日記

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現代の日本人は、無意識の中で、拝金主義という金銭を最高のものとする考え方にどっぷり浸かっている。また、物だけを大切にする唯物論的考え方に支配されている。しかも、無気力、無関心であり、かつ無責任な人間が多くなっている。人間に取って大切な精神的な心が失われつつある。四国遍路の旅をして、人間としての大切な精神力を鍛えなければならない。
 
サモアでは、南太平洋の水平線に立ち上る太陽とともに起床し、日没とともにその日の疲れを癒している。時計もなく、ストレスと無縁の暮らしが約束されたファレでの生活があり、年から年中夏気候で、衣類も少なくてすむ。早朝に魚を捕って、午前中の涼しいうちに、バナナ、タロイモを収穫し、食料をとってくることができる。
 
大家族制度のマタイを中心とし、キリスト教を大切にし、親子の愛情とともに規律正しい精神力を培っている。そこには、時間を奪うTVは不要であり、電灯以外の電力は不要である。エコロジーを大切にするサモアンファレとTVはミスマッチである。サモアでは、「時は金なり」という考え方になじまず、金よりも大切なものである唯心論を、キリスト教を通じて大切にしている。
 
日本では、「熱帯雨林を大切に!」と訴えながら、紙、鉛筆と割り箸を粗末にしている。「河川の浄化を!」と唱えながら合成洗剤を使いつづけている。「原発反対!」と唱えながら全自動洗濯機、乾燥機で衣類を洗い、電子レンジで料理をしている。
 
さらなる経済発展と、より快適な暮らしのみを追求する矛盾に満ちた日本人の暮らしは、エコロジーを棚に上げていては、立派だとは言えないであろう。地球環境についてあれこれ発言する資格はあるのであろうか。
 
古代のサモアの住居
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地球環境とかエコロジーという観点からすれば、西洋からの機械文明の導入を拒否し、植民地化に対して闘ったサモア人の地球に優しい暮らしはそのお手本である。1920年、ティアベア村の酋長であるツィアビが書いた「パパラギ」という書物の中での、ヨーロッパ文明に対する痛烈な批判には、感服するものがある。
 
朝晩には、必ず神様にお祈りをして、一日の平穏と食べ物に対する感謝の気持ちを、家族みんなで共有する習慣は、今日でもしっかりと受け継がれている。しかし、最近では、サモアの自然に溶け込んだ豊かな暮らしを機械文明が破壊しつつあるようで、ツィアビの嘆きが彼の墓から聞こえてきそうである。
 
日本では、衣食住環境が十分に満たされていないので、金がもはや万物創造の神様のようになっている。サモアでは、衣食住は一応みたされており、自給自足することができる。
 
日本の人口密度は1平方キロメートル当たり343人であるのに対して、サモアでは60人である。このように、サモアでは畑を耕し、家畜を育て、自給自足できる環境にある。さらにサモアでは、土地は、アピア地区を除いて、国民一人一人に割り当てられ、売買することはできない。このようにして、大切な土地を先祖代々大切にしているのである。
 
サモア独立国の将来については、やはりツイアビの精神を引き継ぐとともに、土地を決して手放なさないことが大切である。自然に逆らわないサモア流の生き方を大切にし、サモアの伝統文化を大切にして発展させていく必要がある。大家族制度を大切にし、環境を破壊する文明を拒否し、環境に優しい先端技術を導入して環境を維持していく能力をもつことが肝要である。
 
サモアの若者には、人生の目標や夢を持たせて創意工夫すること、およびそのための努力を怠らず、地道な国際競争力をもたせることが大切である。外貨をかせぐための輸出産業を構築することが重要であり、そのためのエネルギー需要に対してはバイオエネルギー、水力発電、太陽熱発電の開発に真剣に取り組むべきである。
 
現代の合同庁舎
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ホワイトサンデー

 
  マンゴーの実が熟れるころになった。9月末から家の庭にある、大木のマンゴーが青い実を大きく太らせてきた。朝起きると夜のうちに5、6個地面に落ちている。昼間家にいるとバシッと音立てて落ちるのが聞こえる。食べるのに間に合わず、友達におすそわけしたり、ジャムにしたり何度作ったことだろう。そのうち近所の子ども達も取りに来るようになった。3、4歳から10歳くらいのちびっ子集団だ。
 
