|
〜初詣:住吉第四神ゆかりの松風神社と舳松(へのまつ)神社〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!行く年来る年
開口神社境内には、前回ご紹介した、塞神社と白髪神社が合祀されている祠(ほこら)の左側に、松風神社と舳松(へのまつ)神社が合祀された同様の祠(ほこら)があります。
舳松村(へのまつむら)は、かつて和泉国・大阪府にあった村。村東部には「仁徳天皇陵」が含まれていた。堺市街地の南東に位置し、現在の堺市堺区永代町、賑町、一条通、協和町、大仙西町、大仙町、向陵東町などにあたるそうです。
1889年(明治22年)4月1日 大鳥郡舳松村(町村制)が発足。
1896年(明治29年)4月1日 泉北郡が成立。
1925年(大正14年)10月1日 堺市に編入される。
堺市には他にも神功皇后にまつわる地名があります。
軍船九そうが上陸した所を九艘小路(くそうのしょうじ)、兜(かぶと)を宿院の内に埋められた場所に由来する甲斐町など。 エナガ先生の講義メモ舳松神社より
注:神功皇后については、〜初詣:開口神社の歴史は堺の歴史なんですね(堺市2014年1月3日)〜をご覧下さい。
以上のように開口神社のある場所辺りには、かつて和泉国の舳松村(へのまつむら)というがあり、神功皇后にまつわる逸話のある村の鎮守神(ちんじゅがみ)が舳松神社で、住吉四神が祀られているそうです。
ですが、舳松村には人権にまつわる歴史もあり、大阪堺市は仁徳御陵を百舌古墳群として世界遺産に には、
「大阪堺市は仁徳御陵を百舌古墳群として世界遺産に申請している。
この地はかつて舳松村に在り舳松古墳群と言つた。舳松の名前を消して耳原 協和町と旧舳松の地名をかえた。堺市にお尋ねしたい。 住吉大社の参道に有る大きな灯篭の文字、舳松大小路。 千利休は舳松の出身ではないのか。 開口神社に在る舳松神社、この神社は舳松村に建つていたのを、開口 神社にうつしたものだ。 舳松の地には舳松の名を持つ者はいない。 舳松の地の人間は被差別部落の者で、・・・・その悲惨な生活は堺の舳松人権記念館で紹介されている。 私も堺ではさんざん差別をうけた。 ・・・・・堺市は舳松の名前を消そうと考えているのか。・・・・・ 」 という記述もあり、過去の由緒ある地名が消えて行く理由には、色んな理由がありえるのだということが伺えます。
【鎮守神とは】
特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた 神である。現在では、氏神(うじがみ)、産土神(うぶすながみ)と同一視されることも多い 。鎮守神を祀る社(やしろ)を鎮守社という。
また、舳松神社と合祀(同じほこらに祀る)する松風神社については、
開口水門姫神と開口神社に以下の記述があります。
「明治四十年五月二十一日南旅籠町東三丁字内農人町の鉾塚にありし無格社矛神社(気長足姫命)を末社松風神社に合祀し、
同日寺地町東三丁字内農人町旭蓮社北門内にありし村社舳松神社(住吉四神)を、同四十一年一月十三日宿院町東一丁字宿院の西華表の南にありし村社兜神社(品田別命・気長足姫命・玉依姫)を本社境内に移転合併せらる。」
加えて和泉の国再発見 / 名所図会 巻1-20/鉾塚には、『神功皇后鉾塚』の絵図と、以下の記述が紹介されています。
南農人町にあり。 諺ことわざに 曰、住吉ノ神、 韓國からくに より 御ご 凱陣がいぢん の時、 御み 鉾ほこ をこゝに 埋うづみ 給ふとぞ。
一説には、旗を立置給ひし跡也ともいふ。 御み 鉾ほこ は、今、住吉の寶庫にありしぞ。
つまり、神功皇后が韓国(三朝)の戦から帰朝した際、鉾を埋めた場所に建てられた鉾塚を、開口神社境内に移転し、祀ったのが、松風神社だということです。
画面中央が、松風神社と舳松(へのまつ)神社が合祀された祠(ほこら)
前回ご紹介した、 塞神社と白髪神社が合祀されている祠は、画面右
前景左にはポスト風の賽銭箱が二つ、前景右には舳松(へのまつ)神社と刻まれた石碑、中景には三つの社がシンメトリーに並び、更に後景には、現代の高層マンションが写る光景、
それを魚眼で撮影したことで、とても面白い画像になったと私は思います。
|
全体表示
[ リスト ]





