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〜高野山:女人堂は結界所(2014年5月4日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
高野山は、真言密教修行の山として弘法大師によって開かれた聖地です。
しかし、それ以前も、山麓の人々によって神の住む山(神奈備)として信仰があったようです。
その神こそがこの地方一帯を治めていた丹生明神でした。
そして この神を祭り敬っていた人々が高野明神として大師の前に現われたとか。
そこで大師はこの人々よりこの高野の地を賜わり敬い、密教の護法神・地主神として高野山開創にあたって最初に丹生明神・高野明神を伽藍へと勧請し、女神を勧請し、そしてなにより弟子等を修行に集中・専念させるためあえて高野の山を女人禁制としたと考えられます。
ですから、高野山を女人禁制にしたのは女性を不浄の者として閉め出したのではないのです。
現在の女人堂の構造形式は、入母屋造銅板葺の簡素なお堂で、創建当初の形態復元が不可能なほどに改築がされていますが、建物を構成する木材には丁寧な間取りが施されており、室町時代末期の建立と考えられています。
では女人堂は、いつから女人堂と呼ばれるようになったのでしょうか?
堂内には二尊の女神が祭られています。
中央に胎蔵界大日如来座像、向かって右には二臂の弁財天座像が祭られていて、体躯(たいく:からだつき)や彫刻法から江戸時代前期の作と考えられています。
単純に考えれば、二尊の女神が祭られていることが女性の信仰を集め、女人堂の名にふさわしく、これらが作られた江戸時代には既に女人堂と呼ばれていたように思いますよね。
単純な想像は以外に当たるもので、女人堂に置かれていた女人堂についての冊子の中でも、江戸時代頃に女人堂の名称が用いられるようになったと考えられていることが記されています。
ところが女人堂には、弘法大師が開山された以前の役行者(えんのぎょうじゃ)も祭られていますが、弘法大師が初めて開山した山であるいじょう、役行者が高野山で修行したことはないとされているようです。
【二臂の弁財天とは】
二臂(にひ)の弁財天とは、二つの肘を持つ弁財天ということですが、当たり前じゃないかと思いますよね。でもわが国には八臂弁財天も存在するのです。
弁才天(べんざいてん)は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名です。
弁才天 - Wikipediaの記述には、「原語の「サラスヴァティー」は聖なる河の名を表すサンスクリット語である。元来、古代インドの河神であるが、河の流れる音や河畔の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一視され、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつに至った。像容は8臂像と2臂像の2つに大別される。
8臂像は『金光明最勝王経』「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、8本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれる。その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は鎮護国家の戦神としての姿が強調されている。
一方、2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える2臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である。」と紹介されています。
この後の記述と、女人堂に祭られている仏様の画像は、次回に持ち越します。
女人堂
金剛峰寺 高野山と刻まれた石灯篭より向こうが真言密教の聖地です。
女人堂の内部
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