  彼らは拾うとすぐにかぶりつく。枝に成っているものは石を投げて打ち落とす。その命中力はすばらしい。しかし石は危ないのでやめさせようとするが、なかなか言うことをきかない。「彼らの楽しみなのだからさせてやれ」と思って黙っている。そのうち、木に登って獲りだした。5、6歳の子が身軽で器用に登る。濃い緑の葉に隠れて地上10メートルほどの所から、実を投げ落とす。他の子ども達が拾い集め、後で広場で分け合って食べている。広場にも大きなマンゴーの木が2本あるので子ども達の楽しみはつきない。
 
  こんな遊びを日本の子もしていたのであろうか。買ってもらうおやつが十分あるわけはないので、マンゴーは子ども達にとって何よりの空腹を満たし、かつスリルあふれる遊びなのだ。遊び道具は木の棒、タイヤ、木に渡したロープのぶらんこ。
 
  たった一つのラグビーボールは夕方兄さんたちが遊んでくれるので、大切な宝物だ。時々大声で家から母親が呼ぶと、すぐに使い走りに行かされる。椰子の実を2つとか食パンを大切そうに運んで帰る。そしてまたすぐに広場にもどる。親は怖いが、日本人の私達はなまぬるい大人たちなのだろう。あぶないと言われてもやめるわけにはいかない。
 
アフリカンチューリップ(千々岩壬氏提供)
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  日頃放っておかれる子どもたちだが、年に一度だけ王様になれる日がある。10月の第2日曜日「ホワイトサンデイ」というキリスト教のお祭りの日だ。その日私達は以前クリスマスに尋ねた、サバイィの家を訪問していた。一泊した日曜の朝、子ども達はきれいに磨かれて、髪をとかされ真っ白い衣装で教会へ向った。男の子はワイシャツと白いラバラバ、女の子はレースのついた白いプレタシに首飾り、髪飾り白ずくめである。大人たちもその後から白い衣装で教会へ向う。八十三歳のおばあさんも白い鍔の帽子を被り、久しぶりに外へ出た。
 
  教会では子ども達は祭壇の前に礼拝客に向って坐っている。3歳くらいから、高校生までの子ども達だ。牧師のお祈りと説教のあと、いよいよ子ども達の出番だ。グループごとに子ども達のパーフォマンスが始まった。聖書の物語を劇にしたものや、お祈りの言葉や詩の朗読をひとりでする子もいた。サモア語でよくわからないが、劇の内容からモーゼの出エジプトのはなしとかユダヤとカナンの人々の戦いかなどと想像するだけだ。母親が満足そうにうなずいたり、一緒に唱えたりしている。大きい子ども達の劇や踊りも力強く、まじめに劇中人物になりきっているのが好もしい。
 
  家に戻るといよいよごちそうが始まる。サモアでは日曜日はいつも昼に「トウナイ」と呼ばれるご馳走を食べる。今日はその特別版で、朝早く家族中で、鶏、豚、鳩肉などの用意、タロ芋、タム芋、青バナナなどの下ごしらえや、椰子がらの火で石焼き用の床を作っていた。教会に行っている間にそれらがうまく蒸し上がったらしい。
 
  今日は一年に一度だけ子ども達から食べてもよい日なのだそうだ。いつもは客や大人が食べた残りを子ども達が食べるのだ。だから客はそれを考えて残しておかなければならない。大食のサモア人の食事だから、私達はその3分の1も、いつも食べられないのだが。
 
  やはりみんなで一緒に食べるのは楽しい。ファレの柱を背にめいめいに配られたご馳走をおしゃべりしながら、海風に吹かれて食べた。子ども達は普段着に着替えて、思いっきり兄弟や親に甘えて、お腹いっぱい食べた。食後はクッキーやキャンデーのお楽しみもあった。お給仕をしてくれたのは20歳前後の若いお兄さんたちだった。やはり誰かは働かねばならない。
 
