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〜観心寺:新待賢門院墓 コウボ坂陵墓参考地(2013.8.15)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/観心寺編(12)
観心寺:仏の仮の姿である神を祀る寺内神社→訶梨帝母天堂
観心寺:訶梨帝母天堂 割拝殿(府指定文化財)→鎮守社 拝殿
観心寺:楠木正成(くすのきまさしげ)の学舎→南公学問所 中院
観心寺:楠木正儀と後村上天皇→楠木正儀と後村上天皇の思い
観心寺:金堂正面:目線は上から→観心寺:北斗七星と如意輪観音
観心寺:建掛塔 それは楠木正成の無念→楠木正成はなぜ自決した
阿弥陀如来は何を叶えてくれる?→阿弥陀如来と南無阿弥陀仏
真言宗派のお寺には御影堂がある?→ご本尊は開祖の弘法大師
弘法大師より観心寺を任された高僧→観心寺の前伸と興大師実恵
観心寺に正成公の首塚がある理由→生前の処遇と敵大将の思い
後村上天皇陵墓が観心寺にある理由→明治天皇が南朝を正統と
新待賢門院(藤原廉子ふじわらのれんし)とは→南朝の妻であり母
道興大師と僧の尊称について→仏教における階級と菩薩について
観心寺金堂の側面画像と建築様式→『折衷』の意味まで分かるよ
牛滝堂のご本尊大威徳明王とは?→阿弥陀如来は明王、菩薩にも
天皇のおわす場所 行宮(行在所、御座所、頓宮)→一時的な宮殿
金堂内の秘仏と賓頭盧(びんずる)さん→本尊とびんずるさんとその素材
観心寺にある正成像・檜皮の森・問題の石碑→楠木正成公首塚への道標
新待賢門院(藤原廉子ふじわらのれんし)は、後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)の母です。また、院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれました。
後醍醐天皇の高級女官として入侍し、間もなく後醍醐天皇の 中宮である藤原 禧子(ふじわら の きし)を押しのけて後醍醐の寵愛を一身に集めるようになりました。
「建武の新政下においては皇后並みの待遇を受け、三后の栄誉に与った。内政にも影響力が及んだと考えられ、恒良親王の立太子や、足利尊氏と結託して後醍醐天皇と対立した護良親王の失脚・殺害にも関与したとされる。新政瓦解後は吉野遷幸にも同行して後醍醐天皇を助け、その亡き後は後村上天皇の生母として南朝の皇太后となり、正平6年/観応2年(1351年)12月に院号宣下を受け、正平12年/延文2年(1357年)9月落飾した。正平14年/延文4年(1359年)4月河内観心寺で崩御、享年59歳だったそうです。
準勅撰集『新葉和歌集』に20首が入集する歌人でもある。墓所については、観心寺境内のコウボ坂陵墓参考地、境外の檜尾塚陵墓参考地などが伝承されているが、天授4年/永和4年(1378年)に当寺を参詣した賢耀の『観心寺参詣諸堂巡礼記』を参照すると、現在境内に「楠公首塚」と称している五輪の辺りが真の女院墓に相当するようである。
『太平記』は、廉子が「殊艶」のみならず「便佞」であったために後醍醐天皇からの寵愛を独占したとする一方で、新政挫折の一因には、廉子と護良親王による政権内抗争があるとして、「雌鳥が鳴いて夜明けを報せると一家が滅ぶ」という中国の諺を引き合いに出し、批判的な叙述を行っている。
また、北畠顕家が死に臨んで書き上げた諫奏文においても、「女官の中に、私利私欲により国政を乱すものがいる」と名指しこそしていないものの、廉子を重用する後醍醐天皇を暗に非難している部分がある。」とウィキペディア阿野廉子に記述されています。
つまり、才女ではあったのですが、極めて野心的な女性だったようです。
新待賢門院墓の案内板
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28
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