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〜初詣:山本梅史は高浜虚子に師事した薄命の天才俳人 〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!行く年来る年
開口神社には、私のような学のない者は見向きもしない句碑があります。
まずその画像を見て頂きましょう。
なんだか、頭でっかち尻すぼみの文字が石碑の表面を這っていますが、読めますか?
読めませんよね。
無学ながら、何が書かれているのか知りたいですよね。
手がかりは、開口神社の案内図にありました。そこには、『山本梅史 句碑』とあります。
さっそく 山本梅史で検索してみると有りました。この句を紹介するページがね。
風鈴や見馴れたれども淡路島 山本梅史(やまもとばいし)
これがこの句碑に書かれた句です。この情報を知った上でも、『風鈴や』 『馴』 『島』ぐらいしか認識できません。私には。
句の意味するところは、
「大阪府の堺市から兵庫県の淡路島が、海の向こうに見えている。「見訓れた」淡路島が、今日は新鮮に見える。風鈴の音のせいだろうか。」なのだそうです。
かつては、淡路島が、日常的に見えていたのですが、内海を渡る潮風に風鈴が鳴っていたことで、新鮮に見えた思いを句にしたらしいのですが、
作者の後を受けた神戸市の医師五十嵐播水は、
風鈴や刻々暮るる淡路島 五十嵐播水
と詠ったとあります。
私が解釈するに、
「ほんに美しい淡路島の光景ですね。風鈴の音を聞きながらこの光景を時の経つのも忘れて見ていると、いつのまにか夕暮れの光景になりましたね。」
なんて感じでしょうかね。
高層ビルが建ち並び、大気汚染の進んだ現代の堺でも、時々淡路島は見えますよ。
例えば阪神高速湾岸線をマイカーで走っているとね。
この殺伐とした現代にあって、みなさんは風鈴を楽しむ心をまだお持ちですか?(今は冬、シーズンオフですが・・・。) きっと若い方の多くは、歩きスマホで音楽をダウンロードして、オーディオテクニカの30,000円以上もするイヤホンを通して辺りの情景とは全く関係のない音楽に酔いしれ、無機的な時の流れの中をさまよっているのでしょうね。
たまには西洋かぶれから脱却して、ほんの一時でも「風鈴」などの東洋的な美意識の中に身を置いてみると、運気が好転するかもしれませんよ。
そこで私もせん越ながら、山本梅史に対抗して一句詠んでおきましょう。
雪降りて蒼きに白し淡路島 堀野 満夫
この句を自ら解説しておきます。
「こんな寒い冬に雪が降り続いたなら、きっと蒼い海原のむこうには、白く輝く淡路島が見えるに違いない。」
という意味の句です。今年は大阪の堺にもよく雪が舞う寒い冬です。こんな光景は実際には見えないかもしれませんが、そんな寒い堺の冬を表現するなら、脳裏に浮かぶ象徴的な心象風景を句にするのも有りかと思います。
【山本梅史について】
山本梅史 - JA堺市の記述
明治19年12月12日堺市櫛屋町東の生まれ。俳人。幼いころから利発で温順、神童の名が高かった梅史は、7歳のときに父と死別し、以後、祖父と母の手で育てられました。堺市立熊野(ゆや)小学校を卒業後は、堺高等学校に入学。14歳のころから、茶の湯と俳諧を習い、安藤橡面坊(とちめんぼう),高浜虚子にまなぶ。「堺日報」を創刊し,俳句欄の選句にあたる雅号、雪窓庵梅史を与えられました。後に、準宗匠まで進んでいます。
堺市役所に勤め、市会書記長を務めました。昭和3年には、泉州の同好の士と雑誌『いづみ』を発刊。翌年には、ホトトギス同人に推されています。♪物の始めは何でも堺 三味も小唄もみな堺・・・♪と、現在も親しまれている『堺音頭』の歌詞は梅史が作ったものです。 山本梅史は、地元堺市の新聞の記者を経て、1911(明治44年)『堺新報』を独力で創刊。1916年。同紙に「白鳥俳壇」を設ける。1918年2月堺市に高浜虚子を迎えて歓迎句会を開き、関西ホトトギス派結集の機運を作る。代表句は、<ひとときの時雨先立つ御幸かな>。『堺音頭』の作詞者。大阪府堺市生まれ。(1886−1938)。
なるほど、高浜虚子(1874 - 1959)なら教科書で習ったことがあります。私が生まれた年に亡くなった方ですが、師である高浜虚子より21年も先に亡くなっているんですね、山本梅史は。
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