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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜高野山:普賢は東照宮の系譜(2014年5月4日)〜
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編  
 
       【高野山を紹介した過去のページ】
縦位置撮影出来なかった→根本大塔  真田幸村の菩提所→蓮華上院
見事な彫刻を中心に撮影→編照光院  見事な枝垂れ桜の→清浄心院
編照光院ユーモラスな彫刻→天邪鬼  徳川家霊台は東照宮の一つ
 涼しげな色彩→六角経堂・高野四郎  家康霊屋と秀忠霊屋→の違い 
壇上伽藍/唯一焼失を免れた→西塔  虎が兎を生んだ→家康と秀忠 
金堂と再建中の中門とは→伽藍復活  ブツブツが神格化→金輪仏頂尊
上から魚眼レンズ撮影→大門と力士像   国難に霊験示す→波切不動尊
壇上伽藍の三お堂→御影・准胝・孔雀 女人堂本尊→大日如来・弁財天
色彩の対比が美しい→御影堂と大塔  役行者像なぜ→女人堂本尊に
壇上伽藍で俗世の出会い→堺市民  庭園と日本画好きなら→本覚院
  日常に不満?それなら、→無量光院  荘厳(しょうごん)なる→普賢院
秀吉につながる東照宮→興山寺とは  その名に引かれて→日光神社
 日光神社とは→その名のもつ意味  蓮の花托の位置に→金剛峯寺 
 
前回の予告に従って今回は『普賢院は東照宮の系譜』という題目でお話いたします。
実は、前回のページを記す段階では、荘厳なる普賢は東照宮の系譜で書き始めていたのですが、画像も文章も前回紹介した分だけで盛りだくさんになったので、2つに分け、今回は『普賢院は東照宮の系譜』としてご紹介することになりました。
 
ではなぜ私は『普賢院を東照宮の系譜』と紹介するに至ったか ですが、
それは普賢院山門の鐘に、以下のような記述があったからです。
「文禄4年(1595)に鋳造され、慶安、延宝、天明と三度に及ぶ鋳造のしなおしを受けていることが、銘文に記されています。元は興山寺東照宮(現在無し)にあった鐘楼の鐘でしたが、明治42年(1909)に普賢院の山門に移されました。慶安と延宝の鋳造には、現、和歌山県橋本市柏原の鋳工が行い、天明期には和歌山の杉本弥右衛門が行っています。」
 
私は今回、この記述のたった一つの東照宮という文字を手がかりに調べを進めました。
以下の画像をご覧下さい。
なんともど派手な彩色をほどこされているとは思いませんか?まるで、日光東照宮のように。
私は当日普賢院を、「なんと派手なお寺だなあっ。なんでこんなに派手なんだろう」と思いながら撮影していたものですから、普賢院山門の鐘のページで東照宮の文字を見つけた途端に「だからか。」と思ってしまったのです。
「普賢院の四脚門は、元は江戸時代初期に徳川家康を祀る為に建てられた興山寺 東照宮の唐門であったが、明治時代の神仏分離令により興山寺東照宮が廃された後、大火で堂宇を失った普賢院に移築されたのだ。」という記述もあります。
言われてみれば普賢院の山門は唐破風の銅葺き屋根で、
ですが、現在の徳川家霊台は、〜高野山:徳川家霊台(2014年5月4日)〜で記したように聖派(ひじりは)の代表寺院である大徳院東照宮で、興山寺東照宮ではありません。
高野山 金剛峰寺 山奥に広がる壮大な伽藍と門前町には、
「江戸期、高野山の僧侶達は、高野三方(三派)といって、学侶、行人、聖の三階派に分かれていました。それぞれの階派には代表寺院があって、学侶方は青厳寺、行人方は興山寺、聖方は大徳院で統括していました。
 近世高野山の歴史は、高野三方の権力闘争によって形成されたといわれるほどで、時には幕府を巻き込んでの争いごとにまで発展することもあったといいます。」と紹介されています。
そこで大徳院東照宮と興山寺東照宮の関係性ですが、
天正の兵乱と近世高野山寺領の成立 Tenshou Era Wars - 鈴鹿国際大学で公開されている、PDFファイルには、以下の記述があります。
「徳川幕府で高野山内に東照宮建立の話が起こり、寛永期に徳川家霊台が創建されるが、. 家光は紀州藩内の紀ノ川南岸の隅田組中道村の村高 300 石のうち、100 石を 山寺御宮領. にし、残り 200 石を聖方の大徳院領とした。」
つまり、かつて高野山には、興山寺東照宮と大徳院東照宮の二つの東照宮があったのです。
ちなみに、興山寺東照宮の完成は、1631年で、大徳院東照宮は、1643年です。いずれも三代将軍:徳川家光の治世ですが、興山寺そのものは徳川家の財力によるものではなく、豊臣秀吉からの一千石の寄進と、諸国を勧進した施財によって建てられたお寺だそうです
 
現在の金剛峯寺は、は、文禄2年(1593年)豊臣秀吉の母、大政所(おおまんどころ)の菩提のために建立された青厳寺と、天正18年(1590年)に、場所は後の青厳寺の隣であったわけです。その建設費は、天正17年(1589年)以来、諸国を勧進した施財と秀吉からの一千石の寄進で木食応其(もくじきおうご)上人によって建立された興山寺の二寺を合併して、総本山金剛峯寺と称するようになったそうです。
それが証拠に金剛峯寺には、豊臣家の家紋:五三の桐が掲げられています。
(ただし、本来五三の桐は、天皇家の紋として高野山を開山した平安時代から天皇家の家紋で、豊臣秀吉はこれを天皇家から賜わって使用したものです。
桐が鳳凰の止まる木として古代中国で神聖視されていたことに倣って、日本でも一説には嵯峨天皇の頃から、天皇の衣類の文様に用いられているそうです。
空海が嵯峨天皇から弘法大師の称号を下賜された時に、一緒に天皇家の家紋である五三の桐紋もいただいたそうです。なので、金剛峯寺に掲げられたこの家紋は、そちらの意味合いかもしれません。
ちなみに桐の紋は、室町幕府以後は、武家が望んだ家紋とされ、足利尊氏もこれを使用、政権担当者の紋章」という認識が定着します。豊臣政府や徳川幕府では、小判などの貨幣に刻印されたため、全国に流通したことにより、それぞれの政府を表す紋章として定着したとか。)
 
イメージ 1
摩尼堂の金剛薩た
 
イメージ 2
摩尼堂
 
イメージ 4
南門
 
イメージ 3
南門の絵柄
 

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