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聖母マリアの降臨

 
2009年9月16日、サモアのアピア市内のビルに聖母マリア様が降臨された。カトリック教会では、イエス・キリストの母マリアは、聖母マリアと呼ばれている。アピア市内のタマリギにあるジョン・ウイリアム・ビルの5階の庇の北面に一体、南面に一体の聖母マリア様に似た模様が浮かび上がり、像を一目見ようと早朝から敬虔なキリスト教信者が多数駆けつけていた。
 
各自真剣に祈りを捧げたり、涙を流したりしていた。その日は、一日中大勢の信者や見物客で一杯になり、海岸通りは交通渋滞を引き起こし、ごった返ししていた。ジョン・ウイリアム・ビルに勤める職員は、樋の漏水のために、庇に沈殿物がたまったのであろうとも言っていたが、キリストを抱いたマリア様にも似ているし、ペットボトルの形にも似ていた。
 
カトリック教会では、正教会にもプロテスタント教会にも無い独自の教理として、聖母マリアの無原罪の受胎や身体を伴った被昇天が信じられているようである。無原罪の受胎とは、聖母マリアは受胎した瞬間から原罪を逃れていたという考えである。
 
昔、アダムとイブがエデンの園で最初に犯した罪を原罪というが、この罪が人間の本性を変えてしまったために、人間は神の助けなしには克服しえない罪を持っている。従って、聖母マリアは、罪を総括した死およびその前兆である老いや病を免れたことになる。
 
そのために、聖母マリアは、有名なミケランジェロの絵画にあるように、常に若い慈愛のこもった美しい女性として描かれている。身体を伴った被昇天とは、聖母マリアは生涯の終わりに死ぬのではなく、身体とともに天に上げられたという意味である。そのため、聖母マリアは身体とともに未来永劫に生き続けることとなり、聖母マリア降臨を裏付けている。
 
カトリック教会が公認している聖母マリアの降臨は11件有り、アイルランド、イタリア、イスラエル、フランス、ベルギー、ポルトガルおよびメキシコなどで出現したとされている。その内容は、病者への励ましと慰め、永遠の平和と幸福への約束、飢餓の警告、核戦争による人類滅亡に対する警告などである。
 
キリスト教国家であるサモアの人々の反応は様々である。聖母マリアの警告や聖母への誓いがないがしろにされたときに出現するとして、懺悔する教徒や何か良からぬことが発生する兆候ではなかろうかと心配する人達もいた。
 
我々は、夕刻の18時から後輩学生たち6名がサモアへ来たことを祝って、拙宅でバーベキュウ大会を開催する予定であった。しかし、1時間経っても現れないので大変心配していた。
 
彼らは、実は、聖母マリアの降臨のため交通渋滞していたことと、降臨像の写真撮影に時間を取られていたようであった。ようやく7時半になって彼らがやってきたので、歓迎会を開催することができた。彼らは、宴もたけなわになり、サモアに将来何が起こるかについては、皆目検討も付かないような顔をしていた。
 
 
イメージ 1
 
聖母マリア様がご降臨になってから、2週間後の9月29日午前6時50分に、サモアの南方の海底に、マグニチュード6.5の大変大きな地震が発生し、ウポル島南海岸は大津波による大災害が発生した。
 
南海岸には多くの有名な海水浴場があり、1年を通して日曜日には多くの観光客が海水浴場に遊びに来ていた。キリスト教の教えでは、日曜日は安息日として、働いてはならないとされている。それにも拘わらず、日曜日に営業活動をすることは、聖母マリアへの誓いを破った行為と見なされたのであろうか。そのように解釈するキリスト教徒が多いのもサモアの国情である。
 
地球温暖化現象または炭酸ガス増加によって、自然災害が多発するようになった今日、またしてもどこかの国に聖母マリアが降臨して、人為的な温暖化防止のための警告を発することになるかも知れない。

