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〜高野山: 真田幸村公菩提所 蓮華定院(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
●真田氏に関するページ●
信濃に散った昌輝と→幸村の首を確認した信尹
彼の死によって幸村の父が家督を→真田信綱
武田家臣から大名になるまで→真田家の変遷
真田幸村のルーツはどこ?→実田が真田に?
幸村の兄信之とその子の墓がある→蓮華定院 さて今日の高野山ですが、予報以上に天気が良く、1日中晴れでした。
高野山では、未だ枝垂れ桜や八重桜が咲いていて、思いがけずラッキーでした。
そこで、今回は『真田祭り』にちなんで、真田幸村公菩提所 蓮華定院をご紹介します。
【蓮華定院と真田家のかかわり】
真田昌幸とその三男真田信繁(幸村)は、関ヶ原合戦で西軍が負けたことにより、上田城で将軍秀忠と戦ったことを東軍の徳川家康に罰せられ、九度山に幽閉されました。
紀伊国に着いた真田氏一行は、しばらくこの蓮華定院に滞在し、のちに屋敷を九度山に築いて移り住みました。 蓮華定院がある高野山は弘法大師空海が開いた真言密教の一大道場で、現在は約20の寺院があります。
蓮華定院は古くから信濃国の小県地方や佐久地方の人々と交流がありました。
「高野山宝物館」で真田氏ゆかりの品々が展示されています。
境内には信之の供養塔があります(遺構としては、真田信之の墓、真田信政の墓)。
【真田信之】真田信之 - Wikipediaより
正式な墓所は長野県長野市の大鋒寺。
真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。 関ヶ原の戦いにおいて、父弟らによって秀忠が遅参したことや、大坂の陣において弟が幕府軍を苦しめたことから真田家は秀忠に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。松代への移封は加増されているとは言え、秀忠の嫌がらせの1つとされている。
後世に「真田幸村」と呼ばれ伝説化した弟・信繁、また「表裏比興の者」と評された父・昌幸と比べると一般には知名度の低い人物である。しかし、長らく人質として過ごしてきた信繁と異なり、早くから昌幸の片腕として活躍し、第一次上田合戦を始めとする北条・上杉・徳川との戦いで勝利を重ねて真田家を守った。この活躍によって、敵方である徳川の重臣・本多忠勝の娘である小松姫を娶っている。豊臣秀吉の死後の混乱期においては徳川に属して家名を守り抜き、徳川の治世下でも幕府に対する忠誠と父譲りの才気で明治まで続く松代藩の基盤を固めたことは、父弟の評価に何ら劣るところはない。
そして、老いてもなお「信濃の獅子」と評され、当時としては異例の93歳という長命は、晩年において戦国時代を生で知る数少ない人物として幕府内でも一目置かれる存在であった。
●辞世の句
「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」
【真田信政】真田信政 - Wikipediaより
正式な墓所は長野県長野市松代町松代の長国寺
真田 信政(さなだ のぶまさ)は、江戸時代前期の大名。信濃松代藩第2代藩主。初代藩主真田信之の次男。
父信之の松代城転封に伴い、その領内で1万7000石を分知され大名に列する。
明暦2年(1656年)、父が隠居したため松代藩の家督を相続したが、わずか2年で死去した。信之は後継の問題で居座っていると信政は思い込み(実際は信之が何度も幕府に隠居を願ったが、将軍徳川家綱が幼少などの理由で認められなかった)、父子間で対立があったとされる。
追伸です。
明日も『真田祭り』に行こうと思っていますが、天気予報がかんばしくありません。
それでも一定の成果が得られたなら、いつかご紹介させて頂きます。
山門の全体像
しめ縄の後ろにも真田家の家紋が、
シンプルでキレのある美しい茅葺き屋根の宿坊です。
中庭には流水紋が描かれています。
脇の門には真田家の家紋、白いなまこ壁が美しい
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