|
〜住吉大社の外観と南北朝の話(2013年8月14)〜
〜 Sumiyoshi Taisha Shrine: .(2013.8.14)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/住吉大社編(2)and南北朝編(2)
私が8月14日にこの住吉大社を訪れようとした理由は、〜魚眼で見る 天野山 金剛寺 南朝 御在所 魔尼院〜の取材に端を発します。
上記の天野山 金剛寺 魔尼院についての記述の中でご紹介したように、足利尊氏は南北朝時代には北朝に組し、後醍醐天皇が南朝の御在所とした吉野行宮を焼き払うなど、南朝方にほぼ勝利していました。そのおり、後醍醐天皇の子 後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)へ逃れます。
ところが、、南朝方についた足利尊氏の弟との間に内紛が勃発したことで、この時期の勢力図は、足利尊氏の鎌倉・尊氏の弟の足利直義と北朝の京・後村上天皇の南朝(賀名生)という3つの勢力の覇権争いになります。そこで足利尊氏は、弟 直義に対抗するために南朝方に一旦降伏すると、翌年には南朝方の武士(楠木正成・新田義貞など)が京に攻め入り、上洛、その時 直義に変わって京を治めていた足利義詮は近江に逃れ死去します。
ところが足利氏の内紛が治まると再び京に攻勢をかけ、南朝方は京から追いやられ、後村上天皇は再び賀名生に逃げ戻ります。その際に南朝方は北朝の三人の上皇を連れ去り、男山での立てこもりと賀名生への逃げ帰りを経て天野山 金剛寺に幽閉し、後村上天皇もすぐにこのお寺に来山しました。結果、後村上天皇は天野山 金剛寺 魔尼院を南朝の御在所とし、北朝は天野山 金剛寺 観蔵院に在することになります。敵対関係にあった南北朝は約4年間、天野山 金剛寺に同舟することになったのです。その後足利氏の勢力が更に拡大すると北朝は京へもどり、その2年後に南朝の後村上天皇は観心寺に移られました。幕府軍はその後も河内に大攻勢をかけますが長続きはしませんでした。しかし、南朝内にも内紛が起こり、これを逃れた南朝の後村上天皇は今回ご紹介する住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮としました。
追加説明:行宮=御在所です。
つまり住吉大社は南北朝時代末の一時期には、南朝にかかわりがあり、住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)の跡は、住吉大社から約300メートル南の所(現在の住吉区墨江2丁目)にあるそうです。
結局、後村上天皇は住之江殿(正印殿)で約8年間過ごされ、1368年3月、41歳でこの地で崩御されたそうです。
以上の史実に基づき、住吉大社に訪れたのですが、住之江殿(正印殿)跡の存在については、このページを記すにあたって調べを進めたことで、今知ったばかりです。
もちろん、近い内に住之江殿(正印殿)跡に訪れなければならないと思ったことは、言うまでもありませんが、今回は住吉大社のご紹介のみにてご容赦下さい。
住吉大社 桃山の大鳥居を望む
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
住吉大社 絵馬堂と太鼓橋を望む
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
絵馬堂は、一の鳥居側から太鼓橋を見て、左右に絵馬堂があります。
住吉大社 (北側の)絵馬堂
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1 住吉大社 一の鳥居の右側(南側)にある鳥居
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
住吉大社 一の鳥居の右側(南側)にある鳥居と狛犬と石灯籠
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
住吉大社 一の鳥居の左側(北側)にある鳥居前の狛犬
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28+VCL-ECF1
次回につづく。 |
全体表示
[ リスト ]





