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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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 〜堺環濠都市遺跡(堺は信長や秀吉と対立した〜 
 サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ
  
 
大和武尊の妃(きさき)→多治速比売
弁天社はなぜ池中→続・多治速比売
開口神社は堺の歴史→奈良時代から
塩.海.神助けの神塩土老翁神
龍神の化身?→開口神社手水鉢の像
スサノオは天界を追放され→守り神に
天宇受売はエロス神?→塞神社と夫
歯痛に効く神とは?→謎の白一龍神社
住吉大社第四神と→松風&舳松神社
コーヒーブレイク?が→陽高等学校
堺の幼稚園発祥の→記念碑は必要?
開口神社の境内に→他にもこんなもの
三宝荒神は日本独自の神様→竈神社
風鈴・日常の風景・淡路島→山本梅史
開口神社の薬師社→薬師如来は神?
唯一神明造りと大社造り→そのルーツ
纒向遺跡まきむくいせき→新事実発表
貧乏神が石になって→福の神になる?
桜井神社の起源は水神?→桜井古跡 
スサノオ妻の母を祀った?起源の真実
イザナミ孫の神社→三宝荒神の神社に
霰松原神社にある物3社・楠・忠魂碑
蜂田神社から→藤原氏と天皇と話神
新年への架け橋→ビル上から明石大橋
2013年を振り返る→当サイトの画像    
 
前回のページでは、堺の港に新しい島(戎島)が出来た理由を探りました。
その際、大和川の付け替え工事によって堺の港が機能しなくなる以前の戦国時代の頃は、貿易の町として栄えた黄金の時代で、その時代の古地図もご紹介しました。
その古地図を見て、何か気づきませんでしたか?
以前〜橿原市今井町をトンボ目線で:まずはパンフレット(2013年8月27日)よりご紹介した奈良県橿原市今井町の環濠都市と同じく、町には、周囲を囲むお堀のような濠が描かれていましたよね。
そうです、堺の町も環濠都市だったのです。
それは堺市のホームページに紹介されている以下の画像を見れば一目瞭然です。
 
そして堺環濠には、概ね大阪人は豊臣秀吉を太閤さんと呼んでひいきにしていた中で、堺市だけはそうではなかったことを以下のように紹介しています。
『堺の町は戦国時代に現在の原型が出来た。大小路を挟んで南側が和泉の国、北側が摂津の国、三国ヶ丘辺りから河内の国と三国の接点である。このような町は、世界的にも珍しいのではないか。「黄金の日々」と言われた繁栄は、海外貿易の利潤がいかに大きかったかを想像できる。当然、町を防衛する必要が生じたのは理解できる。中世の環濠は現在よりも一回り小さく、もちろん海岸地帯の西側には無い。天正14年、秀吉は濠の埋め立てを命じている。大阪の陣で堺が灰塵に帰した後、徳川政権により現在見られる環濠が造られた。もちろん町割りもその時になされている。徳川秀忠、家光が堺に来ている。南宗寺の建物から町を眺めた。それは堺の町の復旧を視察したのか、伝説にあるように家康の墓を詣でたのかは詳ではない。・・・・・2007年大阪府の建物建設現場で、環濠が4条発見された。最も古いと推定される濠は最大幅17m深さ4.5mで土塁も築かれている。この規模なら十分実用的なものであり、防御施設として機能したことだろう。このことにより時代別に移動した環濠の実態が解明されようとしている。中世の他の環濠集落とは違いがあろうが、このような大きな環濠が存在したことは堺の持つ力の大きさが想像される。大阪の人は秀吉びいきと言われるが、こと堺においては逆である。秀吉が大坂城を造った時には大きな打撃を受け、大坂の陣では町を焼かれたうらみつらみか。織田信長に抵抗し、秀吉に抵抗した堺の町のシンボルがこの環濠である。幾度となく戦乱に巻き込まれ、焼失した中からよみがえった町、それが堺の底力なのだろう。・・・・・西側の掘割は天保時代に造られたもので、飢饉救済の目的もあった事業である。』
【堺都市周濠遺跡南側残存濠に架けられた山ノ口橋たもとの説明板の記述
「町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」と宣教師ガスパル・ビレラが伝えた環濠は自由都市堺の象徴でもあった。しかし、豊臣秀吉は天正11年(1583)大阪城を築城し、城下町を発展させるためこの城の近くに環濠を備えた武装都市を置くことは危険であったため、天正14年(1586)この濠の埋没を命じ、自ら出馬してその工事を催促し、遂にその面影もなくなった。 元和元年(1615)大阪夏の陣に際して、堺の市街は全焼しました。徳川幕府は早速堺の復興に尽力、この時、再び環濠がつくられた。しかしこの元和の町割は、中世の市街よりも東・北・南ともに相当拡張せられたようで、堺周辺の村々から約19万坪(約63万平方米)が市内に入れられている。中世環濠の跡は定かでなく、近世の環濠も戦後は殆ど埋められ、高速道路となってしまった。僅かに南部にその面影を残しているのみである。(堺市)
 
