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〜石上露子 落葉のくにへ 波乱の生涯(富田林市寺内町)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪シリーズ/富田林市寺内町編
父親に好かれず、家に縛られずに自由奔放に生きた与謝野晶子、旧家の一人娘として家に縛られ、自身の夢や恋を封印しても懸命に生きた石上露子。二人の生涯を比較すれば、不条理にも自由に生きた晶子が幸せな生涯で、苦難に耐え抜いた露子が悲しい末路となります。その作風もまた対照的ですが、二人が世を去って後、現代の女性には与謝野晶子の生き様や歌が好まれ、露子は忘れられていました。
しかし近年、時代は再び露子の生涯に光りを当て始めています。
石上露子は、明治の末に執筆活動をして後、大正・昭和期には、執筆活動は休止していました。その間、世界経済は恐慌もあり、ある時は2児の母として、ある時は旧家の女主人として、彼女は懸命に生きたのです。
世情が安定し、二人の息子も進路が定まったことで、彼女は再び執筆活動を開始しますが、間もなく京都から堺市に移住し、長男と夫の死去という不幸も続き、再び世間(歌壇)からその消息を絶ちます。
次男の戦地からの帰還により、晩年は孫らとのおだやかな時を過ごしますが、農地改革によって杉山家は没落します。
次男の死以後は一人、歌で苦難を紛らわす日々の末、病に倒れます。
三枚目のパネルには、そんな彼女の波乱の晩年が記されています。
石上露子落葉のくにへⅣ 波乱の生涯
「明星」への最後の寄稿ののち、の露子は、執筆活動をすることこそなかったが、長男義郎、次男好彦を育てながら、旧家杉山家の女主人として多忙な日々を送っていたようである。とりわけ、大正9年の恐慌で杉山家の経営が大きな損失を被ると、夫に替わって家計を取り仕切ることもあった。
昭和6年(1931)春、長男が京都大学に、次男が旧制第三高等学校に進学してからは、二人の息子とともに京都に仮住まいし、同年8月から、「明星」の後継誌「冬柏(とうはく)」にふたたび短歌を寄稿し始めた。歌の誌であった与謝野寛(明治38年以降鉄幹の号を廃した)晶子夫人らとの交渉は続いており、京都・鞍馬寺での歌会にも参加している。
この頃、与謝野晶子は露子に「人生は短く、思ひしよりは寂しきものに候へども、せめて詩歌の上に長く生きたく候」と書簡を送り、歌集を編むよう進めている。(松村緑『石上露子集』解説)
昭和9年(1934)暮れ、露子は長男の病気を癒すために京都を去り、堺市浜寺の杉山家別邸へ移った。
我がくるま人のいづこと問はんには落葉の国と告げて遺れかし
(『冬柏』6巻1号、昭和9年12月)
(私の解釈:京都から浜寺へと移り住む際、車屋さんに「どちらへ行かれるのですか」との問いかけに、歌を投稿することは出来なくなるでしょうが、「心配しないで、私は歌三昧の国に行くのですから。」と自分に言い聞かすように言葉を残した。)
注:「落葉の国」という言葉の解釈として、歌謡集「落葉集」を念頭に解釈しました。
「落葉集」は、歌謡集「松の葉」にもれた歌の集の意味で、江戸中期の歌謡集
まもなく長男が亡くなり、夫長三郎も死去。出征していた次男は無事帰り、一家は富田林の本宅へ戻って、孫らとともにおだやかな晩年を過ごす。しかし、敗戦後の農地改革は杉山家を直撃した。昭和31年(1956)、次男好彦が他界した。露子は大きな屋敷を一人で守りながら、歌三昧の生活で思い出の涙をまぎらわせ暮らしていたらしい。
残された歌稿には、戦中から戦後にかけて、厳しい時代に翻弄された灌漑がにじみ出ている。自叙伝「落葉のくに」はこの頃、執筆されたものである。
昭和34年(1959)10月8日、石上露子は脳溢血(のういっけつ)で倒れ、77歳の生涯を閉じた。墓所は杉山家代々のそれとは別に、生前自らふたりの息子をとむらった、河南の深山に抱かれた高貴寺にある。
私は1959年2月の生まれですから、彼女の生前に生まれたんですね。
全く接点のない生涯ですが、何故か感慨深いものがあります。
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