タファタファ海岸

 
ウポル島の秘境のビーチを探して、我々は、計11名でタファタファ海岸を目指した。9月13日の日曜日、午前9時30分事務所を車2台で出発した。この海岸は、ウポル島の南海岸にあり、クロス・アイランド・ロードを南下して、メイン・サウス・コースト・ロードと交わる地点で東方向に左折し、10キロメートルほど進むと案内板があり、そこを右折して到着した。
 
アピアは快晴であったが、クロス・アイランド・ロードの峠付近は小雨であった。峠を越えたところに有名なパパパパイ・ウタ(別名ティアビ)の滝が有り、滝の正面から見える見晴らしの良い展望台で小休止した。
 
この滝は、フィアモエ山山頂の水源地帯から流れ出すもので、60メートル以上の断崖絶壁を一気に谷底まで流れ落ちている。雨季には、豊富な水量となり迫力満点の圧巻ものである。この川は、タフィトアラ水系に属しており、将来の水力発電の重要な開発候補地となっている。
 
 
ヨットでセイリングを楽しむパラギ
イメージ 1
 
タファタファ海岸には午前11時頃到着した。天気は快晴で、何よりの海水浴日和であった。まず、大きなファレに集合し、各自持ち寄った弁当を開けて昼食を取ることにした。おにぎり、寿司、野菜サラダ、マグロの煮付け、麦茶など楽しく頂いた。
 
このファレは最近建てられたもので、10畳敷きの大きな収容力を持っている。柱もしっかり建てられ、屋根はトタン屋根になっていた。椰子の葉っぱで葺いた古いファレとは趣向を異にしていた。これらのファレは10数棟あったが、そのオーナーはニュージーランドの病院を退職した未亡人であった。
 
彼女の夫はニュージーランドの大工であり、退職後にサモアのこの村に戻り、自分一人でこつこつとファレを建てた後、亡くなってしまった。そのために、これらのファレは、民宿を経営するこの未亡人の唯一の財産となった。
 
浜辺のごく近いところに、黒っぽい色をしたサンゴ礁があり、色々な種類の魚が泳いでいた。各自たっぷり時間を掛けて、スノーケリングを楽しんだ。この浜辺は誰一人いなくて、我々で景色を独占することができた。
 
写真に見るように、美しい海岸線であり、白い砂の浜辺が広範囲に広がっていた。まさに秘境のビーチであった。サモアの海岸では、黒色の溶岩が卓越しており、岩場の海岸が圧倒的に多い。黒色の砂浜海岸が多いなかで、白い砂の海岸はきわめて少ない。
 
遠くに目をやると、写真にあるように、カラフルなヨットで海上をセイリングして楽しんでいるパラギの連中がいた。また凧を使って水上スキーを楽しんでいる人もいた。この海水浴場では、シャワー・トイレの整備が良くなされていた。我々は、日没前までゆっくりとすごしてから帰途についた。
 
なお、この村は、その後2週間先に発生したサモア大津波災害に晒された。先ほどのファレのオーナーである未亡人は、丁度そのとき宿泊していた人の車に乗せてもらって1キロメートルほど先にある国道のメイン・サウス・コースト・ロードまで間一髪で逃げ切ることができた。
 
また、津波が引いた後、村に帰ってみると、椰子の葉っぱで葺いた重たい屋根である古いタイプのファレは跡形も亡くなっていたが、夫の新築したトタン屋根のファレはすべて無傷で残っていたようである。
 
まさか彼は、津波対策用に設計したとは思えないが、実はすばらしい建築家であったのかもしれない。壁のない軽い屋根構造は、風だけでなく海水の通しもよく、安全な建築様式であることが実証された訳である。
 
タファタファ海岸
イメージ 2
 

ナムア島

 
週末の9月5日、我々は1泊2日で、ナムア島を訪問することとなった。この島はウポル島の東端にあり、マラエラから約20分で渡海することができる。前日に買い物を済ませておき、5日朝事務所を午前9時30分に出発した。アピアの天候はすぐれなかったが、東方向に進むに従って順調に回復し、マラエラの渡し船の船着き場に着く頃には、すっかり晴れ渡っていた。
 