今回のページでは、『堺は信長や秀吉と対立した』と題しました。堺の豪商と織田信長の間には、以下のような変遷があります。
 
【信長と堺の豪商】 信長と堺の豪商 - 信長研究所より
1568年9月、織田信長は、将軍足利義昭を奉じて入京しました。
 しかし信長の畿内制圧には、摂津などの国人、石山本願寺と一向宗、自由独立の気運の盛んな都市の反抗という三つの大きな障害がありました。
 信長はまず摂津に出陣して池田勝正をくだすとともに、摂津、和泉に2万貫という巨額の軍用金を課しました。石山本願寺が献上金5千貫、法隆寺が乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を防止する立て札の費用とそて千貫余でしたから、ムチャクチャな金額です。信長の莫大な軍用金の強要に対し、堺衆は断固拒否し、城楼をあげ、掘を堀り、北の口々に水を放出・流下させるための水門を埋めて、軍用金の徴収を延期させようと計った(『細川両家記』)。更に堺の会合衆は摂津平野郷の年寄衆に対し、共同防衛を促したのです。
 これに対し、信長は、「もっての外」と機嫌を損ね、堺はこれにより信長の攻撃を恐れましたが、信長は正面きって戦うことはせず、京都に引きあげ、十月には将軍義昭に対し、大津、草津と堺に代官を置くことを願ったらしいです。こうして二十日もすると、堺は平静を取り戻し、堺の豪商天王寺屋は、茶会を催しました(『津田宗及茶会記』)。
『原本信長記』によると、このように信長の態度が緩和したのは、信長が和泉の国に対して軍用金を要求した日、和平派の今井宗久が摂津の西成郡茂河に陣を張ったとき、天下にかくれなき松島という茶壷その他を献上し、決死の思いで嘆願したからでしょう。今井宗久は後日明智光秀にあてた手紙によると、宗久が信長に堺南荘の実情を説明した結果、信長がこれを了解し、堺衆と会見することになったと記しています。
 しかも今井宗久が信長に会うことのできたのは、信長の入京にあたっていち早く信長に接近した松永久秀の推挙があったからです。
 この年、三好長逸らの三人衆はまた蜂起し、翌年正月京都に入り、将軍義昭を本国寺に攻め囲みました。三好勢はこのとき堺浦に勢ぞろいしたとあることから、堺の商人のなかにはこれを応援したものがあったのであろう。後日信長は、堺衆が三好方を助けたことを責めた。南北の荘民は恐れをなし、女、子供、老人や荷物などを根来、粉川槇尾寺などに隠し、一方で信長軍に対する備えを整えましたが、結局屈服し、信長の上使衆が派遣され接収されました。ここに堺の会合衆は、軍用金2万貫を出したうえ、ろう人(牢人→浪人)をかかえないことを信長に誓って、ようやく許されました。信長は堺の諸問屋に厳しい年貢を課したため、代表の十人が岐阜にまでおもむいたが、かえって獄に投ぜられ、八人が自決し、二人が堺に逃げ帰ったそうです。
こうして堺は信長軍の襲撃を免れましたが、この年の2月には、軍勢三千をもって別所に陣取り、港町尼崎に矢銭を課し、これを拒否した尼崎衆と戦いをまじえ、四町の間をことどとく焼きつくしました。天正元年、京都の上京も火をかけられて全滅した。堺があくまでがんばれば、尼崎や上京と同様の運命にあった危難を救ったのが、今井宗久でした。
今井宗久は、堺と周辺の代官に任命され、信長は戦わずして堺を手に入れる見通しを得たため、堺を引きあげたのですが、その後自由市堺は、信長の驚異により堺の住民は内部分裂して解体しました。
結局信長は、今井宗久の手引きなどにより「自治」体制のまま信長に従属させました。
 信長はどのように堺を利用したか
信長が自由都市堺に期待したのは、まず堺の豪商のもつ物資交換の機能と交通輸送の手段でした。
とりわけ実力者であった天王寺屋の津田宗及と納屋の今井宗久を重視した。かつて本願寺の御用商人であった天王寺屋は、信長の勢いが盛んとなるに従い、本願寺を離れて信長に接近してゆきました。
しかし信長がもっとも登用したのは、新興財閥の今井宗久でした。まず信長は、今井に堺五ヶ荘の代官職と同荘の塩相物勘過料の代官職をあたえました。淀川を上下する廻船はこれまで石清水八幡宮の神人の管理していましたが、今井はそのなかに割り込んで、権利の一部を獲得しました。淀川をおさえることは、京都への物資輸送権をにぎる重要な道だったからです。
鉄砲の供給と鉱山の経営
堺の町の中にも工場があったと思われるが、今井は堺の付近の我孫子に鉄砲工場をもっていた。
今井は但馬(兵庫県)の大名であった山名紹煕の信長に服属することを斡旋(あっせん)し、その代わりに但馬の経略を信長から任されたらしい。銀が貿易通貨として重視されてきた当時、但馬の生野銀山の管理は、信長にとっても、今井にとっても、大きな収入をもたらすもので、これにより鉄砲の原料である鉄も容易になりました。信長が統一戦をおしすすめるにあたって、京都の商人も動員されましたが、兵糧や火薬など、軍需物資め調達となると、やはり堺の商人のように各方面に商圏をひろげている堺の商人は不可欠でした。
1576年、石山本願寺はふたたび信長に反抗、信長は諸将を派遣して石山の城下を攻撃させるとともに、糧道を絶つため九鬼嘉隆の率いる鉄の大船六隻を堺の沖に回航、碇泊させて、威力を示しました。信長自身も大船巡検のため堺に出向き、まず今井宗久の屋敷で休息、ついで紅屋宗陽、天王寺屋宗及、道叱などの豪商の宅をつぎつぎに訪問しました。
かつて会合衆を率いて信長に反流した紅屋も、堺の代表的な豪商として待遇されたようです。宗久・宗及は千宗易(利休)とともに、信長の茶道に抜擢されました。
こうして堺の豪商は、本願寺との関係を絶ち切り、信長に対して、全面的に協力することとなったのである。
 
