カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

全体表示

[ リスト ]

 
〜城塞都市:今井町とは(重要伝統敵建造物群保存地域)〜 
 サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ/寺内今井古民家
 
 
織田信長軍と戦った→一向宗とは 
今井町のパンフレット→今井町概論 
今井まちなみ交流センター→資料館 
『華甍』アップ上から魚眼で撮影 
今井町古民家群の顔→今西家住宅 
今西家住宅悪魔のような鬼顔
今西家住宅西まるでお寺みたい
豊田家家紋→法具の三鈷杵みたい 
豊田家について材木の豪商だった
環濠が取巻く町→城塞都市:今井町 
よく見れば変な屋根の→中橋家住宅
上田家住宅の特徴→三段屋根+煙出
上から上田江戸時代奥のに現代 
珍しく王道画像→上田家を北西側から
○○が無いのい狭い→音村家前の道
魚眼音村家正面→音村家:造りと正面
絵になる光景→音村家を南東側より撮
現代が背後に隠れる→旧米谷家住宅
酒蔵と夕空と電線と→河合家の夕景 
河合家:斜めから→河合家の庭と主屋
一見すると普通に見える→高木家住宅
江戸時代末期の特徴を→吉村家住宅
主屋から庭に照り屋根が→山尾家住宅
煙抜き屋根の手前に龍の鬼瓦→西光寺
今井町の見所は多様指定文化財以外
 
この数日間で、今井町のパンフレット『今井町』・今井まちなみ交流センター「花甍」(県指定重要文化財)・今西家住宅(国指定重要文化財)・豊田家住宅(国指定重要文化財)とご紹介してきました。
今井町の古民家のご紹介はまだまだ続きますが、その前に再度今井町についてより知って頂くために、
ここでは、橿原市を紹介するパンフレット『橿原』の中の今井町に関する情報をいくつかご紹介した上で、戦国時代に遡って歴史を私とご一緒にお勉強しましょう。
 
まずは今井町の地図上の位置を知っていただくために、以下に紹介する1つ目の画像をご覧下さい。
今井町の近くには、初代天皇の神武天皇陵・和歌に詠われる大和三山(畝傍山・耳成山・香具山)・飛鳥時代末期の藤原宮跡・橿原神宮などの歴史上の最重要史跡にほど近い場所にあります。
上記した奈良時代以前の史跡に比べれば遙かに新しく、今井町は、飛鳥時代→奈良時代→平安時代→鎌倉時代と時代は移り、そのまた後の室町時代(戦国時代)に始まる街並みです。
ですが、戦国の世を経て長く木造の家屋が今にそのなごりを止めている(民家自体は江戸期のもの)歴史上の重要性は、奈良時代以前の史跡群のそれに決して劣るものではありません。
 
さて今井町の地図上の位置を知っていただいた上で、次に2枚目にご紹介している今井町の見取り図をご覧ください。あたかもお城を守る外濠(そとぼり)のように、環濠が町全体を取り巻くという特異な町の姿は、なぜ必要だったのでしょう。
そのことを知ることこそが、今井町の魅力を知ることにつながります。
 
【今井町とは】パンフレット『橿原』の記述
称念寺を中心とした地内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期の概略を考えると、東西600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた戸数1100軒、人口約4,000数百人を擁する財力豊かな町であった。町割は、西、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って渡り、外部の道路と連絡している。
内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。このことは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。
これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変貌した。
現在も、今井町の大半の民家が江戸時代以前の伝統様式を保っており、しかも慶安3年(1650)の今西家をはじめ、すぐれた民家が数多く建ち並び、今なお、町全体が戦国時代にできた寺内町の歴史の重さをずっしりと感じさせる。
 
【今井町と一向宗】橿原市/今井町の歴史より
天文年間(1532〜55)、本願寺の今井兵部によって建てられた称念寺が、今井町の起こりと言われています。農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進めるためでした。後には、諸国の浪人や商人が集められ、町場を形成しました。このような町を寺内町と言います。
世は戦国時代。野武士、盗賊、他宗派、大名などからの攻撃を避ける為に、周辺に濠と土居を巡らせ、僧侶や門徒を守るための武力が備えられました。見通しのきかない筋違いの道路や、九つの門跡がそれを物語っています。
 
【一向宗について】一向宗 - Wikipediaより
一向宗(いっこうしゅう)とは、
1. 鎌倉時代の浄土宗の僧・一向俊聖が創めた仏教宗派。江戸幕府によって時宗に強制的に統合さ   れ、「時宗一向派」と改称させられた。
2. 他者が浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。江戸幕府によって強制的に浄土真宗の公式名    称とさせられた。
仏教史的な観念からすれば、本来は1.のみが「一向宗」の正しい定義であるとも考えられるが、戦国時代の一向一揆の印象や、江戸幕府によって行われた1.の強制統合(「一向宗」の使用禁止)と2.の強制改名(「一向宗」の使用強要)に伴い、今日では2.のみを指すのが一般的である。
 
