|
〜子安地蔵寺:子安地蔵寺の由緒(和歌山県2014年5月1日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!子安地蔵寺編
前回記した予定を変更して子安地蔵の由緒についてご紹介します。
子安地蔵寺のパンフレットの記述には、
『子安地蔵寺は、天平九年(737年)、東大寺建立に大きな力を尽くした行基菩薩によって開かれたとされています。
御本尊、地蔵菩薩立像も行基菩薩の手によるものと伝えられ、安産・子育ての守護に霊験あらたかであるところから通称「子安地蔵」、地元の人からは「子安の地蔵さん」と呼ばれ親しまれています。
天正九年(1581年)織田信長勢の高野攻めの折り、兵火にあい地蔵堂を焼失しましたが、御本尊は人里離れた山中に難を逃れ、のちに村人によって発見されました。その地は「かくれがた」と呼ばれ現在も残っています。
慶安三年(1650年)、紀州徳川家初代藩主頼宣により復興され、以来、紀州徳川家の安産祈願の寺として篤い信仰を集めてきました。
また、葛城山系三石山のふもとの高台に位置し、東は大峰・高台の山並、南は霊峰高野山を仰ぐ名刹の古寺として真言宗高野山系に属しています。
関西花の寺 第二十四番札所「藤の寺」としても知られ、樹齢百年の古木を含め8集類二十数本ある藤の開花時期は、地元はもとより京阪神方面からも多くの参拝者が訪れます。』
と記されています。
【行基について】
日本の奈良時代の高僧で、河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市家原寺町)に生まれ、15歳で出家し、教学を学ぶ。
僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族層など問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動。生家を家原寺としてそこに居住した。
家原寺は現代も知恵の文殊さんとして受験生などからも信仰を集めていますね。
パンフレットの記述には、『行基菩薩』と記されていますが、最後にご紹介している歴史街道の説明板には、『僧行基』 の文字があります。これは、行基さまも、悟りを開こうとする菩薩になられたということですね。
【徳川頼宣のついて】
徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室のお万の方です。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたります。
【地蔵菩薩について】
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたそうです。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられて、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれます。 仏様には、如来、菩薩、明王、天の4つの段階があるのですが、
如来は、悟りをひらいた仏様で、阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・釈迦如来などがおられます。 菩薩は、悟りをひらくための修行中の仏様で、観世音菩薩=観音さま・千手観音菩薩・文殊菩薩・地蔵菩薩などがおられます。 明王は、如来が化身したお姿で悪人を従わせるため怖い顔をしていて、不動明王・愛染明王などがおられます。 天 は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道の天にいる仏様で、七福神の弁財天ほかたくさんおられます。 つまり菩薩は、悟りを開いた如来になるために修行している仏様とも言えます。
本来地蔵菩薩は、他の菩薩が天におられるのに対して、唯一 地にあって、お釈迦様の付属を受けて心身ともに動揺することなく瞑想にはいって人間としての器や教えを悟る力を身に付け、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒(みろく)菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻(りんね)する衆生を救う菩薩でした。
それが現代では「子供の守り神」となったのは、簡単に言えば、大地は命の母であることから、地にある唯一の菩薩である地蔵菩薩は、やがて「子供の守り神」となったということでしょう。
人の誕生は、輪廻転生のこの世での始まりなのですから。
●では地蔵の前に更に子安がつく子安地蔵とはなんでしょう?
それは、「子供の守り神」である地蔵の中でも、この世に生まれ出る前の子(子だね・胎児)ひいては母体の守り神に特化したお地蔵様と言っていいのだと思います。
瓦には、徳川家 三つ葉蒼の家紋があります。
|
全体表示
[ リスト ]



