアのこの村に戻り、自分一人でこつこつとファレを建てた後、亡くなってしまった。そのために、これらのファレは、民宿を経営するこの未亡人の唯一の財産となった。
 
浜辺のごく近いところに、黒っぽい色をしたサンゴ礁があり、色々な種類の魚が泳いでいた。各自たっぷり時間を掛けて、スノーケリングを楽しんだ。この浜辺は誰一人いなくて、我々で景色を独占することができた。
 
写真に見るように、美しい海岸線であり、白い砂の浜辺が広範囲に広がっていた。まさに秘境のビーチであった。サモアの海岸では、黒色の溶岩が卓越しており、岩場の海岸が圧倒的に多い。黒色の砂浜海岸が多いなかで、白い砂の海岸はきわめて少ない。
 
遠くに目をやると、写真にあるように、カラフルなヨットで海上をセイリングして楽しんでいるパラギの連中がいた。また凧を使って水上スキーを楽しんでいる人もいた。この海水浴場では、シャワー・トイレの整備が良くなされていた。我々は、日没前までゆっくりとすごしてから帰途についた。
 
なお、この村は、その後2週間先に発生したサモア大津波災害に晒された。先ほどのファレのオーナーである未亡人は、丁度そのとき宿泊していた人の車に乗せてもらって1キロメートルほど先にある国道のメイン・サウス・コースト・ロードまで間一髪で逃げ切ることができた。
 
また、津波が引いた後、村に帰ってみると、椰子の葉っぱで葺いた重たい屋根である古いタイプのファレは跡形も亡くなっていたが、夫の新築したトタン屋根のファレはすべて無傷で残っていたようである。
 
まさか彼は、津波対策用に設計したとは思えないが、実はすばらしい建築家であったのかもしれない。壁のない軽い屋根構造は、風だけでなく海水の通しもよく、安全な建築様式であることが実証された訳である。
 
タファタファ海岸
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ナムア島

 
週末の9月5日、我々は1泊2日で、ナムア島を訪問することとなった。この島はウポル島の東端にあり、マラエラから約20分で渡海することができる。前日に買い物を済ませておき、5日朝事務所を午前9時30分に出発した。アピアの天候はすぐれなかったが、東方向に進むに従って順調に回復し、マラエラの渡し船の船着き場に着く頃には、すっかり晴れ渡っていた。
 
渡し船は、写真に見るような船外機を付けた小さな漁船であり、2回に分乗して行くと思っていると、何と一度に荷物と全員12名を詰め込んでしまった。船体は重くなり、また干潮時でもあったので、舟底が海底に着いてしまった。
 
船頭2人が水に入り、しばらく底を引きずりながら、船外機が底に当たらない深さにまで曳航して行った。ナムア島まで比較的遠浅であり、海底がはっきり見えていたのでそれ程心配はしなかった。
 
  しかし、先月8月5日、トンガ沖でフェリーが沈没し、行方不明者93人が出たこと、さらに我々の仲間である70歳の船舶技師がそこに含まれていたことなどが我々の頭をよぎった。水深110メートルの海底で船体は確認されたが、水深50メートル以上の捜索が難航しているとのことである。
 
  フェリーのプリンセス・アシカ号は乗客149名を乗せて首都ヌクアロファを出港し、ハーフェバに向かう途中の北東約80キロメートルで沈没した。53名が救助され、2名の死亡が確認された。
 
  この事故を思い出すとき、舟の安全性には常に警戒しておかねばならないことを肝に命じなければならない。この日は波浪おだやかであり、渡し舟はゆっくりと進行していったので安心した。
 
ナムア島の遠景
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 舟が、写真に見るような美しいナムア島に近づくと、2匹の犬が海水に入り我々を出迎えてくれた。島の一部には砂浜があり、ビーチファレが10戸とオーナーの家族と従業員用のファレがある。その他は無人島状態であり、密林に囲まれ、島を周遊する道はなく、勿論電気も来ていない。
 
  昼食は、各自持ち込んだおにぎり、果物の他、バーベキュウマグロを塩コショウで焼いて食べた。マグロは今朝魚市場で買ってきたので、大変新鮮で美味しかった。その他、伊勢エビ5匹を2つ割りにして、ココナツの殻から作った炭火で焼いた。
 
  次に出たのは、Tボーン付き牛肉とサモア産牛肉の2種類の焼き肉を味わったが、輸入牛の方が柔らかくて美味しかった。さらにニュージーランドから輸入したムール貝を焼き、手製のたれを使って味付けし、夕食のために保管した。
 