【一向宗の歴史に残る戦いの記録などについて】
本願寺家 と 本願寺顕如(光佐) と 一向一揆に管理人が詳しく記されている内容を、ご無礼ながら乱暴に要約すると、
武士が覇権を争う戦国時代は、一般民衆にとっては苦難の時代であり、人々にはこれを克服する救いが必要でした。その一つが一向宗だったのです。
ただし、一向宗には、他の宗教と大きく違う点がありました。
一向宗は、当初は過激な宗派ではありませんでしたが、通常の宗教(仏教)が僧侶が信者に対して救済や教えを与えるのに対し、一向宗では一人一人の信者が、他の人々や信者に対して救済を行う事を認めていたそうです。
乱世にあって一向宗は爆発的に流行し、日本各地に本願寺のお寺が建てられ、本願寺の総本山はそうしたお寺に 「坊官」 と呼ばれる信者の統率・指導を行う僧を派遣するなど、武力の要素が芽生え、同時に信者から 「お布施」 を集め、それらによって本願寺は日本各地に大きな支配力と資金力を持つ存在となり、一向宗の「寺社勢力」 の中心となる地域も数多くなっていきます。
しかし、のあまりに大きな普及により、熱狂的な信者の中から「独立して一向宗の国を作ろう!」という動きが出始めまり、次第にいま国を治めている統治者を武力蜂起によって追い出し、国を乗っ取ろうという過激な思想と鳴って行きます。
一向宗門徒(信者)の独立・自治の動きはどんどん大きくなっていき、ついに「加賀(現在の石川県金沢市周辺)」で、一向宗の僧と門徒達による大規模な一揆が勃発します。加賀の城は陥落、加賀の国主は自害し、なんと一向宗の国が誕生してしまいます。それが加賀の一向一揆です。その後こうした一向宗信者による一揆は、日本各地に広がりました。
そんな頃、天下統一をもくろむ織田信長が現れました。
当初 本願寺は 「王法為本」 に従って、信長に従う姿勢を見せていましたが、潜在的な脅威である本願寺を押さえておきたいという信長は、本願寺への要求はどんどんエスカレートしていき、ついに 法主・本願寺顕如 は信長に対し、反旗を翻す事を決意、多数の鉄砲を持つ雑賀衆中国地方の大大名 毛利家とその配下の村上水軍などと同盟もしくわ強力関係を持ち、これによって一向宗は武装宗教集団となったのです。
長島一向一揆などにおいて、進むは極楽、退けば地獄」 と鼓舞され、「南無阿弥陀仏」の経文を唱えながら死をも怖れず攻撃してくる一向宗の軍団は、織田軍勢をも震え上がらせる存在でした。
しかし、歴史の教科書にも紹介されるとおり、その後織田軍は比叡山・延暦寺神社仏閣を全て焼き払い、そこにいた僧侶3千人を殺害、近畿地方の反織田勢力 「浅井家」 や 「朝倉家」 を滅ぼすと、伊勢地方の 「長島一向一揆」 に再度攻撃を開始。一向一揆側もかなり善戦しますが、捕らえられた門徒2万人は女子供も含め、全て殺害されるなど、徐々に本願寺はその力を失っていきます。
「反織田」 の有力勢力だった 武田信玄、上杉謙信 も相次いで病死。
将軍・足利義昭 も追放され、さらに織田家で建造された最新技術の鉄張りの軍艦 「鉄甲船」 によって、石山本願寺城に海上補給をしていた毛利家の村上水軍も敗退。
一向一揆によって作られた一向宗の国 「加賀」 も制圧され、こうして孤立した本願寺は、ついにその挙兵から約10年後、織田家に降伏して石山本願寺城から退去
本願寺による武力闘争は終わります。ただ、信長に降伏する際、法主 「本願寺顕如」 の子 「本願寺教如」 はそれに反対、石山本願寺城 から退去しようとしなかったため、勘当されることになります。
しかし徹底抗戦を訴える教如は一部の熱狂的な門徒に支持され、これが結果的に本願寺家の分裂を生み、「西本願寺(顕如派)」 と 「東本願寺(教如派)」 に分かれる事となり、この両本願寺はその後も 「浄土真宗」 の総本山として存続し続けているのです。
 
以上の一向宗の戦いの中で、一向宗の寺内町である今井町も、あの織田信長軍とも戦ったということです。
お分かりいただけたでしょうか?だから今井町は環濠に守られ、その古民家群は、頑強で防火能力にも長け、現代にその姿を残しているという訳です。
 
そして現代、橿原市は、以下の三枚目の画像(『橿原』というパンフレットの表紙)の右下隅の文字を見ていいただければお分かりのとおり、「飛鳥・藤原」を世界遺産に!という平和的戦いを繰り広げています。
 
イメージ 1
『橿原』に紹介されている簡略地図
 
イメージ 2
『橿原』に紹介されている今井町の見取り図
 
イメージ 3
『橿原』の表紙
 
次回からはまた、今井町の古民家の紹介を続けます。

.
上から目線
上から目線
非公開 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

過去の記事一覧

標準グループ

登録されていません

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

ブログバナー

友だち(2)
  • 土佐文旦
  • 湖池健彦 Essay
友だち一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事