  幸せは相対的なものだ。日頃少し欠乏気味に暮らしていた方が、与えられたときの喜びは大きくなる。ファミリーレストランでひっくり返って食べている子や山のように残された食べ物がゴミ箱に捨てられる日本の風景を思い出してちょっとさみしくなった。
 
アオア(千々岩壬氏提供)
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ハイキング

   
   私の家の近くにバエア山という山がある。ごみを出しに行くとき,買い物の帰りにふと見上げるといつも頂上に雲がたなびいている。麓近くには教会の尖塔や家々がぽつぽつ見え,その上はバナナ園,椰子の木々,熱帯樹林がびっしり茂り,頂上にはラジオポストの鉄塔が立っているのがよく見える。
 
  山頂まで歩いて約1時間半,時々運動がてらにハイキングする。途中牧場の牛に出会ったり,バナナや椰子の実を天秤に担いで降りてくるサモア人に出会う。ハニーイーターという赤い熱帯の鳥がアフリカンチューリップという木の梢に咲く赤い花の密を吸っている。風の音と空を行く鳥,蝶々,とんぼの他は誰にも会わない。サモア人はわざわざ無駄な歩きの山登りなどはしないようだ。
 
  この山の裏側に谷を隔ててバエア山のもう一つの嶺がある。先のが生活のある側ならばこちらは観光の側だ。観光といっても訪れる人は1日に何人あるかないかだ。麓はロバート・ルイス・スティーブンソンの住んでいた邸で,その庭から登る頂上には彼の墓が建っている。海抜350メートルと書いた地図もある。登り口はいちおう木の階段があるが,すぐ岩とすべりやすい土と泥の道になる。
 
  ここではときどき観光客らしき白人に出会う。山道は険しく,原生林のままの大きな木々が倒れたまま,そこから芽を出し,新しい木をのばしている。羊歯の大きな葉が道にはみだしていたり,不思議な茸類が生えている。垂れ下がった幹がそのまま伸びて何本もの幹を伸ばし巨木になっているバンヤンの木。団扇のように根を拡げる板根をもつ木。自然林のままの森がそこにある。
 
板根の発達した樹木
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  「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」を書いたスティーブンソンは晩年の四年間をこのアピアの郊外の山ふところで過ごした。1850年生まれで1894年没の44年の短い生涯だった。エディンバラ生まれのスコットランド人で病弱だったから,サモアのあたたかい気候が彼の健康によかったのだろう。
 
スチブンソンの邸宅
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  スティーブンソンの館は美しい熱帯の花々が咲き,手入れされた莫大な芝生の庭をもつ,2階建ての木造のテラス付きの大きな家だ。内部は博物館になっており,彼の作品,愛読書,書斎机,ベッド調度品,食堂,客間と当時のヨーロッパの人々の趣味がそのまま伝わってくるものだ。サモアの地までよくぞ運んだものだと驚くほどの徹底ぶりである。母親,奥さんの部屋にはミシン,西洋風のドレスまで揃っている。
 
食堂の風景
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 スティーブンソンは若き頃,パリの芸術村で出会ったファニーオズボーンという11歳年上のアメリカ人の夫人と恋に落ちた。彼女には子ども2人がいたが,離婚して,アメリカまで追いかけてきたスティーブンソンと結婚。彼の38歳のときだ。そしてカリフォルニアで彼の数々の傑作が生まれたという。その当時南の島へのあこがれが欧米の人々に強く,植民地化したいという列国の欲望と相まって,ロマンと冒険の地,南太平洋の島々は脚光をあびていた。
 
治療室
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スティーブンソンも売れた本のおかげでヨットを買って,家族を伴い(年老いた母60歳も一緒に)タヒチやトンガ島の辺りまで取材旅行しては「南の島の物語」や日記,エッセイを多く発表した。彼の文章は夏目漱石が愛読したほど,無駄がなく言葉を操るのがうまかったという。中島 敦の「光と風と夢」はスティーブンソンの「南の島」を読んで,想像力で書かれたものだという。
 
