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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜大鳥大社:大鳥美波比神社(2014年2月15日)の謎〜
 サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ             
日本武尊の妃(きさき)→多治速比売
大鳥大社の祭神→天照から日本武尊
日本武尊1→英雄?父に嫌われた子
日本武尊2長い戦いに→傷つき病に 
日本武尊物語3→病に倒れ大鳥伝説
清盛が戦勝祈願→新馬と和歌を奉納
与謝野晶子の歌碑が→産土神だから
謎の祠のままご紹介→石が祀られて
祓堂?と記しましたが→絵馬堂でした
大社内の保存樹→天の岩戸にも関係
美波比神社と神鳳寺他社伝の記録
大鳥大社にはこんな1面→美化に力を
大鳥大社裏の祠にある石は→影向石 
大鳥大社が上からよく見える大鳥造り
 
大鳥大社境内に鎮座する式内社には、大鳥美波比神社(おおとりみはひじんじゃ)があり、同じく式内社である押別神社もこの社に合祀されています。

以前私は、大鳥神社の由来については不明な点が多く、祭神も何度も変わったことは、大鳥大社のご紹介を始めた〜大鳥大社:ご祭神の変遷(2014年1月4日&2月15日)〜においてご紹介しました。
 
大鳥大社は、白鳥伝説が世に広まった第42代天武天皇から第43代元明天皇の頃に創建されたのではないかと云われているそうです。
その根拠となる古い文献に、855年に記された「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」があります。
この文献の706年(慶雲三丙午)の記述に、
「始めて三妃を祭り神宮造営大鳥五社大明神と名付け奉る」とあり、この頃以前からこの地には、神宮寺として『神鳳寺』が存在していた事になります。

大鳥大社の社伝では、祭神を天照大神、創建を第12代景行天皇24年・上野峯(鉢ヶ峯)とされるそうです。
景行天皇24年は、西暦で言うと95年です。

 ここでいう最初の鎮座地・上野峯(鉢峰)の確たる場所は不明だが、南区鉢ヶ峯寺にある法道寺近くの小丘と推測されています。る(南公園墓地付近)。この地は式内・国神社の旧鎮座地といわれ(明治43年、桜井神社-南区片蔵-に合祀)桜井神社に残る縁起によれば、
 「垂仁8年(28年か)、天照大神が鳳凰と化してこの峰に降り、景行24年、神託により武内宿禰に命じて社殿を造営したが、同55年神鳳が千種森に移った。今の大鳥神社(美波比神社)是なり」(大意)
とあるそうです。
この事については、〜トンボ目線で見る桜井神社 その5:桜井神社の真実(2013年7月28日)〜【国神社について】の中でご紹介しています。
 
当社の創建を景行24年・上野峯(鉢ヶ峯)とする真偽は不明ですが、諸資料によれば、現大鳥神社境内に遷座する以前は、北王子村の農夫久保小太郎宅地(現西区鳳南町4丁、当社の南約1km)にあったのですが、それが明治6年(1873)、教部省通達により現大鳥神社境内に遷座することとなり、同12年7月、旧神鳳寺の五重塔趾に遷座し、昭和9年(1934)、現在地(本堂趾)に移ったと伝えられているそうです。
 
つまり何が言いたいかと言いますと、今回ご紹介している大鳥美波比神社(おおとりみはひじんじゃ)の辺りは、上記した謎の多い『神鳳寺』の跡地に建っているとする説があるのです。
 
ところで上記した「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」の「始めて三妃を祭り神宮造営大鳥五社大明神と名付け奉る」という記述の三妃とは、〜初詣:荒ぶる神 素戔嗚(スサノオ)と神社〜でご紹介した神話の中で、天照大神が、スサノオの身につけていた剣を使って生みだした三人の女神(多紀理毘売命:たきりびめ:市寸島比売命:いちきしまひめ/多岐都比売命:たぎつひめ)のことのようです
 
