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〜山岳古道にある日光神社について(和歌山県:2013年7月7日)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!高野山編
【高野山を紹介した過去のページ】
前回から高野山と龍神村を結ぶ龍神スカイライン沿いでたまたま見つけた日光神社を紹介していますが、約20分の工程ながら、かなりハードな山歩きの末にたどり着いたその神社は、以下の画像を見ていただけばお分かりの通り、日光神社という名から連想されるイメージとはほど遠い、朽ち果てかけた姿の社でした。
注:以下の文章はとても長いので、横線で区切った以後の文章から読んで、興味があったら全文をお読み下さい。
日光神社は、「有田川町上湯川室川谷の奥深く、日光山中に鎮座する日光神社。
当神社は、聖地高野山と熊野三山とを結ぶ最短距離の山岳古道『古辺路』ルートの中間に位置し、中世頃に、山伏や行者たちの修錬と宿坊の拠点として創建されたと伝えられています。 当時は、春日作りの権現社殿、4ヶ所の鳥居、38社の密教系寺院が立ち並ぶ威風を誇りましたが、応永26年(1419年)頃の火災により焼失しました。 昭和41・42年に、平惟盛【※】ゆかりの旧家・小松家所蔵の「日光曼荼羅絵図」を参考にした発掘調査が吉備高校清水分校(当時)が主体となって発掘調査が行われました。 曼荼羅絵図にも描かれていた寺社伽藍の礎石や多宝塔などの建物跡、経塚が発見されました。土器や護摩炉・鏡・銅製鈴など多数の遺物も出土しました。 昭和44年には、『史跡日光神宮寺跡』として、町指定文化財に指定されています。」 と紹介されています。
更にこの地には、平家伝説も残っており、
「倉時代の初め、屋島の戦いに敗れた平惟盛(たいら の これもり)は、源氏に追われて紀州のこの地に逃れてきました。
そこで文覚上人に出会い、高峯(護摩壇山)で護摩を焚いて、平家の行く末を「煙が天に昇れば再興、谷に下れば一門の最期」と占ったと伝えられています。 占いの結果は、非常にも煙は谷に下り、落胆した惟盛は名を小松弥助と改め、上湯川に隠れ住むことになりました。 その後、惟盛は村人から「殿様、上様」とあがめられ、徳川時代になっても、藩は惟盛の末裔と称する小松の家系を認め、村の政治を任せられるようになったそうです。 現在の護摩壇山の名も、この平惟盛伝説に由来すると伝えられています。 」という平惟盛伝説(たいら の これもり)も記されています。 「日光神社の開創については定かではありませんが、鎌倉時代前期頃にはすでに熊野信仰の拠点であったことが当時に関する資料から読み取れるので、この神社の創建は鎌倉初期か、あるいはそれ以前に遡ると思われます。
祭神については確定できる考証資料がなく、不詳ではありますが、熊野信仰の山岳密教(天台系)が根源と考えられます。熊野十二社権現をはじめ、中世には蔵王権現・高野明神・春日・若宮など修験道者の神仏混淆の多くの神座(本地)が祭祀されていたことは、小松家所蔵の日光曼陀羅の箱書に「日光三社大権現三八社御絵図入」とあり、室川地蔵堂の日光権現を祭り信仰する「明神講の祈祷札」には「日光七八社祈祷守護」とあることから、江戸末期頃の祭神は急激に増加し、御師・行人たちによって全国的な神座が併祀されたものと考えられます。
ある文献によると、室町時代の応永年中(1394〜1427)に日光社は神宮寺伽藍とともに焼失し、神社だけは再建立しました。
焼失前のこの社の伽藍神社絵図は、上湯川の旧家小松家(平維盛の末裔だといわれる)に伝わっている、いわゆる「日光曼陀羅」と称する絵図です。 様式は熊野那智曼陀羅の構図とよく似ていて、色調は古様で制作は室町期とされています。中世の日光社に関する史料価値が極めて高く、昭和56年(1981)、町文化財に指定されました。 日光曼荼羅は紙本着色、縦150cm、横116.9cm。図柄構造や参詣風俗から推考してみると、日光社の主要建物は春日造り桧皮葺廻り縁の本殿三社・相殿二社・小社などがあり、前庭には鐘楼堂(板葺)と宝殿らしきもの各一宇があり、神宮寺院として左側に多宝塔(桧皮葺)堂宇二宇(板葺)、下段には、寺坊(茅葺廻り縁付)六坊などが主な建物。神社は山中に所在し、遥かに霊峰三山を持ち下方に渓流があり、別当神宮寺院をもっています。神社は、建物や中段の鳥居の中に描かれている巫女の姿や、御湯釜等から推察して熊野系の神社とみられ、日光社の性格は熊野権現を主軸に各地の山岳密教神を合祀し、高野山真言密教と混合した、かなり複雑な地域に根ざした密教修練道場と言うべきでしょう。
この曼陀羅絵図を参考に発掘調査を行った結果、焼失を裏付ける焼土や、寺院建物の焼礎石群が発見され、遺物としては土器では摺鉢、片口、大鉢、石臼片などがあり、金属類では和鏡三面、鈴、貨幣、刀子、護摩炉片などが出土しました。中でも密教のシンボルとする曼陀羅に描かれた多宝塔跡は、約6m(三間四面)の礎石遺構(廻り縁)が1m間隔に整然と残存し、中心部には割石を入れて基礎を固めた中心礎(亀腹)の遺構や、その近辺から銅製の釘隠しや多量の鉄釘・金具片が発掘され、立派な多宝塔が造立されていたことが明らかとなりました。
