2009年9月29日(火)成田着16時40分の飛行機でサモアから帰った。シニアボランティアは2年間の任期中一時帰国して、健康診断を受ける義務がある。税関を過ぎ、無事到着の電話を家族に入れ、新宿の都庁の近くのホテルに落着いた。
ビルの谷間から見える久しぶりの日本の夕焼けを楽しんだ。翌朝時差のため午前3時半ごろ目が覚め、テレビをつけたところ、「サモアに大地震!」の文字が飛び込んできた。
それからの驚天動地は皆様ご存じのところ。偶然にもサモア、トンガを襲った震度8.3の大地震の1日前にからくも帰ってきたことになった。皆様にも大変ご心配をかけ、また俳句会「檪」の“櫟祭り”では津波カンパにたくさんのご厚志をいただいた。深くお礼を申し上げます。
10月31日再び成田を発ち、地震1ヶ月後のサモアに到着した。大地震はサモアの2つの島のうち、ウポル島の南東部に大きな津波を引き起し、死者180名を出した。首都のある北側のアピアには大きな被害はなく、私の家もテレビの上の小さなだるまが床に転がっている変化があっただけだ。
しかし、友人から被災地の海岸の写真や救助に駆けつけた小学校の壊れた校舎や泥や瓦礫で埋った校庭の写真を見せて貰って、被害の凄さを知った。地震は朝7時頃に起こった。人々が朝の仕度をしたり、仕事や学校へ出かける頃だった。
ウポル島南部の海岸波浪
サイレンが鳴り、人々は山や高いところへ向かって逃げたそうだ。津波が来た海岸にはリゾート地が多く、私達も何度か泳ぎに訪れたところだ。絵にも描き、カレンダーにも載っているところだ。
津波は始め海水がぐっと引いて、水がからっぽになったように見え、その後突然大きな高波となり、押し寄せてきたそうだ。2度波が来て、2度目の波がとても大きくてさらわれた人々が多い。
当時の新聞を集めて読むと、津波後1週間は刻々と届く被災地、奇跡的に生還をした人の話や写真がくわしく載っている。2週間目からは各国の援助、日本の矢崎というトヨタの車の部品をつくるサモア一大きい会社の寄金や、サモア人が13万人住むというニュージーランドからの医療、救出に係る物品、機材の救援などに対する報告や感謝が目をひく。
日本と違うと思ったところは、なぜクリスチャンの国サモアにかくも大きな地震が起こったか、神は我々を見捨てられたのかという人々の意見があったことだ。ある村の村長は政府の役人でもあるが、サモアが神の掟を守らなくなったからだ。
被害を受けたリゾート地は聖なる日曜日にも営業をしていた、子供の権利ということが言われて、年長者の意見を聞かなくなったと。またある人は神の意志を測ることはできないが、これは神のメッセージだ。
環太平洋地震帯の連携でスマトラ沖の地震も同時に起こったが、サモア全土が壊滅しなかったのは神の恩寵だ、等々新聞の論説を含めて、人々がなぜ地震が起きたかを自然現象とだけに片づけず、神と結びつけて考えているところにサモア人の特徴があると思えた。
1ヶ月が過ぎ、私がしばらくぶりに学校へ行くとき乗る馴染みのタクシー会社に女性ドライバーが入っていた。1週間前から自分の車を使って始めたそうだ。聞くとアレイパタという被害が大きかった地でリゾート用ファレを持っていたそうだ。
水が怖いからもうあの地へは戻りたくない、夫はオーストラリアへ働きに行った、自分はしばらく知り合いのところで働いているのだと言った。サモアではタクシーはいつも音楽を鳴らして走っているのだが、拍子に合わせて体を揺すりながら話してくれた。
「また今度ね」と元気よく別れた。小学校の子供達も家が流された子は1人あったが、みんな元気で余震で何回か山へ向かって走ったことなど話してくれた。「日本では地震、雷、火事、親父」と言って、恐い物の順序を教えてやり、「でも最近は、親父は恐くないんだ」というと、「うちも恐くない」、「うちはやはり母よりこわい」等々と言い、やはりサモアも少しずつ変わってきているようだ。
照りつける太陽、カラフルな花々、ラバラバの人々、夕方には聞こえる教会の祈りの歌声等日常が戻ってくると、「おおこれがサモアだ」と思える。ゆったりとおおらかで、敬虔なクリスチャンの国サモアは健在で、津波の痛手も再建の意志をもって、新しく活動をはじめたところだ。
津波で押し流されたファレ