また、大鳥美波比神社(おおとりみはひじんじゃ)の祭神は、上記の「大鳥五社縁起帳」の記述から、現在の祭神は天照大神とされていますが、 他にも根拠不明ながら、庭津日神(ニハツヒ・スサノヲの御子)・天児屋根命(大鳥連祖神)・両道入媛命(フタジノイリヒメ・垂仁天皇の女で、ヤマトタケルの妃)などであるとする説もあるそうです。
 なお明治後期に強行された神社統廃合政策により近傍から合祀された結果、押別命(オシワケノミコト・景行天皇の皇子)・菅原道真・国常立尊(クニノトコタチ)・市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)も共に大鳥美波比神社(おおとりみはひじんじゃ)に祀られているそうです。
 
【神鳳寺について】『和泉国大鳥郡 大鳥美波比神社』より
神鳳寺というのは、大鳥山勧學院神鳳寺と言い、和銅元年(708)に行基が大鳥大社の神宮寺として創建されました。
行基大僧正は堺の出身で一生を民間布教と橋をかけたり潅漑事業にかけた名僧で、生涯に建てた寺は堺の家原寺を始め49寺院もあり、その中でも神鳳寺は家原寺とならび、本堂・不動堂・五重塔・経蔵
・鐘撞堂などを備えた大寺院だったようです。
現在でも大鳥大社の境内は1万5千余坪(14万9,500平方メートル)もある広大な面積ですが、昔の神域
・寺領は現在のものより遙かに大きく神社一帯の丘陵地全体を占めていたそうです。
天正年間に兵火で炎上しましたが、慶長7年11月に豊臣秀頼が再興。
その後再び戦乱で荒廃しましたが、寛文2年3月には徳川家綱が石河土佐守利政を奉行として本殿を造営させて元の姿となりました。
しかし、神鳳寺のほうは慶応4年6月の神仏分離令により本堂・不動堂・五重塔・方丈・経蔵・中門・廊下・鐘突堂・下蔵・紫部屋や左右廊下はすべて取り壊され、ご本尊は堺市百舌鳥の光明院に移され
ました。
また梵鐘は現在は鳳北町の専光寺にあります。
この神鳳寺の本堂と五重塔跡に現在の大鳥美波比神社を移建したといわれていますが、神社の横には当時の神鳳寺跡を何となく窺わせるような石囲いの拝所のようなスペースが残っています。
【押別神社】
延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 押別神社』とある式内社で、明治42年(1909)、境内摂社・大鳥美波比神社に合祀されたという(由緒書などなく現状不明)。社名は“オシワケ”と訓む。別名・別松宮ともいった。
当社の旧社地は、小栗街道(大阪和泉泉南線か)西側の田圃の間にあって広さ300歩、松樫が生えていたというが、今はJR鳳駅の東側商店街の南辺りの民地の中に埋没しているらしい。
当社の創建由緒など不詳で、祭神についても景行天皇の皇子・押別命(オシワケノミコト・古事記、書紀では忍之別皇子)とはするものの、“祭神押別命か”(神社覈録)・“所祭未詳”(和泉国式内社目六稿)・“国忍別命−スサノヲの御子”(和泉国式神私考・神名帳考証)・“石押別命”(大阪府誌)などの諸説があり、いずれが本来のそれか不詳。
当社は美波比神社に合祀されているというが、今、それを示す何らの標示はみあたらない。
 
イメージ 1
大鳥大社の摂社 大鳥美波比神社(2014年1月4日)
鳥居の手前から撮影
 
イメージ 2
大鳥大社の摂社 大鳥美波比神社(2014年1月4日)
鳥居より前で撮影
 
イメージ 3
大鳥大社の摂社 大鳥美波比神社と牛の石像(2014年2月15日)
鳥居より前で撮影
 
イメージ 4
大鳥大社:大鳥美波比神社の南側にある謎の跡地(東側部)
大鳥美波比神社とフェンスで隔てられた南側にある
神鳳寺跡を何となく窺わせるような拝所のような場所
 
イメージ 5
大鳥大社:大鳥美波比神社の南側にある謎の跡地(西側部)
大鳥美波比神社とフェンスで隔てられた南側にある
神鳳寺跡を何となく窺わせるような拝所のような場所
 
私事ですが、windows XPへのサービス終了に伴い、
今回をもってここまで当ブログを更新してきたPCは引退、次回からは新たなPCにて更新です。

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