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〜高野山:家康霊屋と秀忠霊屋の違い(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
今回の題名にもなっている家康霊屋と秀忠霊屋の違いについてまずはお話します。
まず第一に、以下の1枚目の画像と2枚目の画像を見比べていただくと、家康霊屋の前には鳥居が有るのに対して、秀忠霊屋には石灯籠があるのみです。
これは、前回のページでご紹介したように、家康は徳川300年と言われる幕府の創始者として、死後に朝廷から東照大権現の神号をを授けて神格化されているために鳥居があるということでしょう。
そもそもこの徳川家霊台が家康を祀る東照宮の一つということならば、二代将軍秀忠をその横に祀る必要はないように思われます。
それは元々、代々徳川家との関係が深い大徳院が、東照宮を勧請(かんじょう)することを、幕府に参画していた天海僧正を通して三代将軍家光に願い、創建されたという徳川家霊台ですので、
私としては、大徳院側は東照宮のみの建立を願い出ていたのですが、建立を許可する条件として、三代将軍家光が父である二代将軍秀忠も共に祀るように命じたのではないかと考えますが、真相はどうなのでしょうね。
次に3枚目と4枚目の画像を見比べていただくと、3枚目の家康霊屋の彫り物には、中央に虎、その両脇には中国神話に現れる伝説上の霊獣麒麟が彫られています。
対して秀忠霊屋では、中央に兎、その両脇には虎が彫られています。
恐らく、虎は家康を、兎は秀忠を象徴するもので、中国では聖人が出て良い政治を行うと、麒麟が現れるとされ、兎は子供を一度にたくさん産むことから、豊作、子孫繁栄の象徴とされています。
徳川家の繁栄を願う徳川家霊台としては、とても道理にかなった造りになっていますね。
と思ったのですが、家康は寅年生まれで、秀忠は卯年生まれだから虎や兎が彫られているそうです。
でも私の考えも当たらずとも遠からずだと思うのですが?
もしも皆さんが徳川家霊台に行かれたなら、こうした細かい点に着目して見学されたなら、上辺だけの観光にとどまらず、充実した一日を過ごすことができるのではと思いますが、のほほんと過ごすこともまた大切だとも思えます。あなたはどうされますか?
【二代将軍徳川秀忠について】
秀忠は、徳川家康の三男として生まれ、長兄・松平信康と次兄・秀康という二人の兄がいました。
長兄・信康は、武将としては極めて優秀な人物でしたが、信康の母:瀬名(築山殿)は今川家の血筋で、織田信長の娘である徳姫とは不仲であったことから、秀忠と徳姫も不仲でした。
このことがやがて織田信長の耳に届き、結果的に当時信長に従っていた徳川家康を通して切腹を命じられてしまします。
次兄・秀康の母:於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたのですが、家康の手が付いて秀康が生まれました。そのため、家康は正室・築山殿の悋気(りんき)を恐れて幼い頃より重臣の本多家に預けられ、後に豊臣秀吉の元へ養子にだされてしまいます。
結果として、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子(せいし)として将軍職を継ぐこととなったのです。
ところで徳川秀忠と言えば、以前〜高野山: 真田幸村公菩提所 蓮華上院(2014年5月4日)〜などでご紹介しているように、真田幸村親子とは深い因縁があります。
【徳川秀忠と真田親子の因縁:第二次上田合戦】
関ヶ原の戦いに際し、徳川家康率いる東軍本体や豊臣方の諸大名は、東海道を進んだのですが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は別働隊として中山道を進みました。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があったことが、初陣だった徳川秀忠にとっての不運でした。
秀忠の軍勢は4万近い大軍ですから、まさか田舎の小大名である真田家(軍勢3500人)に負けるはずがないと秀忠ならずとも考えます。
関ヶ原の戦い以前、真田家は徳川家に従っていたのですが、真田幸村の父:昌幸と幸村こと真田信繁は離反して豊臣方につき、幸村の兄:信幸は徳川方に残りました。
この第二次上田合戦の開戦は9月5日、徳川秀忠は上田城とその支城を守る幸村親子に対して「勝ち目のない抵抗はするな」と言わんばかりに城の明け渡しを幸村の兄:信幸らに命じて通達します。これに対して幸村の父:昌幸は、数日間のらりくらりとその返事をせず、あげくに「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と徳川秀忠に宣戦布告、激怒した徳川秀忠は「こんな小国にこだわらずに家康の元へ早く駆けつけるべきです。」との家臣の忠告にも聞く耳持たずに真田との合戦に及びます。
そこで先陣に向かったのは幸村の兄:信幸です。このことを知った幸村は戦わずして上田城の支城(戸石城)を明け渡し、父の立てこもる上田城へ向います。
城明け渡しの返事をのばしたことで既に3日の足止めに成功していた真田親子は、立てこもり戦で更なる足止めと勝利を画策します。
対して徳川秀忠は、支城を落とした勢いに乗して上田城も一気に落とそうと、城からの誘き寄せ作戦(9月8日)を行い、真田勢はこれに掛ったように軍勢数百人が城を飛び出し破れますが、これが真田の作戦でした。
飛び出した軍勢を破って一気に城内へと攻め入ろうとする秀忠の軍勢は、鉄砲隊のもう射撃に合い、城内でも鉄砲弾と矢が降り注ぎ、わずか1日で秀忠軍は敗れます。
秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにしますが、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして関ヶ原に到着したのは9月19日、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまいました。
この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったとか。
関ヶ原の戦いで豊臣方が勝利していれば、真田親子のこの戦いによる功績は、計り知れぬものとなっていたのでしょうが、残念ながらが勝利したのが徳川方だったことから、罪を問われて九度山に幽閉されてしまうわけです。
しかし、そんな真田親子だからこそ、案外心の中では「してやったり」と、ほくそ笑みながら幽閉の地:九度山に向かったのかもしれませんね。
既に記述がことのほか長くなりましたので、分からない単語だらけの徳川霊台のパンフレットの文章と説明文の意味するところを調べてのご紹介は、次回の『徳川霊台について』と題したページでご紹介します。
家康霊屋の外観
秀忠霊屋の外観
家康霊屋軒下の彫り物
家康は寅年生まれだから虎が彫られているそうです。
秀忠霊屋軒下の彫り物
秀忠は卯年生まれだから兎が彫られているそうです。
家康霊屋側面の彫り物
赤い枠内に彫られた鳳凰は、軒下に彫られている麒麟と同様に中国の伝説上の霊獣で、
唐獅子も中国伝来の獅子に日本独特のアレンジが加えられた霊獣に準ずるものですよね。
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