  バーベキュウを楽しんだ後は、一服し、海水浴を楽しんだ。一面のサンゴ礁があり、その間を沢山の熱帯魚が泳いでおり、スノーケリングをしながら楽しむことができた。とくに、水中カメラで沢山の熱帯魚を撮影するのに夢中になっていた。
 
  夕食の合図は、鐘を叩いてお客を集めていた、食事は、魚の天ぷら、鶏の唐揚げ、タロイモ、ソーセージ、野菜サラダ、ビール、ワインとご飯、それに釣った刺身とムール貝を焼いたものであり、質量共に満足できるものであった。
 
  夕刻に入り、電気は点かないので、キャンドルサービスとなり、夜遅くまで歌を詠って楽しい宴会となった。それぞれ、4棟のファレに分散し蚊帳を吊って寝た。しかし、波の音と激しい風の音で十分な睡眠を取ることはできなかった。
 
  7時半、朝食が始まった。卵焼き、ゆで卵、パパイヤ、パン、茄子の揚げたもの、ランチョンミートとタマネギ、サモアンココアと豊富で美味しい食事であった。
 
  朝食後は風雨が強くなり、海上の波浪も荒々しくなった。風が弱くなった午前11時、定員オーバーのため、いつ転覆してもおかしくない状態で出港した。
 
  転覆しても浅瀬であるので、何とか泳ぎ着けるという覚悟で乗船し、工事用ブルーシートを頭からすっぽりとかぶり、まるでボートピープルの心境であった。無事マラエラへ到着し、その後はアピアまで快適なドライブであった。
 
船外機付き漁船
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バエア山

  
  アピア市内から空を見上げるとバエア山が聳え立っている。標高は470メートル程度であり、京都の大文字山とほぼ同じ高さである。写真に見るように緑の木々で被われた美しい山である。
 
 C氏は、猛暑の日でも、土砂降りの日も欠かさず毎週週末にはトレーニングのため熱心に登山を続けている。彼は、サモア最高峰であるサバイィ島にある標高1,858メートルのシリシリ山、ウポル島の最も高い山である標高1,160メートルのフィト山にも登っている。また、富士山には80回以上登山し、さらに、世界の山では、標高5,950メートルのキリマンジャロにも登った経験の持ち主である。
 
  我々も数回バエア山には登ったことがある。70歳前後の初老にはややきつめの登山ではあるが、頂上にある写真のラジオポストまで登り切った達成感は素晴らしい。登山口は、バイテレ・ストリートのツフィオーパに有り、途中では、アピア港の美しい光景を楽しみながら、コースの3分の2まで楽しいハイキングをすることができる。
 
  最後の3分の1は、熱帯性密林の中をくねくねと七曲がりする山道を、難行苦行をしながら頂上まで登り詰めるコースである。山頂までゆっくり歩いて2時間程度である。
 
  山頂からの下りに要する時間は、1時間程度である。ある日、牧場の近くを歩いていると、前方の崖地から大きな肉牛が2頭駆け上がってきて、道を塞いでしまった。我々は、牛の生態をよく知らないので、しばらく様子を見ていた、牛たちもこちらをジッと見て警戒しているらしい。
 
  およそ20分もすると草をはみ出したので、その横を通過しようとした。そのとき突然こちらを振り向いて来たが、攻撃する様子もなかったので、静かに通りすぎることができた。我々との間隔は1メートル前後であった。この登山道では、野犬はよく出没するので、撃退する棒きれをもっていたが、牛には通用しない。
 
アピア湾よりのバエア山
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もう一つの登山道は、アピアから4キロメートルほど行ったところにあるロバート・ルイス・スチブンソン博物館から山頂近くにあるスチブンソンの墓までのコースである。サモアでは「ツシタラ」として有名な小説家スチブンソンが、健康のため、最後の4年間を過ごしたバイリマ村には、広大な敷地に建つコロニアル風の2階建ての美しい住居が建っている。
 
入口の門から邸宅へ続く並木道は、英国調の庭園の雰囲気が漂い、鳥のさえずりが心地よい。ここから西方向に10分ほど平坦な道を歩き、バイリマ川の小さな小川を渡って、5分も登ると、山頂へ行く木道が2本に分かれている。所要時間35分の健脚コースと45分の普通コースに別れる。我々は、普通コースを歩いて、途中サモアの黒トカゲを見ながら、熱帯樹林帯をトレッキングした。すっかり気分爽快となり、森林浴を十分に満喫した。
 
山頂近くの見晴らしの良い丘にたどり着くと、そこには白い家の形をしたスチブンソンと彼の妻のファニーのがアピア港を見下ろすように佇んでいた。彼の墓標には、彼の生前の意思に従って、次のような詩文が刻まれていた。
 