付近の大杉の切株の下からは経塚遺構(和鏡・刀子)も発掘され、熊野信仰の重要な山岳拠点であったことも裏付けられ、行人、僧侶、聖たちの生活の拠点とされる房庵群の地からは、前述の土器類・炊飯・備膳具類の外に炉跡も発見されました。この発掘調査によって曼陀羅絵図は、明らかに焼失前の日光神宮寺の旺時の姿を描いたものであると見られます。
現在、日光社に残る石像物やその他の記録によると、江戸期には中世の日光社の性格とはかなり異なり、天台・真言・熊野信仰を混合した密教神社として伴神併祀も78社に及んだと言われています。明治40年(1907)、神社合祀により清水八幡神社に合祀され、現在は遥拝所としてわずかに昔日の一部を語る小社一宇と籠所一棟が再建されて残っているのみです。」
このブログでも以前、〜高野山:女人堂は結界所 続編(2014年5月4日)〜で、
「天野社の堂守的な面と行勝上人と同じ修験要素を兼ね備えた集団で、葛城山系や吉野を回る山伏でもあった長床衆らは、高野山の三山である魔尼山・揚柳山・転軸山を巡ったり、高野山の八葉を巡るお鉢巡りの行をする時には女人堂を通過点または出発点としました。」
長床衆も日光神社にも当然立ち寄ったことでしょう。
次に日光神社にこだわって調べて見ると
「日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)」について記したページが複数ヒットします。
二荒山神社は、、栃木県日光市にある神社で、現在の日光東照宮の西奥に鎮座するこの神社は、東照宮造営の際に現在地に移転し、社殿も一新されたものだそうです。
日光二荒山神社 - Wikipediaのページを見てみると、その創建は、奈良時代に勝道上人が二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされ、空海(弘法大師)も訪れています。
そこで次は「日光」で検索してみると、日光 - Wikipediaには、
「日光(にっこう)という地名は820年(弘仁11年)に当地を訪れた空海により名付けられたものであると俗に伝えるが、・・・・・現在、空海が一夜で彫ったとの伝承が残る大谷磨崖仏や佐貫石仏は、平安時代後期から鎌倉時代前期の作と推定されており、これらの時代は日光菩薩像が下野国下にも多く造立され、禅宗の伝来とともに日光山等の山号が国内の寺院に付されるようになった時期と重なる。」という記述がありました。
続いて日光山 - Wikipediaのページを見ると、
「日光が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降であるため、勝道上人が日光の山岳地に分け入ったとされる当時からこの地を「日光山」と呼んでいたかは定かでない」との記述があります。
以上を簡単に言ってしまえば、
全国レベルで日光神社として知られる日光二荒山神社は、勝道上人から始まりますが、上人が日光の山岳地に分け入ったとされる当時からこの地を「日光山」と呼んでいたかは疑問で、日光が記録に見える時期は、真言密教が広がりを見せた頃だということです。
一方で、日光菩薩を含む薬師三尊の中尊である薬師如来 - Wikipediaのページには、「薬師経に説かれていることから、真言宗(東密)では顕教系の如来とされ、本来あまり重視されない。・・・・・一方で伝統的に皇室と結びつきが強かった天台宗(台密)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の帝たる天皇と結び付けられもした。」とあります。
更に、上記した新・紀州語り部の旅 - 紀中 有田川町(清水) | 和歌山県観光情報にあった「日光神社・・・・祭神については、熊野信仰の山岳密教(天台系)が根源と考えられます。・・・・熊野権現を主軸に各地の山岳密教神を合祀し、高野山真言密教と混合した・・・・」という記述もあります。
こうした記述を総合して考えると、私的にはこの辺に、真言密教の聖地にほど近く、有田川町上湯川室川谷の奥深くに「日光」の文字を冠する神社が存在する理由がある気がします。
ところで、日光東照宮を連想させる名でなければ立ち寄ることもなかった日光神社ですが、
●そもそも「日光」という文字には、仏教的にどんな意味があるのでしょう。?●
調べてみると、仏教には「日光三昧」という言葉があることを知りました。
仏語における「三昧」とは、心を一つのものに集中させて、安定した精神状態に入る宗教的な瞑想。また、その境地を言うそうですが、「日光三昧」は、無著法師の修した日光三昧とは何ですか。 - Yahoo!知恵袋によると、「日光三昧というのは法光定とよばれ、ある特殊な禅定に入った状態でチャクラからエネルギーを一挙に放つものです。・・・・・・長くなりましたが、日光三昧とは唯識理論に基づいたクンダリニーヨーガを修し、全身のチャクラから凄まじいエネルギーを発して、人々の煩悩を断ずるために修されたものだった、ということです。」だそうです。
【日光菩薩とは】
一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされる。月光菩薩と対をなす。
紀伊日光社社殿跡
社殿石段下左灯篭
日光神社中央社殿跡
日光神社右社殿跡
日光神社篭所
日光神社跡を示す木柱
日光曼陀羅
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