渡し船は、写真に見るような船外機を付けた小さな漁船であり、2回に分乗して行くと思っていると、何と一度に荷物と全員12名を詰め込んでしまった。船体は重くなり、また干潮時でもあったので、舟底が海底に着いてしまった。
 
船頭2人が水に入り、しばらく底を引きずりながら、船外機が底に当たらない深さにまで曳航して行った。ナムア島まで比較的遠浅であり、海底がはっきり見えていたのでそれ程心配はしなかった。
 
  しかし、先月8月5日、トンガ沖でフェリーが沈没し、行方不明者93人が出たこと、さらに我々の仲間である70歳の船舶技師がそこに含まれていたことなどが我々の頭をよぎった。水深110メートルの海底で船体は確認されたが、水深50メートル以上の捜索が難航しているとのことである。
 
  フェリーのプリンセス・アシカ号は乗客149名を乗せて首都ヌクアロファを出港し、ハーフェバに向かう途中の北東約80キロメートルで沈没した。53名が救助され、2名の死亡が確認された。
 
  この事故を思い出すとき、舟の安全性には常に警戒しておかねばならないことを肝に命じなければならない。この日は波浪おだやかであり、渡し舟はゆっくりと進行していったので安心した。
 
ナムア島の遠景
イメージ 1
 
 舟が、写真に見るような美しいナムア島に近づくと、2匹の犬が海水に入り我々を出迎えてくれた。島の一部には砂浜があり、ビーチファレが10戸とオーナーの家族と従業員用のファレがある。その他は無人島状態であり、密林に囲まれ、島を周遊する道はなく、勿論電気も来ていない。
 
  昼食は、各自持ち込んだおにぎり、果物の他、バーベキュウマグロを塩コショウで焼いて食べた。マグロは今朝魚市場で買ってきたので、大変新鮮で美味しかった。その他、伊勢エビ5匹を2つ割りにして、ココナツの殻から作った炭火で焼いた。
 
  次に出たのは、Tボーン付き牛肉とサモア産牛肉の2種類の焼き肉を味わったが、輸入牛の方が柔らかくて美味しかった。さらにニュージーランドから輸入したムール貝を焼き、手製のたれを使って味付けし、夕食のために保管した。
 
  バーベキュウを楽しんだ後は、一服し、海水浴を楽しんだ。一面のサンゴ礁があり、その間を沢山の熱帯魚が泳いでおり、スノーケリングをしながら楽しむことができた。とくに、水中カメラで沢山の熱帯魚を撮影するのに夢中になっていた。
 
  夕食の合図は、鐘を叩いてお客を集めていた、食事は、魚の天ぷら、鶏の唐揚げ、タロイモ、ソーセージ、野菜サラダ、ビール、ワインとご飯、それに釣った刺身とムール貝を焼いたものであり、質量共に満足できるものであった。
 
  夕刻に入り、電気は点かないので、キャンドルサービスとなり、夜遅くまで歌を詠って楽しい宴会となった。それぞれ、4棟のファレに分散し蚊帳を吊って寝た。しかし、波の音と激しい風の音で十分な睡眠を取ることはできなかった。
 
  7時半、朝食が始まった。卵焼き、ゆで卵、パパイヤ、パン、茄子の揚げたもの、ランチョンミートとタマネギ、サモアンココアと豊富で美味しい食事であった。
 
  朝食後は風雨が強くなり、海上の波浪も荒々しくなった。風が弱くなった午前11時、定員オーバーのため、いつ転覆してもおかしくない状態で出港した。
 
  転覆しても浅瀬であるので、何とか泳ぎ着けるという覚悟で乗船し、工事用ブルーシートを頭からすっぽりとかぶり、まるでボートピープルの心境であった。無事マラエラへ到着し、その後はアピアまで快適なドライブであった。
 
船外機付き漁船
イメージ 2
 

バエア山

  
  アピア市内から空を見上げるとバエア山が聳え立っている。標高は470メートル程度であり、京都の大文字山とほぼ同じ高さである。写真に見るように緑の木々で被われた美しい山である。
 