Yahoo知恵袋の信長が堺に対して矢銭二万貫を課した際、会合衆たちが三好氏の力を ...には、信長が堺に対して要求した2万貫が、当時どれほどの金額だったかについてのベストアンサーが紹介されています。
【2万貫の値打ちベストアンサー】
当時、だいたい7〜10貫くらいで兵士が1人雇えたようです。
・・・10貫で兵士1人あたりの年収に相当するものと考えてみましょう。
2万貫あれば、2000人程度の兵士を1年間雇える金額ということです。
すると、現代人の年収を300万円と考えて換算したら、2000×300万円=60億円・・・ということになります。
しかし、「現代の金銭感覚」に置き換えるためには、当時の人口や堺の町の規模も考えなくては行けません。
・・・・戦国時代の人口は、1000〜2000万人と考えられており、堺の都市としての規模を、現代の「100万人都市」と考えても、それほど的外れではないと思います。
当時の10万人都市が、現在の100万人都市にあたるとすると・・・先に挙げた60億円は、当時で言うと10倍のインパクトを持っていたと考えても差し支えないのではないでしょうか。
・・・・むしろ現代の100万都市だと、詳しくは知りませんが財政規模は1兆円近いと思いますので、現代の価値に置き換えるならもっと高めに見積もっても良いかも知れません。
冒頭で、石高に換算すると10万石相当と書きましたが、年収が10万石あると立派な中堅大名ですから(だいたい1つの国が30〜40万石くらい)、1つの町が負担する金額としては相当なものだったことを分かると思います。
それでも堺の町は、それを負担してもなお潰れないくらいの経済規模があったのだと思います。

時の天下人であり、多くの大阪人がひいきにしていた豊臣秀吉や織田信長に漫然と従うこともなかった堺商人。そしてそこに居を構えた武将には、有名なキリシタン大名も。
戦国以前の時代から、堺は大阪とは異質な文化を持っていたのですね。
現在でも政令指定都市となった堺市は、決して大阪市や大阪府に屈することはありません。
良くも悪くもですが・・・・。
 
イメージ 1
堺区少林寺町にある堺環濠都市遺跡の説明板
 
イメージ 2
中世と近世の環濠の位置を示した地図
赤い線で中世の環濠、ピンクの線で近世の環濠の位置を示している。
 
イメージ 3
発掘した堺環濠遺跡の調査の様子
 
イメージ 4環濠の平面図
 

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