広大な星の輝ける空の下に墓を掘って我を埋めたまえ、我楽しく生き、喜んで死す、・・・・・、海の水夫、丘のハンターとなりて・・・・・・
 
スチブンソンは、1894年12月に亡くなったが、その後バイリマ村は、ドイツの富豪である博愛主義者、続いてニュージーランド政府に統治されていたが、1962二年サモア独立後は、サモア政府に所属した。彼の100年紀の1994年には、R・L・スチブンソン博物館として公開された。
 
博物館には、当時のオルガン、喫煙室、暖炉、食堂、図書室、3寝室、および治療室などがあり、小1時間で1回りすることができる。
 
このように、バエア山は、サモア諸島が3,000年前から南東アジアからの移民達を受け入れ、1899年にはドイツの植民地となり、世界第1・2次戦争後にはニュージーランドによって委任統治および管理され、ようやく1962年独立し、その後今日に至るまでの悠久の歴史を見つめてきたのである。
 
バエア山の頂上にあるラジオポスト
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スコットランドの小説家、詩人、エッセイストおよび旅行作家であるロバート・ルイス・スチブンソンは、1850年11月スコットランドのエジンバラで生まれ、1894年12月、44歳でサモア独立国のバイリマで亡くなった。
 
父の名は、トマス・スチブンソン、母の名はマーガレット・イサベラ・バルフォアである。彼は、幼少の頃から肺の病気に掛かり、温暖な地域への転地が必要であった。11歳頃までよく風邪を引いていた。彼は風邪のため、たびたび学校を休んでいたために、家庭教師について長期間勉強を続けていた。
 
彼は、読書家であり、また物を書くのが好きであった。16歳のとき、最初の本を出版している。彼は、17歳になると、工学技術を学ぶためエジンバラ大学に入学した。しかし、工学より文学が好きだということで、21歳のときに文筆家になる決断をした。
 
彼は、大人になっても、たびたび風邪引きの症状を繰り返していたので、すっかりやせ細ってしまった。その当時、彼は肺結核と診断されたが、実は気管支炎であった。
 
23歳のとき、風邪の症状が激しくなり、フランスへ転地療養に行った。その後、たびたびフランスに行く機会に恵まれ、彼は旅行作家を目指した。25歳になるとスコットランドの弁護士となったが、滅多に法律の仕事をすることはなかった。もっぱら全エネルギーを投じて旅行と執筆活動に専念していた。
 
ある日、友人とベルギーとフランスをカヌーで旅行しているとき、10歳年上の女性ファニー・バンデグリフ・オスボーンに出会った。米国インディアナポリス生まれの彼女は、3人の子持ちであった。17歳のとき結婚し、カリフォルニアに居住したが、夫の不倫のため、たびたび別居生活をしていた。35歳のとき、子供を連れてフランスへ移住した。
 
ロバート・ルイス・スチブンソンの邸宅
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彼女37歳のとき、スチブンソンと再会して以来恋仲となり、数年間、子供達と一緒に彼とフランスで暮らした。しかし、彼女は1年後、米国サンフランシスコへ帰ってしまった。
 
スチブンソンは執筆活動のためにしばらくヨーロッパに滞在したが、その翌年、彼女に求婚するため、2等の蒸気船で渡米し、ニューヨークからサンフランシスコまで鉄道で旅をした。節約旅行とはいえ、長旅ですっかり身体を壊し、殆ど死にかけていた。
 
すでに離婚していた彼女は、スチブンソンのベッドの側で看病を続けた。その間。彼の父親は軍資金を送っていた。
 
健康が回復し、スチブンソン30歳、ファニー40歳のとき、めでたく結婚することができた。新婚旅行はサンフランシスコ北方のナパ渓谷で、夏の休暇を楽しんだ。その後の7年間は、ヨーロッパと米国の間を、保養地を求めて転々としていた。
 
スチブンソン38歳のとき、健康のための新転地を求めて、家族とともにサンフランシスコから帆船をチャーターし、ハワイ、タヒチ、ニュージーランドおよび南太平洋の諸国を約3カ年に渡って放浪した。
 
その当時、1887〜1889年の間は「サモア危機」と呼ばれており、米国、ドイツおよび英国が、サモア市民戦争の間、サモア諸島を統治する問題で対決していた。
 
1890年、スチブンソン40歳のとき、オーストラリアのシドニーを出発してサモアの上陸し、1.6平方キロメートルの土地を購入した。ウポル島のバイリマ村において、コロニアルスタイルの2階建ての邸宅を建て、執筆活動に励んだ。彼はサモアでは大変有名になり、多くの人々に愛されていた。
 