 C氏は、猛暑の日でも、土砂降りの日も欠かさず毎週週末にはトレーニングのため熱心に登山を続けている。彼は、サモア最高峰であるサバイィ島にある標高1,858メートルのシリシリ山、ウポル島の最も高い山である標高1,160メートルのフィト山にも登っている。また、富士山には80回以上登山し、さらに、世界の山では、標高5,950メートルのキリマンジャロにも登った経験の持ち主である。
 
  我々も数回バエア山には登ったことがある。70歳前後の初老にはややきつめの登山ではあるが、頂上にある写真のラジオポストまで登り切った達成感は素晴らしい。登山口は、バイテレ・ストリートのツフィオーパに有り、途中では、アピア港の美しい光景を楽しみながら、コースの3分の2まで楽しいハイキングをすることができる。
 
  最後の3分の1は、熱帯性密林の中をくねくねと七曲がりする山道を、難行苦行をしながら頂上まで登り詰めるコースである。山頂までゆっくり歩いて2時間程度である。
 
  山頂からの下りに要する時間は、1時間程度である。ある日、牧場の近くを歩いていると、前方の崖地から大きな肉牛が2頭駆け上がってきて、道を塞いでしまった。我々は、牛の生態をよく知らないので、しばらく様子を見ていた、牛たちもこちらをジッと見て警戒しているらしい。
 
  およそ20分もすると草をはみ出したので、その横を通過しようとした。そのとき突然こちらを振り向いて来たが、攻撃する様子もなかったので、静かに通りすぎることができた。我々との間隔は1メートル前後であった。この登山道では、野犬はよく出没するので、撃退する棒きれをもっていたが、牛には通用しない。
 
アピア湾よりのバエア山
イメージ 1
 
もう一つの登山道は、アピアから4キロメートルほど行ったところにあるロバート・ルイス・スチブンソン博物館から山頂近くにあるスチブンソンの墓までのコースである。サモアでは「ツシタラ」として有名な小説家スチブンソンが、健康のため、最後の4年間を過ごしたバイリマ村には、広大な敷地に建つコロニアル風の2階建ての美しい住居が建っている。
 
入口の門から邸宅へ続く並木道は、英国調の庭園の雰囲気が漂い、鳥のさえずりが心地よい。ここから西方向に10分ほど平坦な道を歩き、バイリマ川の小さな小川を渡って、5分も登ると、山頂へ行く木道が2本に分かれている。所要時間35分の健脚コースと45分の普通コースに別れる。我々は、普通コースを歩いて、途中サモアの黒トカゲを見ながら、熱帯樹林帯をトレッキングした。すっかり気分爽快となり、森林浴を十分に満喫した。
 
山頂近くの見晴らしの良い丘にたどり着くと、そこには白い家の形をしたスチブンソンと彼の妻のファニーのがアピア港を見下ろすように佇んでいた。彼の墓標には、彼の生前の意思に従って、次のような詩文が刻まれていた。
 
広大な星の輝ける空の下に墓を掘って我を埋めたまえ、我楽しく生き、喜んで死す、・・・・・、海の水夫、丘のハンターとなりて・・・・・・
 
スチブンソンは、1894年12月に亡くなったが、その後バイリマ村は、ドイツの富豪である博愛主義者、続いてニュージーランド政府に統治されていたが、1962二年サモア独立後は、サモア政府に所属した。彼の100年紀の1994年には、R・L・スチブンソン博物館として公開された。
 
博物館には、当時のオルガン、喫煙室、暖炉、食堂、図書室、3寝室、および治療室などがあり、小1時間で1回りすることができる。
 
このように、バエア山は、サモア諸島が3,000年前から南東アジアからの移民達を受け入れ、1899年にはドイツの植民地となり、世界第1・2次戦争後にはニュージーランドによって委任統治および管理され、ようやく1962年独立し、その後今日に至るまでの悠久の歴史を見つめてきたのである。
 