応接室
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    スティーブンソンはサモアのバイリマというこの地域を自分の生涯の定住の場と決め住んだ。近くの酋長たちとも良い関係が結べて,ツシトラ(語り部)という別名をもらいサモアの伝説などを語り聞かせたそうだ。彼が亡くなったとき遺言どうり,バイリマ山の頂上に埋められることになり,熱帯雨林で覆われた山頂への道を多くの村人達が一晩で切り開いた。
 
スチブンソン博物館のベッドルーム
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 今でも歩きにくい山道を棺をかついで登ったのはどんなに大変であったろうか。彼が人々から愛された男だったことがよくわかる。
  山頂にはパンの木とマンゴーの木,芝生の丘に方形の柩が一つ置かれている。そこからはアピア湾がはるかに見え,南太平洋の海が木々の間からみえる。
 
 
 
 
 
「火事だ」と叫んだのは、サモアからアメリカン・サモアへ行く飛行機の中であった。15人乗りの小型プロペラ機であり、離陸直後に床から一斉に白い煙が客室にもくもくと充満してきたからである。他の乗客は平然として座っていた。
 
天井をみると、白い噴気がノズル穴から一斉に吹き出していたので、エアコンが壊れていると、とっさに分かった。しかし、それにしても室内の除湿装置が無いことには、まったく呆れるほかはなかった。小型飛行機は低空飛行しており、窓外の景色は大変素晴らしい。30分程度でアメリカン・サモアのタフナ空港に降り立った。
 
正式国名は、アメリカ領サモアであり、主島のツツイラ島の他に、アウヌウ島、マヌア諸島に属するオフ島、オロセガ島、タウ島、ローズ環礁およびスウエイン島の7島から成り立っている。全人口は7万人程度であり、その内80パーセントはツツイラ島に住んでいる。主たる産業は、マグロを缶詰にする企業、ココア、コブラ、バナナ、タロイモ等を栽培する農業、林業および酪農などがある。
 
アメリカ領サモアの歴史は、1899年までは西サモアとともに一つの国であった。しかし、サモア諸島における王位争いに内政干渉をしたアメリカ、ドイツ、イギリスの3国で行われたベルリン会議において、西経171度線を境に東側はアメリカ領となった。
 
その主たる理由は、1872年以降ツツイラ島にアメリカ海軍の太平洋地区における補給基地があったためである。それ以降、アメリカの海外領土として存在するが、サモア人に対して強い自治権を与えている。
 
クックス・クーム・ポイントと云われる景勝地
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ツツイラ島は火山島であり、標高653メートルのマタファオ山をはじめ5山がひしめき合っている。タフナ空港から東方ヘ、11キロメートル行くと、首都パゴパゴに到着する。この町は、天然の良好パゴ・パゴ・ハーバーが深く切れ込んだ所に有り、2009年の地震津波によって壊滅的に破壊された痕跡が痛々しく残されていた。
 
その途中にレインメーカー山があり、この山の頂上に雲がかかると必ず雨が降ると云われている。サマーセット・モームの「雨」に登場する山である。さらに奥に進むとクックス・クーム・ポイントという細長い島が海上にぎざぎざした櫛の歯のように並んでいるのを眺望することができる。
 
さて、アメリカン・サモアには、ファノ・シマサキ大酋長の屋敷内に日本人の漁師達の墓がある。その昔、山口県出身の島崎政一郎氏がサモアに居住したことが岩佐嘉親著「サモア史(上)」1970年の中に記述されている。彼は明治9年2月に出生しており、明治29年7月、20歳のときハワイのサトウキビ畑の労働者として出港している。
 
その後、サトウキビ農場を脱出し、コックおよび土木技術者として、サモア国のパゴ・パゴ軍港建設のため出航している。軍港建設後、パゴ・パゴでは、レストランやパン屋を開設し、大いに繁盛したという。1902年、26歳の時には村の大酋長ファノ・ツイの娘ソリーヌと結婚している。子供8人、孫41人に恵まれたという。
 
その後、妻のソリーヌガ大酋長となり、彼女の没後は次男のファノ・シマサキがその村の大酋長になったということが、秋田大助著「大酋長のルーツーボランティアの先駆者島崎政一郎伝」1978年に記述されている。1956年島崎政一郎は高血圧のため80歳で永眠している。
 
