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〜トンボ目線で見る桜井神社 その2:本殿と神宮寺のなごりと信長
(2013年7月28日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ
桜井神社の起源は水神?→桜井という井戸
桜井神社の真実はどれ?→謎解きは面白い
鳥居でなくなぜ神門?→神社建築の特徴とは
いみことば:名子氏→神道は仏を語らず容認
桜井神社の歴史→神社と神宮寺と織田信長
古来より残る神社の割拝殿→堺唯一の国宝 前回のページで「桜井神社がなぜ国宝にしていされているのか?」についてその建造物の持つ特徴を述べることで、その重要性を紹介しました。
今回は改めて桜井神社の歴史について桜井神社(堺市)と桜井神社 (堺市) - Wikipediaの記述を参考にしてご紹介します。
伝承によると、創立は悠遠の時代(大昔、太古)で、この地方に住居していた桜井朝臣の一族その祖先である武内宿禰命(たけうちのすくね)を奉斎(ほうさい:神仏をつつしんで祀(まつ)ること)したと伝わっています。
その後推古天天皇5年(597年)にこの地に八幡神が示現(現世に現れ)、郷の人々が神祠を建て祀ったところ、亀乙(かめおと)と称する老翁が現れ三神の神像を刻み姿を消したことから、八幡宮を合祀(ごうし)、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を奉斎し、(主祭神としました。本社は別名上神谷八幡宮(にわだにはちまんぐう)とも言われます。
また桜井神社(堺市)には、この地に桜井氏という氏族がいたことから、武内宿禰を祖神とするこの地の氏族である桜井氏の祖先を祀ったのが本社の起源と思われると紹介しています。
【武内宿禰命(たけうちのすくね)とは】武内宿禰 - Wikipediaより
大和朝廷初期の景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇に棟梁之臣(むねのとみ:国家などの組織の最も重要な人物を指す)・大臣(おおおみ)として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。建内宿禰とも表記される。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。神号は高良玉垂命とも称される。
更に興味深いことに、本社は織田信長との因果関係があります。
桜井神社 (堺市) - Wikipediaと本社の案内板の記述を総合すると、桜井神社は中世に至るまで、神仏習合の霊場として隆盛を極めましたが、1577年(天正5年)織田信長の根来攻めの際に桜井神社も兵火にあい、拝殿と本殿を残して焼失し、一時荒廃しましたが、社殿は1588年(天正16年)から江戸時代の1731年(享保16年)にわたる再建により焼失以前の姿に修復されました。
日本史の授業では、織田信長の社寺に対する悪行は根来攻めのみがクローズアップされていますが、奈良の今井町といい、今回の桜井神社といい、色々とやっちゃってますね。
このように、本社は拝殿のみが織田信長の兵火からまぬがれ、それ以前の様式を今に止めていることからも、国宝としふさわしい存在であることがわかります。前回のページでは、私の機材による高所からの撮影画像を紹介しましたが、以下に当たり前の人の目線で見る拝殿の画像を紹介しておきます。
神社の拝殿は建築年代の古いものが少なく、
桜井神社拝殿は鎌倉時代にさかのぼる例として貴重。
【神宮寺に由来する割拝殿】
前回紹介したように、本社の拝殿は中央の間を馬道(めどう、通路の意)とし、左右を部屋とする様式の割拝殿と言いますが、思いだしませんか?
以前わたしは、〜観心寺:鎮守社 拝殿(2013.8.15)〜で大阪府河内長野市の観心寺にある神宮寺の鎮守社 拝殿をご紹介しました。
そうです、観心寺に鎮守社拝殿も、割拝殿なのですが、入母屋屋根ですし、朱塗りではなく、お寺の中の神を祀る社に合った姿でした。
神宮寺 - Wikipediaには、「鎌倉時代、室町時代、江戸時代では、武家の守護神である八幡神自体が「八幡大菩薩」と称されるように神仏習合によるものであったため、幕府や地方領主に保護され、祈祷寺しかし、そのために檀家を持たなかったため、明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし、急速に数を減らした。」と紹介しています。
この記述から拝殿が割拝殿の様式をとっているのは、桜井神社もこうした祈祷寺が神社になったものだったからだということが伺えます。
桜井神社 拝殿の天井
内部は天井を張らず、梁、垂木などの構造材をそのまま見せた「化粧屋根裏」
桜井神社 本殿前の中門
人目線
桜井神社 中門の向こうに見えるのが本殿
高さ4mから撮影
桜井神社 手前に中門と透塀、中間に幣殿 (へいでん)?、奥中央に本殿
本殿の左に山井神社、右に国神社
高さ9mから撮影 |
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