バエア山の頂上にあるラジオポスト
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スコットランドの小説家、詩人、エッセイストおよび旅行作家であるロバート・ルイス・スチブンソンは、1850年11月スコットランドのエジンバラで生まれ、1894年12月、44歳でサモア独立国のバイリマで亡くなった。
 
父の名は、トマス・スチブンソン、母の名はマーガレット・イサベラ・バルフォアである。彼は、幼少の頃から肺の病気に掛かり、温暖な地域への転地が必要であった。11歳頃までよく風邪を引いていた。彼は風邪のため、たびたび学校を休んでいたために、家庭教師について長期間勉強を続けていた。
 
彼は、読書家であり、また物を書くのが好きであった。16歳のとき、最初の本を出版している。彼は、17歳になると、工学技術を学ぶためエジンバラ大学に入学した。しかし、工学より文学が好きだということで、21歳のときに文筆家になる決断をした。
 
彼は、大人になっても、たびたび風邪引きの症状を繰り返していたので、すっかりやせ細ってしまった。その当時、彼は肺結核と診断されたが、実は気管支炎であった。
 
23歳のとき、風邪の症状が激しくなり、フランスへ転地療養に行った。その後、たびたびフランスに行く機会に恵まれ、彼は旅行作家を目指した。25歳になるとスコットランドの弁護士となったが、滅多に法律の仕事をすることはなかった。もっぱら全エネルギーを投じて旅行と執筆活動に専念していた。
 
ある日、友人とベルギーとフランスをカヌーで旅行しているとき、10歳年上の女性ファニー・バンデグリフ・オスボーンに出会った。米国インディアナポリス生まれの彼女は、3人の子持ちであった。17歳のとき結婚し、カリフォルニアに居住したが、夫の不倫のため、たびたび別居生活をしていた。35歳のとき、子供を連れてフランスへ移住した。
 
ロバート・ルイス・スチブンソンの邸宅
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彼女37歳のとき、スチブンソンと再会して以来恋仲となり、数年間、子供達と一緒に彼とフランスで暮らした。しかし、彼女は1年後、米国サンフランシスコへ帰ってしまった。
 
スチブンソンは執筆活動のためにしばらくヨーロッパに滞在したが、その翌年、彼女に求婚するため、2等の蒸気船で渡米し、ニューヨークからサンフランシスコまで鉄道で旅をした。節約旅行とはいえ、長旅ですっかり身体を壊し、殆ど死にかけていた。
 
すでに離婚していた彼女は、スチブンソンのベッドの側で看病を続けた。その間。彼の父親は軍資金を送っていた。
 
健康が回復し、スチブンソン30歳、ファニー40歳のとき、めでたく結婚することができた。新婚旅行はサンフランシスコ北方のナパ渓谷で、夏の休暇を楽しんだ。その後の7年間は、ヨーロッパと米国の間を、保養地を求めて転々としていた。
 
スチブンソン38歳のとき、健康のための新転地を求めて、家族とともにサンフランシスコから帆船をチャーターし、ハワイ、タヒチ、ニュージーランドおよび南太平洋の諸国を約3カ年に渡って放浪した。
 
その当時、1887〜1889年の間は「サモア危機」と呼ばれており、米国、ドイツおよび英国が、サモア市民戦争の間、サモア諸島を統治する問題で対決していた。
 
1890年、スチブンソン40歳のとき、オーストラリアのシドニーを出発してサモアの上陸し、1.6平方キロメートルの土地を購入した。ウポル島のバイリマ村において、コロニアルスタイルの2階建ての邸宅を建て、執筆活動に励んだ。彼はサモアでは大変有名になり、多くの人々に愛されていた。
 
バエア山の花(千々岩壬氏提供)
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1894年12月3日、彼はいつものように一生懸命に働いた。その晩、妻との会話中に、ワインボトルを開けようとしたとき、突然妻の横に倒れ、2〜3時間後に脳出血で亡くなった。彼の遺体は、バエア山の山頂近くの海の見える丘に埋葬された。
彼の著書は数多く発刊され、とくに「宝島」、「ジキル博士とハイド氏」などが有名である。
 
 
 

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