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開口神社は堺の歴史→奈良時代から
塩.海.神助けの神→神塩土老翁神
龍神の化身?→開口神社手水鉢の像
スサノオは天界を追放され→守り神に
住吉大社第四神と→松風&舳松神社
コーヒーブレイク?が→泉陽高等学校
堺の幼稚園発祥の→記念碑は必要?
開口神社の境内に→他にもこんなもの
三宝荒神は日本独自の神様→竈神社
風鈴・日常の風景・淡路島→山本梅史
開口神社の薬師社→薬師如来は神?
唯一神明造りと大社造り→そのルーツ
纒向遺跡まきむくいせき→新事実発表
貧乏神が石になって→福の神になる?
桜井神社の起源は水神?→桜井古跡
スサノオ妻の母を祀った?→起源の真実 イザナミ孫の神社→三宝荒神の神社に
霰松原神社にある物→3社・楠・忠魂碑
蜂田神社から→藤原氏と天皇と話神を
新年への架け橋→ビル上から明石大橋
2013年を振り返る→当サイトの画像 天満宮と言えば、関西では(いや、日本全国でも)京都の北野天満宮が最も有名です。そしてその祭神と言えば、菅原道真ですね。
学問の神様として、受験前には多くの方がお参りしたことでしょう。
堺市にも菅原道真を祀る神社があります。その名は菅原神社で、天満宮とは言わないのですね。
菅原道真を祭神とするものには、天満宮、菅原天満宮、菅原神社、天神社などがありますが、
神社の格式としては、伊勢神宮を筆頭に、概ね 神宮→大社→○○宮→神社となるようで、『宮』の文字がつく天満宮の方が格式が高く、
同じ菅原道真を祀る神社でありながら、今回ご紹介する菅原神社は、地域の氏神ということになります。
そもそも天満宮とはなんでしょう?
【天満宮とは】
道真公が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったとの伝承があります。このことから天満宮は生前に不遇を被った者の魂の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰(ごりょうしんこう)の代表的事例(清盛神社・崇道神社・靖国神社など)で、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。
「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来と言われています。
明治から昭和にかけての神道国家管理時代は、「宮」号は祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったため、例えば太宰府天満宮が太宰府神社と改称させられたように、「天満宮」と称していた神社も「神社」・「天神社」・「天満神社」などと改称させられていたそうですが、今は神社庁の統制のもと、改めて「宮」を用いることが許された神社の一つが天満宮です。 【堺市の菅原神社の由来】 菅原神社ホームページより
幼時から神童と称され、宇多天皇の厚いご信任のもと、遣唐使を廃止するなど政治の中心でも活躍し、899年には右大臣にまで上りつめました。しかし、左大臣の藤原時平らによって大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなります。
今から千年以上前、摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着きました。これは、配流された道真公が大宰府の地で自ら作られ、海へ放された七天神のうちのひとつと言われ、その木像こそが、菅原神社のご神体です。
ご神体はしばらく付近の住人によって、大切に祀られていましたが、僧徒によって摂津の国北の庄の氏神であった、天台宗威徳山天神常楽寺(てんだいしゅういとくざんてんじんじょうらくじ)に遷し、997年に天神社を創建したことが菅原神社の始まりです。
津の国とは、現在の大阪府と兵庫県にまたがる地域で、摂古から大和、山城、河内、和泉とともに、畿内五ヶ国のひとつです。堺の名前は。摂津、河内、和泉の境になっていることに由来すると言われています。中世初期には、北の庄(摂津)、南の庄(和泉)、の二つに分けられていました。
【菅原神社 創建以後の歴史】
貴族社会から武士社会へと時代が変わり、厚い道真公信仰によって天神社は支えられていましたが、
1532年の大火は、折からの季節風にあおられて、北の庄のほぼ全域にあたる四千軒と共に焼失しました。 それから約40年後の1574年には既に再建され、敷地と規模も拡大させていたことが、本社、拝殿、大梵天堂、金殿、観音堂、薬師堂、護摩堂、御影道、食堂、経堂、連歌所、塔、鐘楼、仁王門および南北の門があったことが、当時の神社の配置図からうかがえます。
また本社、大梵天堂、観音堂などの名称から、神道と仏教の建物が共存していたことが示されています。 ここに記されている、ご祭神に奉納する法楽連歌を詠む建物です。中世から近世にかけて、学問、詩歌、芸能の神、道真公にちなんで、各地の天満宮や天神社では連歌の会が盛んに開かれており、連歌所では法楽連歌の会が行われていました。 戦国時代の大阪夏の陣直前、豊臣方の武将、大野道犬(おおのどうけん)は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、菅原神社はまたも焼失してしまいます。 しかし、1652年の菅神750年祭を機に再建に努め、翌年、新殿が完成、ご神体をお遷ししました。 「元禄二年堺大絵図」には堺の町全体が詳細に描かれています。当時は「北の天神、南の開口(あぐち)」と呼ばれ、堺の町を東西に貫く大小路通の北を天神社が、南を開口神社がそれぞれ氏神として祀られていました。 ところで、時の為政者と菅原神社の関係について、豊臣秀吉は、免税などを保障する二百二十石のご朱印を寄せ、徳川幕府もこれを引継いだと伝えられています。 宗教法人の非課税はこの頃からあったのですね。
菅原神社 案内図
菅原神社 東大門前にある大燈篭と屏風型石板
菅原神社 東側入口
菅原神社 東大門(境内側より撮影) |
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