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〜石上露子 伝説と憧憬 「明星時代」(富田林市寺内町)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ/富田林市寺内町編
〜富田林市寺内町をトンボ目線で:旧杉山家住宅と石上露子(2013年8月29日)〜でもご紹介しましたが、「明星」での石上露子の活動は、わずか5年ほどでした。
にもかかわらず、その名声は伝説となって広がり、人々の心に焼きつきました。
そしてそのことに憧れる文人も現れ、「小板橋」は愛唱され続けた経緯が、三つ目のパネルに紹介されています。
石上露子(いそのかみつゆこ)Ⅲ 伝説と憧憬 詩歌のいのち
石上露子が文筆活動から遠ざかった頃、中央の文壇では思いがけない話が宣伝されていた。大正2年(1913)、女流作家・長谷川時雨が『読売新聞』に「明治美人伝」を連載、そこで、彼女は石上露子のことを『明星』の与謝野晶子ら「五人の女詩人」のうち「最も美しい女」「白菊の花」と賞賛し、悲恋の伝説の歌姫として描いた。
大正8年(1919)、幾多春月が時雨の「美人伝」から「小板橋」を採禄し、アンソロジー『日本近代名詩集』を発行した。「もと新詩社の同人たりし事の外知るところなきも『小板橋』一篇は絶唱なれば特に収」と紹介した。この詩集は当時の文学青年たちにひろく愛読され、伝説的な石上露子像と詩が、人々の心に焼き付けられることになった。
伊藤整は自叙伝的小説『若い詩人の肖像』(昭和30年発表)において、大正時代末頃の青春の思い出のなかで、生田春月が石上露子の「小板橋」を拾い上げたことに憧れ、自分の詩一篇が後世、誰かに取り上げられることがあれば、たとえ「無名の詩人として終わっても我慢しよう」と書いている。
大正期から昭和期にかけて、しだいに戦争の足音が高くなる閉塞した社会環境の中で、露子の歌「小板橋」は若者たちの心をとらえ続けた。爛熟し複雑に分化、流転してゆく世相に対して、詩はその清楚な余情と哀傷の調べだけで詩歌の真髄を守った。本人の消息は不明のまま、「小板橋」はたびたび紹介され、愛唱され続けたのである。
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