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海難1890(エルトゥールル号遭難事件) エルトゥールル号遭難事件 海難1890明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。 翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。 明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。 やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。 この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。 地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、69名が救助された。 この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられました。 更なる治療を受けるため69名の生存者は神戸に移送され、明治天皇は彼らのために侍医を派遣、皇后陛下は看護婦13名を神戸に遣わされ、彼らに白衣を賜いました。 69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、比叡、金剛の2隻の軍艦により帰国の途につき、翌明治24年1月2日、無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。 |

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