バエア山の花(千々岩壬氏提供)
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1894年12月3日、彼はいつものように一生懸命に働いた。その晩、妻との会話中に、ワインボトルを開けようとしたとき、突然妻の横に倒れ、2〜3時間後に脳出血で亡くなった。彼の遺体は、バエア山の山頂近くの海の見える丘に埋葬された。
彼の著書は数多く発刊され、とくに「宝島」、「ジキル博士とハイド氏」などが有名である。
 
 
 

バイシガノ川

 
アピア市内に流れ込む大きな河川として、バイシガノ川がある。この川は、ウポル島の最高峰である標高1,160メートルのフィト山の分水嶺から北方に流れ出す広大な流域面積をもつ河川である
 
サモアの人々はこの川に大変世話になっている。上流から流れ込む豊富な水で電気を起こし、飲料水かんがい用水工業用水などに利用している。
 
まず、上流域から見ていくと、1981年に建設されたファレ・オレ・フェ発電所がある。この発電所では、2カ所の川から取水した水が、水路を通り調整池を経由して、パイプで送水されている。すなわち、ファレ・オレ・フェ川から取水した水は2.6キロメートルの鋼管水路を通り、またバイバセ川から取水した水は1.4キロメートルの鋼管水路を通って、調整池に貯えられる。
 
ファレ・オレ・フェ川の流域面積は2.0平方キロメートルであり、その平均流量は毎秒0.15立方メートル、最大流量は毎秒2.9立方メートル、最小流量は0である。この調整池の大きさは、5,600立方メートルである。この調整池からは延長3.5キロメートルのペンストックと呼ばれる水圧管を通って流速毎秒0.67立方メートルの高圧水がドイツ製の発電機に送水される。有効落差は300メートルである。ここでの発電量は、1,740キロワットである。
 
中流域には、1959年に建設されたアラオア発電所がある。この発電所では、バイシガノ川の支流から取水した水が、2つの水路を通り調整池を経由して、パイプで送水されている。すなわち、東側の支流から取水した水は2.7キロメートルのコンクリート製の用水路を通り、また西側の支流から取水した水は0.2キロメートルのコンクリート製開水路を通って、調整池に貯えられる。
 
東側の支流の流域面積は16.5平方キロメートルであり、その平均流量は毎秒0.69立方メートル、最大流量は毎秒42.6立方メートル、最小流量は0である。
 
取水堰の例
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また、西側の支流の流域面積は12.5平方キロメートルであり、その平均流量は毎秒0.76立方メートル、最大流量は毎秒35.9立方メートル、最小流量は0であるこの調整池の大きさは、およそ15,000立方メートルである。この調整池からは延長150メートルのペンストックを通って流速毎秒0.96立方メートルの高圧水がドイツ製の発電機に送水される。
 
 有効落差は136メートルである。ここでの発電量は、1,050キロワットである。この発電所の各施設は老朽化が進んでおり、早急な整備または更新が必要である。
 
下流域には、1982年に建設されたサマソニ発電所がある。この発電所では、バイシガノ川から2系統で取水された水が、調整池を経由して、水圧管パイプで送水されている。すなわち、取水した水は鋼管パイプを通り、調整池に貯水される。
 
写真は、遺跡タコの家の近くにある取水堰の風景を撮影したものである。左側の堰を通過した水が鋼管パイプに引き水されているのである。余分の水は元の川に放流されている。調整池の大きさは、およそ10,000立方メートルである。
 
この調整池からは延長3,600メートルのペンストックを通って流速毎秒1.29立方メートルの高圧水がドイツ製の発電機2基に送水される。有効落差は86メートルである。ここでの総発電量は、1,900キロワットである。
 
いずれも流水式発電と呼ばれるものであり、ダム方式と比較して、環境に優しい発電方式である。また、長大な導水管や水圧管が山から谷に向かって、また村を通って大蛇のように横たわっているのが特徴的である。
 
これらの発電所を通過した水は元のバイシガノ川に戻されて行くので、下流域では再度同じ水を利用することとなる。
 
さらに、バイシガノ川の水は、飲料水としても重要な水源であり、写真に示すように、アラオア発電所の近くに大きな5個の直径約30メートルもある新しい貯水タンクが設置されている。雨季には、激しい降水のために上流の土砂を含んだ濁水が入り込むと、土砂の沈殿に時間がかかり、上澄み水が濁ったままで家庭に送水されることもある。
 
この時期は、できるだけ節水する必要があり、夜間給水制限が行われている。こうして、十二分に利用された河川水は、へとへとになってアピアの河口に到着し、波にもまれながら海へ流れていくのである。
 
飲料水用貯水タンク
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