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〜錦織神社にある天誅組の石碑(2013.8.18.)〜
〜 Nishikori Shrine in summer:(2013.8.18.)〜
錦織神社の参道口から本殿のある境内へと進むと、参道の途中には、左側に天誅組の石碑があります。「えっ、知らない?・・・う〜ん、そうかも知れませんね。」
幕末に結成され、活躍した武士の集団と言えば、ほとんどの方は『新撰組』と答えることでしょう。
では『新撰組』とはどういった集団でしょうか?
江戸幕府の力が異国からの
などによって衰えた幕末には、当時の江戸幕府の世を守ろうとする佐幕派と、江戸幕府の世を終わらせようとする佐幕派が対立していました。
佐幕派とは、、「幕府を補佐する」というのがその言葉の意味だそうで、新撰組もそうした役割を武力で担った集団でした。
もっと詳しく言うなら、朝廷(天皇)の在する京都は、幕末には政治の中心地となり、諸藩から尊皇攘夷・倒幕運動の動きが高まり、そうした武士などが集結したため治安が悪化しました。
そうした時代のうねりの中、江戸幕府は従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断し、最高治安機関として京都守護職を新設しました。そしてその配下で活動したのが新選組です。
この佐幕派の新撰組とは真逆の倒幕を主張した尊王攘夷派(倒幕派に属する)の人達の一集団が天誅組です。
幕末は、黒船来航という「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程で、その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩で、新撰組の上部組織である京都守護職のトップは、このうちの会津藩主でした。
対して天誅組の盟主は、青年貴族中山忠光(明治天皇の叔父)でした。
この対照的な成り立ちをもつ新撰組と天誅組は、皮肉にも似たような悲劇的な末路をたどります。
新撰組は、佐幕派の一翼を担うべく成立したにもかかわらず、採集的には朝敵の汚名を着せられ、新政府軍と戦い、多くの隊士が戦場に散って行きました。
一方天誅組は、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想のもと、朝廷を守護するために立ち上がった武士の集団であったはずが、新政府軍の勝利が目前となり、天皇が大和へと行幸するより先んじてその魁(さきがけ)とならんと先行するも、その頃京都では尊王派と攘夷派が結びついて幕府を立て直し朝廷と協力して政治を行おうとする「公武合体派勢力」に逆転し、江戸幕府は朝敵ではなくなったことで、大和行幸が中止となり、先行独断の謀反人や逆賊となり、幕府から追討を受ける運命となってしまいましたのです。
どちらも悲劇的な運命を辿りますが、後世つまり現代においては、新撰組は度々時代劇に登場し、歴女なるファンも現れる人気ぶりです。
ところが天誅組は人気が無いどころか、その存在すら殆ど知られていないのが現状です。
その是非はともかく、いや是非は重要ですが、正義は後世にならなければ解らなかったり、時代によって評価が変わる物ですが、ともかくも志あるがゆえに戦いの中で生きた青年達であることに思いをよせ、彼らにも着目して頂きたいと思います。
きっと新撰組の人気隊士と同様のステキな若者がいたはずです。
でも、やっぱり現代の作家が着目し、いい作品に書き上げなければ無理かな?
天誅組の詳しい記述はこちらをご覧になってはいかがでしょう。↓
ちなみに、新撰組と天誅組が激突したという史実はないようです。
天誅組河内勢の石碑やこれを説明する石板
年8月18日撮影
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28 +VCL-ECF1 中央に建つ天誅組の石碑
年8月18日撮影
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28 +VCL-ECF1 と書かれているそうです。
向かって左側に建つ最近の石板
年8月18日撮影
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28 +VCL-ECF1 志士の名だけではなく、その協力者も書かれているそうです。
向かって右側に建つ最近の石板
年8月18日撮影
カメラ:αNEX-5 レンズ:E16mm F2.8 SEL16F28 +VCL-ECF1 |
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