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〜魚眼で見る 天野山 金剛寺 南朝 御在所 魔尼院〜
〜Look in a fisheye Amanosan Kongoji :The eyes from over the top (2013年7月28日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/南北朝編(1)
観心寺:楠木正儀と後村上天皇→楠木正儀と後村上天皇の思い
平安時代〜南北朝時代の流れ 概論→天野山 金剛寺 南朝 御在所
南朝二代の天皇VS足利尊氏 概論→住吉大社の外観と南北朝の話
後醍醐天皇と後村上天皇ゆかりの地→堀家住宅:賀名生皇居跡
なぜ南朝は住吉行宮に?→住吉行宮跡:後村上天皇の夢の跡
今回は私が学生時代に特に苦手にしていた日本史について端的かつ的確に語らなければなりません。
誤った記述がありましたら、遠慮無くご指摘下さい。
天皇や上皇が政権を握っていた平安時代の末期に、保元の乱で後白河上皇に味方して信頼を得、その後の藤原 通憲( ふじわら の みちのり)こと信西と藤原信頼・二条親政派の対立から起きた平治の乱では、反信西派を一掃することで急速に勢力を拡大した平清盛から始る平家を滅ぼし、初めて武士が政権を握ったのが、源頼朝が開いた鎌倉時代の鎌倉幕府です。
幕府は、源頼朝の死後直系の血筋も途絶えることとなり、頼朝の正室 北条政子が源氏の血筋を引く藤原頼経の後見となって幕政の実権を握った4代将軍以降は藤原家や宮家から名目上の将軍を立て、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制で続いていました(執権政治)。
ところが、文永11年(1274)と弘安4年(1281)の元寇は若き執権北条時宗(1251-1284)の力で乗り切りますが、その時宗が34歳の若さでこの世を去ると元寇のため幕府の財政が極端に悪化したこともあり、幕府の支配体制にゆるみが出てきます。一方、天皇家においても後嵯峨天皇のあとの天皇家の血筋が持明院統と大覚寺統とに分裂し、両派対立する中、双方から一代おきに天皇を出しましょうなどという変則的な体制が成立します。その後、足利尊氏の寝返りと新田義貞の挙兵により鎌倉幕府が滅びます。
するとこんどは二派に分かれていた天皇は、それぞれの正当性を主張します。これが南北朝時代です。
ここまではなんとなくご理解出来たでしょうか?(実は私自身も危ういものですが)
この南北超時代に大きく関わっているのが、天野山 金剛寺なのです。
今回ご紹介するのは南朝 御在所 魔尼院ですが、天野山 金剛寺には北朝 御在所も存在します。
先に〜魚眼で見る 天野山 金剛寺(大阪府河内長野市)(2013年7月28日)〜や
日本史のお話の続きです(注:鎌倉幕府が滅びる上記記述に一部重複します)。
【以下は歴史に興味のある方のみお読み下さい。】 とにかくややこしくて!
1333年(元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に鎌倉幕府を討幕せよとの綸旨を発し、これに応えた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまったのですが、政局の混乱が続き、恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることはできませんでした。中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏がそのまま新政から離反(上記した裏切り行為)すると、不満を抱えた武士たちの多くが足利尊氏に従いました。これに激怒した後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じます。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いでは敗北し足利尊氏らはいったん京都へ入るものの、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり駆逐されます。足利尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征します。迎え撃つ宮方は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ、比叡山に篭りました。足利尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で建武式目を制定して、施政方針を定め正式に室町幕府を開いたのです。
後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物(偽物のこと)であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣します。これが南北朝時代です。
足利尊氏は北朝方として九州から光厳上皇を御旗に掲げて東征したおり、迎えうった後醍醐天皇の南朝方の北畠顕家・新田義貞らが次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立ち、四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行らの兄弟が足利方に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、ここに至って衰勢は足利尊氏の北朝方に決していましたが、弟直義との間に内紛がおこり、足利尊氏は 敵対関係にあった後醍醐天皇の南朝方と一旦和解を申し入れざるを得なかったのです。
そのため正平9年(1354)3月、北朝の三上皇(光厳、光明、崇高)が足利尊氏により
ここ 天野山 金剛寺 に幽閉されました。
こうした情勢を受けて同年10月には南朝の後村上天皇が天野山 金剛寺に来山し、摩尼院を御在所とされる一方、食堂を正殿として大政を執った。 (今回ご紹介しているのはココですよ。)↑
この4年後に足利氏の内紛が収まり、足利尊氏は再び北朝方につき、 結果、北朝の三上皇が京に戻られ、またその2年後に南朝の後村上天皇は観心寺に移られましたが、4年(内紛が収まるまで)も、敵対関係にあった南北朝が、ご紹介している天野山 金剛寺に同舟していたこととなり、真に希有な歴史が天野山 金剛寺には刻まれていると、天野山金剛寺には記されています。
【足利尊氏とその弟足利直義との内紛の詳細】 大阪市住吉区の住吉大社にも関係
ウィキペディアの南北朝時代 (日本)の記載 応の擾乱と南朝勢力の衰微載より
尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮とする。
1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏。年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。
このため北朝方の足利尊氏は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。
南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆する。1339年(延元4年/暦応2年)に後醍醐天皇が崩御すると親房が南朝の指導的人物となるが、親房が1354年(正平9年/文和3年)に死去すると南朝はまた衰微する。幕府内での抗争で失脚した細川清氏が楠木正儀らと南朝に帰順して一時は京都を占拠するものの1367年(正平22年/貞治6年)に敗れ、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなり、足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども帰服する。義詮の死後は、足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀(正成の子)を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。
南朝方と北朝方の攻防はとても複雑ですね。〜住吉大社の外観(2013年8月14)〜に両者の攻防をもう一度まとめ直しています。
南朝 御在所 魔尼院 但し書き
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
南朝 御在所 魔尼院の門
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28
人目線
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
高さ6mの位置から撮影
南朝 御在所 魔尼院の境内
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
高さ8mの位置から撮影
画面の左奥に壇上の改修現場が見えます。
次回をもって今回の天野山 金剛寺の取材は終了です。
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