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八ヶ岳ミュージックセミナーの最終日は、西村朗氏のレクチャーでした。
さすがに大学の先生なので、とてもお話が上手で(当たり前だ!)、わかりやすくまとめられていました。こんなに音大のような講義は久々で楽しく拝聴させていただきました。
西村氏によると、20世紀の現代音楽史において、1952年というのは特別な年であったとされます。この年、ブーレーズによる12音セリーと、ジョン・ケージの「4分33秒」が登場しました。12音セリーは音を完全に構造化したもの、「4分33秒」は何もしないことを突き詰めたもので、ここに音楽の歴史は両極端の頂点を極めたわけです。
思えば、「4分33秒」はデュシャンの「泉」(便器)にも似て、音楽界やコンサート会場に対する強力なアンチテーゼであったわけですが、「泉」が1917だったことに比べると、音楽は35年も遅れて極北に至ったことになり、案外遅かったのだなと思わせられます。
そして私が最も興味があるのは、このデュシャンの「泉」以後、音楽ではブーレーズとケージ以降の音楽のあり方で、今後音楽がどの方向に向かうか、あるいは私たちがどのような音楽をつくっていくか、ということが最も重要だと考えています。
西村氏のレクチャーでは、ブーレーズとケージ以後、音楽史はむしろ後退しており、まだ試みられていないことの穴埋めのようなことが行なわれているとのこと。
音楽史はシュトックハウゼンのような頭脳的な相対主義と、自己の主観的な音楽のみを追求する絶対主義に分けられるとします。
この説明は一見わかりやすいですが、シュトックハウゼンが相対主義というのはちょっと不思議なとらえ方で、普遍的とか、客観的と言った方がよいのではないかと思います。
音楽を自分の主観的な感性から離れて、ひたすらに普遍的なものに還元していくと、それは自然の音響になったり、宇宙の響きとなっていくでしょう。自然の法則を数学や物理学の理論であらわしたものを音に変換する手法があり、渋谷慶一朗の第三項音楽もこの系譜に連なることになります。
一方、自己の音楽的感性をもとにした音楽を作るためには音楽の才能が必要となり、エクリチュール(書式)を身につけなければならないとの西村氏のお話では、三善晃もこちらサイドになります。いかに現代音楽といえでも、人間の感性に訴えかけ、心に感動を与えなければならないとする人々が多いことも事実です。
音楽学校でエクリチュールを学ぶことは、作曲をするうえで有用なことなのでしょうけれど、いちど身につけたものは、なかなかそこから脱却することができないというジレンマにもなるのではないでしょうか。現代舞踊の方の多くが、同じような動きをしてしまうのと似ているように思います。
現代音楽の方向性を「客観的・普遍性」と「主観的・音楽性」とに分けたとして、どちらか一方のみを支持する人は別として、生身の人間として感性と思考を持つ私たちは、この両者のあいだをさまよう、あるいは両者を併せ持つ場合が多いのではないでしょうか。
つきつめて考えれば、「客観的・普遍性」が極まることと、「主観的・音楽性」が極まることは、結局は同じものに至るのではないかと思います。一方の穴を掘り続けていけば、いずれはもう一方の穴に到達してしまうということでしょう。
つまり、「客観的・普遍性」と「主観的・音楽性」を統合することこそが、私たちの目指している音楽なのではないかと・・・考えているうちに、そんなことがわかってきました。
今後の音楽の方向性について、西村氏や新実氏とお話ししてみたいと思っていました。残念ながらそのような時間はとれなかったのですが、思うに、作曲家の方というのは、ご自身の作品で、ご自分の考えを表明していらっしゃるわけですから、これからの両氏の作品を聴かせていただくのが一番なのかなあと思います。
4日間のセミナーの間、都会から離れて、いつもの雑用や生活のルーチンから解放されて、違った環境の中に放り込まれているからなのか・・・みんなの中に心の変化や、濃密な感情が生まれる人もいて、かなり涙を流す人や、もらい泣きをする人や、中には人生の転機を迎える人など、さまざまな人間模様が織りなされていたのでした。たしかに歌っている時はみな同じ、音楽好き人間であっても、それぞれの個人としてはいろいろな事情を抱え、苦労や悩みもあるでしょう。
それでもなお、音楽は私たちの精神を明るく引き上げてくれるもの・・・私はそう信じています。
セミナーを支えて下さったスタッフの皆様にも本当にありがたく、感謝しています。ご協力下さいました川上村の皆様、差し入れの野菜を下さった東信合唱連盟の皆様など、本当にありがとうございました!
さあまた今日から、音楽を続けましょう!
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