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〜大鳥大社:拝殿・本殿のある神域と門と日本武尊(やまとたける)物語 3
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ(2014年1月4日&2月15日)〜
オリンピックの話で順延していましたが、大鳥神社と日本武尊の話の続きを記します。
大鳥神社は普段拝殿より奧の本殿には、入れません。
なので人の目線では以下の画像しか撮れませんでした。
いずれ、上から目線の画像を撮りたいと思いますが、今回はこれにてご勘弁ください。
それでは、日本武尊物語の続々編です。
【日本武尊(やまとたける)物語 3】 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)より
伊吹山ゴンドラ乗り場付近の命水ケカチの湧(ゆ)や滋賀県米原町醒ヶ井にある「居醒の清水」には、伊吹山を下り,毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いたヤマトタケルは玉倉部の清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わっている。
醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われている。 伊吹山での戦いの後,疲れ果ててしまった倭建命(やまとたけるのみこと)は岐阜県養老町あたりにたどり着いて休憩した。しかし,足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった」と言ったそうで、後にこの地を当芸野(たぎの)と呼ぶようになりました。
しばらく休んだ後,再び大和へ向かい、鈴鹿の山を見ながら現在の三重県四日市市から鈴鹿市に入った倭建命でしたが、疲れ果てていて、目の前の急坂を上るために,杖をつきながら歩いたと言います。この伝説に由来する杖衝坂(杖突坂:つえつきざか)が、旧東海道に残っているそうです。
そして、約200mほど坂を上ったところで足を見るとたくさんの血が出ていたので足を洗ったたとされるのが、現在の日本武尊御血塚なのだそうです。
大和を目指して歩き続ける倭建命(やまとたけるのみこと)でしたが,体力は衰え,「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語ったことから、その地を三重と呼んだといいます。
注:「匂(まか)りなして」とは「かおりがして」の意。
ヤマトタケルは終焉の地となるに着く。そして,能褒野(のぼの:三重県鈴鹿市)で力尽きました。
倭建命が「死の直前に、故郷を偲んで読んだとされる。 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし は有名ですね。でもこれを誤訳という説が倭はヤマトと読むかにはあります。難しいお話ですが、興味のある方にはお勧めのページです。
それはそれとして、上記の歌の意味は、
「わが故郷の大和は、国中でもっともすぐれた所だ。重なり合った青々と木々の茂る垣根のような山に囲まれているわが故郷大和は美しい」です。
倭建命(やまとたけるのみこと)死去の知らせは宮にいる妃たちにも届き、三重県亀山市にある能褒野に陵を造りました。
みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,大和の方へ飛んでいきました。
倭建命(やまとたけるのみこと)の陵とされる古墳の場所は諸説あって定かではないそうですが、明治12年に内務省が亀山市の能褒野神社西にある丁字(ちょうじ)塚と呼ばれる前方後円墳を倭建命(やまとたけるのみこと)の陵と指定しました。
(能褒野御墓は全長90m,後円部の直径54m,高さ9mで三重北部最大の前方後円墳で、能褒野神社には倭建命(やまとたけるのみこと)、弟橘姫命などが祀られています)。
三重県亀山市にある鈴鹿市加佐登町の加佐登神社は倭建命(やまとたけるのみこと)、天照大御神を祭神とし、この地は景行天皇が行在所を置いた所であり、高宮の里ともよばれています。加佐登神社由来記によると、ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい、倭建命(やまとたけるのみこと)が最期まで持っていた笠と杖をご神体として祀ったとあるそうです。また、その近くにある奉冠塚,奉装塚には、着物がおさめられたと言われています。
神社の北には白鳥陵があり、倭建命(やまとたけるのみこと)葬られたが白鳥(倭建命の化身)となって飛んでいったという。古墳は東西78m,南北59m,高さ13mの三重県下最大の円墳であり,墳丘には葺き石が一部残っている。
三重県亀山市にある能褒野陵より白鳥(倭建命の化身)が最初に舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)です。
次に白鳥(倭建命の化身)が舞い降りたとされるのは、大阪府羽曳野市の羽曳野市古市で、
最後に白鳥(倭建命の化身)が舞い降りたのが、大鳥大社のある場所だそうです。
古事記によると、白鳥(倭建命の化身)は、12m以上と記しているそうです。
おしまい。
本殿のある神域の門(神門)
αNEX5+16mm広角で撮影
本殿のある神域の外観
αNEX5+16mm広角で撮影 本殿のある神域と拝殿
ニコンD3200+魚眼10.5mmで撮影 |
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