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〜住吉大社にある川端康成文学碑・歌碑・句碑(2013.8.26)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/住吉大社編(9)
大社前は海だった?結論→浜口萬目地蔵 神と伝承について→幸壽門より境内へ
南北朝とのかかわり→外観と南北朝の話
太鼓橋(反橋)について→太鼓橋(反橋)
神馬について→住吉大社の神馬
住吉大社とチンチン電車→ チンチン電車
川端康成文学碑→文学碑・歌碑・句碑 住吉大社での取材で本当なら最も言及したくないものが今回紹介する文学碑・歌碑・句碑についてです。
ところが、〜住吉大社:太鼓橋(反橋)(2013年8月14)〜では、反橋が川端康成の短編小説の舞台になった場所であり、その文学碑があることに触れました。また、〜魚眼で見る住吉大社:幸壽門より境内へ(2013.8.14)〜では、「住吉大神は和歌の神ともされ・・・。」とご紹介しました。
つまり、文学碑や歌碑についてのお話は避けられないとも言えます。
でも私にはさっぱりわかりません。
仕方ないので『住吉大社 歌碑 句碑』と『川端康成 反橋 あらすじ』で永遠検索してみましたが、私だけじゃないですね、文学について語れないのは。結局ほぼ何も解らずです。
でもこのままでは終われません。
川端康成は大阪出身のノーベル文学賞作家だと言うことは多くの方が知るところでしょうね。
大阪天満宮の正門斜向いにある料亭「相生楼」の門前に『川端康成生誕之地』と 記された石碑があるそうです。
さて問題の住吉大社に関わる短編小説の『反橋』はちょと置いといて、私たち凡人にもなじみのある作品と言えば、『伊豆の踊子』と『雪国』です。私はまず山口百恵を思い出しますが、2つの作品は中学の時に読んでいます。青春時代に読むにはふさわしい作品ですね。
川端康成は1899年生まれ、、『伊豆の踊子』の発表は1926年で27歳の時の作品、『雪国』の発表は1935年で、36歳の時の作品です。
対して『反橋』は1948年に発表、49歳の作品です。その後1961年(62歳)に『古都』執筆に取りかかり、1968年(69歳)でノーベル賞受賞、1972(73歳)年に死去、仕事場のマンションでガス管を加えての自殺と報じられています。
『反橋』は この発表の翌年に発表の『しぐれ』『住吉』と合わせて三連作とされていて、幼少期の母への思いが込められた作品のようです。
普通に考えれば『反橋』は 働き盛りの油の乗りきった時期の作品なのですが、文学者は内面にこもって執筆を続けるのでそうなるのでしょうが、晩年の作品のように思えます。
康成は開業医の家の長男として生まれましたが、2歳で父栄吉、結核で死去。3歳の時に母ゲンが結核で死去していますので、私などは記憶も定かでない年頃の記憶を『反橋』や『しぐれ』『住吉』に託したことになるのでしょうか?
幼心に焼き付いた母の記憶は美しく、優しく、でも病気がちで、母に抱かれて反り橋を渡った時の温もり、幸福感、その小さな幸せが長く続かないことを彼は予感していたのでしょうか?
文学碑に刻まれた『反橋』の一説、「反り橋はあがるよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。」
康成にとって母に抱かれて反橋を渡った正にその時が、人生における幸せの絶頂であり、それは、丸い太鼓の外縁のような橋の最も高い場所だったということを象徴する文章なのだと私は思いました。
その後7歳で祖母カネ死去、15歳で祖父死去。大阪市の母の実家に引き取られるが、通学のため茨木中学校の寄宿舎に入ったそうで、彼の不幸と言うより私がいかに幸福かを感じます。
文学史上最も美しい文章を書くと評される彼の生い立ちは悲しく、そのことが尚更彼の作品を際だたせるのでしょう。
話が湿っぽくなってしまいましたが、『反橋』の文学碑以外にも、住吉大社には歌の神にふさわしく、歌碑や句碑がゴロゴロしています。
眼に入った石碑はみな撮影したので、紹介しておきますが、私にはさっぱり解りませんので、あしからず。
それと、チンチン電車の走る道路と南海高野線を夾んで住吉大社に隣接する住吉公園の向こうには、松尾芭蕉の句碑もあるそうです。
この日私はその辺りもうろうろしたのですが、見落としてしまいました。また機会があればの宿題が出来ました。
川端康成と『反橋』についての説明板
『反橋』の一説を刻んだ石碑
住吉万葉歌碑の全体像 住吉万葉歌碑の設置説明
二首の万葉が刻まれています。
井原西鶴の句碑
他にもう一つ西鶴の句碑があるようです。
井原西鶴の句碑(裏面)
書いてある字はなんとか読めますが・・・。 よくわかりません、句碑です。 よくわからない句碑のよくわからない裏書きです。
これもね、書いてある字はなんとか読めますが・・・。
さっぱり解らない歌碑です。
最後のらんは解ります。
次回につづく。 |
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