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〜初詣:開口神社の歴史は堺の歴史なんですね(堺市2014年1月3日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!行く年来る年
前回のページで開口神社の主祭神を先にご紹介しましたが、肝心の開口神社についてまだご紹介していませんので、改めて今回ご紹介します。
開口神社は、神功皇后(じんぐうこうごう)によって創建されたとされますが、古墳時代の事なので定かではありません。
{夫の仲哀天皇(実在性は疑問)が急死後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島の新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したと日本書記に記され、息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)として住吉大社の第4本宮に祀られていることは、〜魚眼で見る住吉大社:幸壽門より境内へ(2013.8.14)〜でご紹介しました。}
奈良時代中期に仏教が盛んになると、当時ご在位していた聖武天皇が行基上人に勅して、この地(三村大明神)に道場を建立し、蜜乗山大念仏寺(俗呼んで大寺)と号したそうです。創建当時は、金堂、三重宝塔(本尊大日如来・聖徳太子御作の四天王)、鐘楼、食堂(じきどう)、などのある堂々たるもので、その後も長い歴史をもつお寺として信仰を集めていたようです。
ところが、戦国時代の大阪の陣で全焼してしまいました。
その後江戸時代の四代将軍の家綱の治世に、明暦元年(1655)社殿を復興し、寛文2年(1662)には三重塔が竣工され、多聞院、五大院、遍照院、虚空蔵院、明王院、宝生院などの諸院が存在していました。
江戸後期になると、大寺と三村明神は一体であり、三村明神を含めて大寺であったことがわかる絵図が存在します。
明治時代になると、維新の神仏分離によって、蜜乗山大念仏寺(俗呼んで大寺)は廃寺となりますが、三重塔のは破壊を免れ、健在でしたが、 惜しくも、昭和20年の空襲で焼失してしまいます。 三村明神・開口神社という呼称の由来は、明神がこの堺にお越しになった際、今の川尻と言っている所で食事を摂りなさったが、そこで初めて口を開きなさったことから、この堺の南荘を開口村(あくちむら)と呼ぶようになった。その当時、堺には開口村以外に木戸村・原村という村があり、これらと開口村をあわせて三村(みつのむら)という。この三ヶ村で明神を氏神としてお祀りし、三村大明神と呼ばれていたようです。
現在の開口神社は、徳川四代将軍 綱吉の治世、明暦元年己未(つちのとひつじ)に、住吉の外宮として住吉大社といっしょに御造替されました。
ちなみに、開口村を堺と呼んだ最初は、白鴎二年と言われているそうで、年号の白鴎とは白鳳時代のことだと思うのですが、とすると、大昔から堺という呼び名はあったのですね。(参考:堺地誌より)
開口神社 本殿アップ
御子さんが破魔矢やお守りを売る
開口神社 西門
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