帰路の小型飛行機は、エンジントラブルのため別便に変更され、さらにその飛行機も油圧機器の不調のため機材変更となり、計4時間遅れて離陸し、サモアには深夜に到着するなどさんざんな目にあって帰国することができた。
 
パゴ・パゴ・ハーバー
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  食後、星の満天に瞬く空の下で村の人々や子供達と話す。たまたま帰省していた少年が火の踊りまで見せてくれた。夜はファレに白い蚊帳を吊ってもらい、風の音と波の音を聞きながら寝た。広いファレにはご主人と男の子達も寝ている。夜中に犬が入ってきたらしく、「ハル」(出て行け)という声が聞こえる。そういえば猫も隅に寝ている。
 
  翌朝、台所用ファレで朝の支度が始まっていたので見に行った。台所はウム料理用の場所と煮炊き用と別れてある。いずれも火を使うので、母屋から少し離れて建っている。折しも少年が椰子の実を割り、中の白い身を刃で削り取っている。
 
  削り取られた白い身は植物の繊維で作られた、たわし様のものに包み、ぎゅっと絞るとココナツミルクが抽出される。残りかすはぱらぱらと周りに捨てると、待ってましたと豚とにわとりが争って食べに来る。女性は湯を沸かしたり、果物を切ったりと調理に忙しそうだ。
 
  伝統的なウム料理は男性の仕事で女性は新しい料理やココアのお茶やデザートを作る。朝食は作りたてのココナツミルク入りのパパイアジュースとゆで卵、ココナツキャラメルジャムとトースト、ラーメンなど伝統と新式のミックスしたものだった。食後、私達は家族と別れ、漁から帰り、マーケットに魚を売りに行く漁船に便乗し、アピアに戻った。
 
朝食
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  アポリマ島での生活は平和で理想郷のように私達には見えた。人と自然がほどよく調和し、日本にあるような便利なものはないが、人々は満足して生活している。大家族のつながりと伝統、キリスト教が彼らの精神的な支えになっている。しかし、経済的にはサモアは破綻に近い状況だと云われている。農作物や魚類は微々たる収入にしかならない。
 
  一方外国製品の輸入は輸出の6倍にもなっている。賃金が安いので外国へ出稼ぎに行く人の数が人口の半分に近い。教育を受けた人の頭脳流出が深刻な社会問題になっている。外国からの援助と外国に暮らす家族の仕送りでなんとか帳尻を合わせているのが現実だ。この支えがいつまで続くか。
 
  現代の理想郷は自然のままにあるのではなかった。厳しいマタイ(酋長)制度がある。この小さい島にさえ、3人のマタイがおり、2,3ヶ月毎に会議を開き、村の様々な問題を討議している。大家族の結婚式や葬式のしきたりも伝統を守っていくマタイの大切な仕事だ。
 
  外国へ行っている人達も儀式の日には必ず帰って来るという。儀式のことをサモア語で「ファァ、ラベラベ」という。「気をかけねばならぬこと」、ひいては「やっかいごと」とも云い、現代では交通事故などの事故も同じ言葉が使われる。マタイの祈りのときの言葉の荘重なひびきは様々なやっかいごとを何とか片付けてきた人の苦労がにじみ出ていたのだ。
 
  伝統を守ることがサモアの発展を妨げているという意見もある。日本もかっては大家族で助け合ってくらしていた時代もあった。近代化に伴う都市化で人々は個人主義の自由を得た。同時に都会に住む根無し草のようなさみしさも味わっている。
 
  サモアの人々のおおらかさとやさしさは家族が助け合ってくらしている安心感から生まれてくるものであろう。一度失ったら戻すことができない家族の伝統、今のところサモアは、マタイの力をかりて、今のところよいバランスを保っているのであろう。
 
  南太平洋に浮かぶ小さな島、サモアの中の更に小さな島、アポリマ島でも人々はいそいそと働き工夫をしてくらしていた。と同時に現代の世界の情勢にも深く繋がっているのだと実感した。
 
タロイモ(千々岩壬氏提供)
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